これは老女の備忘録として書いています。
今朝、お風呂に入っていた時、小さいクモが壁を這っていました。
けっこうな高さまで上がっていたのに、水滴に脚を滑らしたのか、浴槽の淵に落ちました。
クモとの入浴は余り気持ちよくないので、どうにかして浴槽に落とさず、どこかへ逃げて行って欲しいと考えました。
顔を洗う古い泡立てネットの端をそっと脇に置き、その上に渡ってきてくれたところで、ちょっと開いていた窓からポンポンと振ると、めでたく外に出て行ってくれました。
これって、私の自己満足にすぎないと重々承知しているんですけれど、朝から死んでいるものを見るのは嫌でした。
まして手を下して、殺生をしたくはなかった。
命の源はどこからか?ひょっとしてミトコンドリアとか、そのレベルから連綿と繋がってきた生命なら、コモドオオトカゲと人類だってルーツは一緒なんですよね。
そして、今朝のクモだって、遠い、遠い、遥か遠いご親戚???
いやあ~そこまでは考えられないけれど、多種多様の命は弱肉強食の中で繁栄して現在に至るということを否が応でも考えてしまうのです。
命の存在と消滅、その儚さの中で私自身がここに在るという不思議をつい、考えてしまいます。
TVで空爆の惨状が映し出され、幼い子供を抱きかかえて、大人が天を仰いで絶叫する様子を見ると、人が他者の命を奪うことの生々しさと同時に、その軽々しさにしらじらとした気持ちになります。
今あそこにいて、現実を生きているのは当事者、所詮、私は地球の反対側で映像を見ている傍観者です。
人としての共感を無くしてはならないと思うのですけれど、では、どうしたら彼らを救えるのでしょうか。
国家と民族の存続、そして自分たちの生命、財産を守るために戦っていると主張する人々。
どうしたら人は殺戮の歴史を止めることができるのでしょうか。
これが人間の本性なんでしょうか?
自分自身の手を加えた殺生が嫌で、クモを逃がしても、今日も私は他者の命を自分の糧にして生き延びています。私だって、腕にとまった蚊を叩くし、毎日のように肉や魚を食べています。
一時の慈悲心でクモを逃がしたわけでもありません。
死を見るのがいやだったから?その死をもたらしたものになりたくなかったから?
命をまっすぐ見つめると、存在の不思議と、その儚さと自分の矛盾にこころが揺さぶられます。
それでも私はfuzzyの中、死ぬまで生きていくのです。