後期高齢者「愛」について考えた。 | 最後の呟き壺

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あと何年生きるかわからないけれど、今を楽しんで生きるつもりです。その時々の思いを忘れないように記録しています。

これは老女の備忘録として書いています。

後期高齢者一歩手前で自分の最近考えていることでも記録しておきましょうか・・

ふと考えたこと、「愛」って厄介ですよね。
でも、私の場合、無いと生きているって実感できないし。
人間への愛は勿論、動物への愛、無生物への愛?(執着)
一くくりにすればさまざま。
「愛」って何なんでしょうねぇ。

世の中には、いろいろな「愛」が溢れていますが、親の子供に対する「愛」もそれぞれ違っていてあたりまえ。
離れがたい執着や、子供の自立を促し、遠くから見守る、あるいは祈る姿勢も「愛」でしょう。

先日、従妹と話したんですよ。
彼女の息子は母親を召使のように思っているというのです。嫁の言いなりで、その欲求に応えるために母親をこき使うというのです。それでも彼女は息子に嫌われたくない一心で、彼の無理難題に応じているって。
ここにも「愛」という名の元に奪う立場と奪われる立場が現れますよね。

昔読んだ雑誌に、ある喜劇役者さんがこういうこと言ってましたね、「惚れったってこたぁ、弱みを握られたってことだぜ。」なぜか納得してしまい、このセリフを覚えています。

友人との会話にも、離れ小島で二人っきりになった親子、恋人同士、または夫婦はどっちが先に死んでいくかという問答で、結論は『多く愛している方が先に死んでいく』ということになりました。
だって、自分は我慢しても愛する者に食べ物を渡したり、危険に率先して立ち向かうから・・・というまことにバカバカしい会話です。

思うに、「愛」には残酷な一面があります。
同質、同量の「愛」の関係はまずないということです。
天秤で量れば、必ずどっちかの方に偏って下がってきます。
とすれば、「愛」の関係では二者間の闘争を巻き起こしたりするのも当然ですよね。
こじれた恋愛をしている恋人同士が刃傷沙汰を起こすなんていつの世にもありますし・・

神様のいう「愛」は奪わないものなので、色恋の「愛」とは違うらしいのですが。それでも自己犠牲を伴うのが「愛」の本質としたら、これはこれで、なんとも理不尽なことと思うのは私の心が狭量だから?でしょうか。
もっと言うなら、私がエゴイステイックだから?

けっきょく、強い心の執着は往々にして自分自身を傷つけてしまう感情なんでしょうね。

従妹がいってました、「子供を産んだ瞬間からこの子のためなら死んでもいいと思った。」と。彼女の中でその気持ちが揺ぎなく続いているのでしょう。

親子、恋人、夫婦なんでもいいのですが、「愛」という感情は厄介なところがあります。
後期高齢者直前の私が願うのは、せめて世の中の恋人達が
少しでも長く相思相愛でいてくださいね、ということです。
お節介なことですよね。笑 
でも思うだけで誰にもいいませんから・・ね。
世の中の「愛」に悩む人たちへ、もし「愛」の均衡が崩れたら、ボロボロになる前に強く執着する心を手放して、新しいフィールドへ旅立ってください、と願うだけです。

こんなくだらないことを考えて過ごす毎日なんですね。
私、この頃、自分が透明になりかかっているような気がしてなりません。
認知症がきたかな?栄養が足りないのかな?
とりあえず、肉でもたべましょうか・・