昭和懐古 ❓ | 最後の呟き壺

最後の呟き壺

あと何年生きるかわからないけれど、今を楽しんで生きるつもりです。その時々の思いを忘れないように記録しています。

これは老女の備忘録として書いています。

NHKがかってのヒット番組「プロジェクトX」を再放送するらしいですね。
そのお知らせを今朝見ました。その中で、どんな回を希望ですか?と道行く人々にインタビューしていたところ、40代ぐらいの男性が「昭和を見たい」とおっしゃっていました。私から見たら、こんな若い人に昭和は魅力ある時代と映るのでしょうか?いささか疑問をもちました。

昭和に生まれ、昭和にどっぷりつかって育った私にとって、あの時代はどんな時代だったのかと問えば、俯瞰しては見られないので、身辺の些細なできごとからといていくしかありません。

あの頃は、ファッションと言えば、ツイギーに象徴されるミニスカートの出現で、私なぞ、のけ反るような衝撃を覚えたことを記憶しています。
ミニスカートを穿いていいのは小学生までというのが暗黙の了解、社会常識になっていましたから、大人の女性が膝小僧丸出しなんて、とんでもなく恥ずかしいこととされていました。それが、小枝のように細い女性がミニスカートで現れて世界を席巻したのです。びっくり仰天、そして、なんとなく女性の頭上の見えない重しが取れて、清々しい風が吹いてきたように感じました。
勿論私も、おっかなびっくり真似してミニのタータンチェックの巻きスカートを穿いてみましたね。その頃は、もう周りはミニだらけだったので、群衆に紛れて、恥ずかしさも半減していました。笑
でも、一番衝撃を受けたのは、当時の総理大臣佐藤栄作夫人が訪米の行き?帰り?に飛行機のタラップの上でミニスカート姿で手をふられていたことでした。当時多分、50歳はとうに超えていたと思います。
なぜ、そんなにも驚いたのかというと、これまで、この国では総理夫人は極力目立たないようになさっていた方々ばかりでしたから、その姿はとても新鮮な驚きでした。ええ、とても似合っていらっしゃいましたよ。

そうそう、昭和といえば、学生運動が盛り上がっていて、それが東大安田講堂占拠などの過激闘争に続き、行きつくところはあさま山荘事件に繋がっていったのでしたね。学生時代の知り合いも何人か、いつのまにかキャンパスから消えていました。その後の消息はわかりません。

それから、三島由紀夫の市谷駐屯地での割腹自殺も、昼休みのクラブ活動中に
「大変だぁー!」と血相を変えて飛び込んできた先輩の第一声から知りました。
それまで、三島由紀夫文学に関心がなく、彼の主義、信条の解説を、当時英会話を習っていた米国夫人から初めて聞きました。彼女は三島の大ファンで、よく読んでいましたからね。その時、三島の同性愛について初めて聞いた私はひっくり返るほどびっくりして、その日の会話レッスンはすっ飛んで、すべて三島の同性愛の話題のみになってしまいました。

経済は田中角栄の「日本列島改造論」をもとに、全国各地で土木工事が起こり、空前の好景気が沸いた矢先、それに水をかけるような第一次石油危機(1973)が起こり、どんな因果かトイレットペーパーが不足するとの噂が流れ、人々が買い占めに走ったという笑えないドタバタ現象がありました。この時は、本当に「群衆心理」の ’’やばさ”というようなものを肌で感じましたね。

私の青春時代は、戦後を引きずっていました。沖縄返還が1972年5月にあり、時の総理大臣佐藤栄作は悲願だった沖縄返還締結で「これでとうとう戦後は終わった。」と考えたかもしれません。
しかしながら、その締結は、実に魑魅魍魎とした交渉裏舞台をもち、その内容は国民に一切知らされていませんでした。
敗戦国・日本がそれまでの価値観を脱ぎ捨て、民主主義という新しいイデオロギーをまとい、世界に承認されるべく恐る恐る踏み出していった時代が、
私の生きた戦後の昭和という時代でした。 

人々の信仰はもっぱら「金」になったかのようなところも垣間見え、なにやら居心地の悪い時代がやってきたなぁと感じる昨今ですが、いえいえ、いつの時代も
混沌のなかに道が続いているものだと信じています。
それが、戦争に行きつかないように、生きている限り、心して見守りたいと思っているのです。
例え、その時間があとわずかだとしても、私が生を受けたこの国が、どうか再び
戦火にまみれ、多くの命を失わないように見守りたいのです。