






何か確信があったわけではないがこの冊子を取り寄せではなく、直接買い付けに行こうと思っていた。意外にチャンスは早くきた。鹿児島市の鴨池港からフェリーで垂水に渡りバスで航空隊前に到着した。資料館2Fは原則的に撮影禁止エリアだった。窓口にて魂のさけびを購入して旧帝国海軍の展示エリアを進むと特攻隊員の遺影のエリアに入る。窓口でここの資料館は鹿屋基地だけでなく特攻隊員として戦死認定された英霊の遺影を展示していると確認していたので叔父を探した。叔父の遺影はやはりここにあったが壁面の遺影の下のショウケースに更に遺影と白い布が展示されているのが見えた。帝国海軍の航空兵が首に巻く白いマフラーに叔父の自筆の辞世の句が細筆で書かれていた。”魂のさけび”に記載されている叔父の遺言とされる句であった。解説に出撃直前に叔父はこのマフラーと遺書を整備兵に託して飛んでいったとあった。
私が東京恵比寿の防衛省防衛研究所の戦史資料館で見つけた叔父の遺書とマフラーの辞世の句。何故遺言とされる物が二つ存在したのかこれで理由が解った。70年の歳月を経て遥か故郷から離れた地で叔父の遺した字を見るにあたり多少なりとも気が動顚してしまった。落ち着くのをまって窓口に行き遺族関係者である事を説明して白いマフラーの辞世の句を海上自衛官立会いの下で撮影させてもらった。担当の自衛官は英霊のエリアを出入りする度に遺影に一礼している。遺影、遺品は遺骨と同様に扱われるようだ。撮影後に当資料館の叔父に関する展示資料をプリントして持たせてくれた。担当自衛官が退館するまで付き添ってくれ、遺族関係者に敬意を表しているのが解り恐縮してしまった。
亡父が言っていた”知覧から零戦に乗って沖縄で死んだ。”と言う間違いをやっと正す事が出来たと思う。叔父は昭和20年3月19日に第一国分基地から彗星33型に乗って九州沖航空戦で散華したのである。少し肩の荷が下りたような気がすると同時に少し疲れた気持ちで帰路のフェリーから見た桜島を叔父も見たのだろうと思うと様々な思いが駆け巡るのである。