私はこんな人 | フルメタルジャケット

フルメタルジャケット

こんな時代だけれど、日本のモノづくりを再起動したい。

このブログを書いている私の現在とこれまでについて紹介します。

 

私は現在64歳。

京都にある自動車ディラーのお店でクルマの洗車と雑用のアルバイトをしています。

 

他には副業で、エンジニア向けのWEBのライティングや監修の仕事を貰っています。

 

 

私は近畿大学理工学部を卒業の後、旧神戸商船大学(現在の神戸大学)の大学院修士課程を修了し、1986年に大手光学メーカーであるHOYAに入社し、半導体用フォトマスクに関する様々な技術職を経験したのち、品質保証係長になりました。

1995年にスカウトされて世界最大の半導体検査装置メーカーであるKLA-Tencor社の日本法人に転職。アプリケーションエンジニアとして活動しました。

 

主な担当先は日本電気で、同社で最後のポジションはアカウントマネージャーでした。

2000年に誘われて、日本電気が開発中の最先端のフォトマスク検査装置の開発プロジェクトに技術系コンサルタントとして参画しました。

その時に個人事業主として独立し、ビンテクノロジーズという屋号を付けました。

 

これが起業家としての始まりです。

その後、2006年からは日本電気と東芝やその子会社ニューフレアテクノロジーが進める後継機のプロジェクトにも参画しました。

この間、2005年から1年おきに急性心筋梗塞で3回もカテーテル手術を受け(横浜市立みなと赤十字病院で2回、神奈川県立循環器呼吸器病センターで1回)、”生きているのが奇跡”とか、”予後不明”とか、”頑張れば5年とか10年生きている人もいるぞ”とか言われ健康的に苦しい時代を経験しました。

 

私のブログのタイトルのフルメタルジャケットとは、心臓に9個ものステントが入って、サイボーグ化されたような状態を言うそうです。

 

そうならないためには、日々の食生活が大切です。

 

それでも、その都度懸命にリハビリを行い、循環器呼吸器病センターの循環器部長をもって、”前代未聞の回復”をなし遂げました。

 

この調子で行くと65歳位まではまで生きられるかも知れないと。

2009年には横浜市に法人成りの形で株式会社アジャイル・パッチ・ソリューションズを設立しました。

 

環境エネルギー産業情報No.4 2010年2月16日

 

この会社は、最先端ではなくて2巡目の需要を睨んだ、グリーンテクノロジー時代に備えるフォトマスク検査装置の開発をテーマとしていました。

しかし、リーマンショックの直後で投資環境は最悪、資金集めには散々苦労しました。

 

そして、同社の事業が、経済産業省の委託事業と、神奈川県の委託事業にダブルで採択され(NEDOの委託事業も最終選考で辞退するおまけつき)絶頂期を迎えました。

 

日刊工業新聞2011年12月 6日

 

そして、2011年の東日本大震災を迎えます。

 

それ以前にも増して冷え切った日本経済&投資環境と、たとえ天変地異の災害が起きても一度認可した計画の変更は認めないという役所との間で資金繰りに苦しみ続け、2013年にこの会社は終焉を迎えました。

 

その当時、会社の再建を考えながら海岸線をさまよいながら考えたのがサーフィン発電です。

 

地元の超大物政治家が会社に秘書をよこして相談に乗ってくれたり、日刊工業新聞の幹部が取材に来てくれたりもしましたが、時既に遅しで会社の再建はかないませんでした。

 

その時の日刊工業新聞の人が曰く

「このアイデアは世に出たら誰もがやりたがるでしょう。

 でも、今の日本では世に出るまでに最低10年はかかるでしょう。」

 

結局会社は倒産、自宅は競売で取り上げられ、全ての財産を失いました。

 

サーフィン発電を世に出すという夢だけを残して。

 

その後は、アパートを見つけ日雇いのレンタカーの洗車と回送の仕事を得て、再起の一歩を踏み出し、レンタカー店のナイトクルー、ドラッグストアへのルート配送のトラック運転手、自動車ディラーでの洗車など、クルマの運転好きを活かした仕事をしてきました。

 

 

おそらく、私だったら半導体関連で定職に就いた方が生活は早く安定したことでしょう。

 

でも、そうするとおそらく、「サーフィン発電」を世に出す夢は持ち続けることはできなかったでしょう。

 

 

BinTechnologiesを19年ぶりに再起動して、

日本の様子見社会に最後の挑戦です!!