「価値があると証明する」のをやめて、
「価値がある」ことを前提に生き始める


何かを足すことで

価値を高めるのではなく、

何も足さなくても価値がある。


そこに一寸も疑うことなく信じれば、

それは事実となる。



前回の投稿、「自己一致」には、

そのような気づきがありました。



今まで信じてきたことが、

実は逆だったわけです。


ぼくを含め、

多くの人は何かを足すことで

自分の価値が高まると信じてきましたよね。



お金、社会的地位、名誉、人脈、


など。


それらを多くもつ人を

「成功者」と世間は評価し、

みんなはそれをゴールとして目指します。



この考えはどこから始まったのでしょう?



きっと、

ものごとを学び始めたころからのようです。



よくできました💮


はなまる❗️



出来がわるければ、


もっとがんばりましょう!





親や先生から評価されれば嬉しい。



褒められると、

それが愛情だと受けとる。



周りの評価=愛される実感





ものごころを覚え始めるところから、

周りから評価されることで、 

安心できると共に、

愛されたと実感を感じてきたようです。




それが、

わるいことだとは言わない。



多くを学び、

学びから活かせることはあるから。



ただ、

自分がどう感じているかを見ることなく、

周りの評価ばかり気にするようになると、

人生を生きていながら、

その実感は希薄なものになるだろう。



なぜなら、

自己一致とはかけ離れたことをしているから。




自己一致についてもう一度書こう↓


何かを足すことで

価値を高めるのではなく、

何も足さなくても価値がある。


そこを一寸も疑うことなく信じれば、

それは事実となる



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前々から、

やろうとしてきたものがあります。


準備もほぼできました。



いよいよやろうとする段階ですが、

それは何のためにやるのか?


という問いを持てた意味は大きい。



やることを通して、


お金、地位、名誉、人脈


など外から評価を得ることで

自分を満たそうとするのか?



はたまた、


内から湧いてきたものを

表現することを目的とし、


表現した結果として、

外からの評価が付いてくるのか。



ここは似ているようだけど、

まるで違う。



それは、周りの人からは見えないもの。



本人が自己一致から始めているのか、


もしくは、

外からの評価を高めることで、

いつか自己一致は高まるものだと思い込み

延々、そのループにはまるか。




初めから内面が満たされた状態なのか?

それとも

不足を埋めるためにやるのか?



自分はなぜそれをやるのか、

観察してみてはいかがでしょうか。