「行動がだいじ」だと、

あっちも、こっちも、

耳にタコができるほど聞きます。



行動するから変化が起きる。




そこに異論はないけれど、

そもそも、

その行動は何のためにするものか。



問いを置くといいかもです。



自分のやりたいことならやればいい。




でも、

人の期待に応えるためだったり、

評価を意識したり、

また、

不安から目を逸らするためなら、

どうでしょう?



案外そういう人が多そう。






行動しなければ何も起きない。


それはわかる。





成功した人は行動してきた。


それもわかる。





ただ、成功した人は、

在り方が整っていたと思う。




前提がだいじなんだ。




逆に、在り方がズレたままやると、

結果も出ない。



結果が出ないのは、

行動が足りないからだと自分を責める。




教えてくれた人に非難は向かわず、

不甲斐ない自分を非難する。



そうならないためにも、

やり方より、

在り方というように、

本来の状態に還ることが先だと思うんです。




在り方がズレたままだと、

やり方もズレちゃう。




在り方が、根っこで、

やり方は、枝や葉だから。





在り方を整えれば、場と共にあれる。



自分も相手も一体化する。




我から始めれば、

どっちが勝ったか?

どっちが偉いか?

どっちが、、、?



その結果、

得たはずなのに満たされない。

得たはずなのに不安が消えない。



こんなはずじゃなかった。。



在り方がズレたままだと、

結果もズレる。





だからまずは、場に意識を置く。






ぼくが見つけたように言ってるけど、

何のことはない。


先人たちが、ずっと前から言っている




在り方を表すもは、

呼吸、余白、間、肚など身体的なもの。



人は頭よりも、

本来は身体が優位じゃん。

(そう思える)



考えて分からなくても、

感覚は察知している。





場に意識を置くマスターレベルになると、

何も語らずとも、


「お主できるな!」


と相手を察知する。


(見立ては驚くほど正しい)



そして無用な争いもしなかった。





これまで、やり方による競争は

分断が進みました。



個人も、社会も、国レベルでも。




「う〜ん、なんだかおかしいな」、

と気づいた人から、一旦立ち止まる。

(行動本位でいいのかと)




そして思う。



やり方の前に、

在り方じゃなかろうか?




そして在り方を捉え直す。




このような流れを経て、


相手より優位になる競争から、

つながり、一体化(和)し、

実りを増やし、分かち合いへ進む。




2026年は、

今までの延長線じゃなく、

我から場へと移る元年になるじゃろう。

(大胆予測)