Appadiyah* ~ in India ~

Appadiyah* ~ in India ~

南インド出身のドラヴィダ人の夫と共にタミルナドゥ州コインバートルに在住。
“Appadiyah”とは、タミール語で「へぇ、そうなんだぁ」「へぇ、ほんとに~!」という意味の感嘆語。なんとなくその言葉の響きが好きなのでブログのタイトルに。

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日本の終戦記念日にあたる8月15日は、インド独立記念日でもある。

 

今朝はアパートのアソシエイション主催で、公園にて国旗掲揚が行われた。

 

 

国旗掲揚、国歌斉唱の後は、ちょっとしたお茶とスナックが振舞われる。

 

インド人のこういうところが、私は結構好きだ。

 

愛国心がどうこうという堅苦しいものではなくて、

自分たちの祖先が辿ってきた歴史を含めて、

今ある自分の生まれ育った国を誇りに思うことは、

私は、とても人間らしく、そして尊いことのように思う。

 

信仰心も、ご先祖様を敬う気持ちも、両親への尊敬の念も、郷愁の思いも、

自分が属するものや自分のルーツ、信じるもの、大切な人への敬意だったり、

自分のアイデンティティの一部だったり、、、、

特別なものではあるけれど、なにも特殊なものではないと思う。

 

人種も宗教も言葉の違いも超えて、国の界なく平等に、、、というのは究極的な理想論かもしれないけれど、

人はそんなに達観できないし、できなくていいのではないかと思う。

 

今朝、「Jana Gana Mana」を聴きながら掲揚されたインドの国旗を見上げて、

とてもほのぼのとした気持ちにはなったけれど、あくまでも私は客観的にその風景を眺めていたし、同時に日本のことも思っていた。

 

アシュウィンと杏樹は、何故か「日本人」であることにこだわっているのだけれど、

その根拠となるものが、いつか曖昧になっていくか、揺らいでいくか、もしくは全く変わっていくか、、、、、私には分からない。

 

 

 

夫「車をネズミにやられてかもしれない」

 

私「え?.........車を?..............ネズミに?」

 

またしてもネズミ?

しかも、車って?

どういうこと?

車内に入り込んだってこと?

 

夫いわく、ネズミというのは、車の下やボンネットの中に入り込んで、

そこでワイヤーをかじったりするらしい。

 

夫「そんなことも知らないの?ネイビーの船の中でもネズミは大きな問題なんだよ」

 

私「船の中でネズミが問題になるのは知ってるけど、車にネズミが入り込むなんて聞いたことなかった」

 

そもそも、トム&ジェリーのようにネズミが日常に登場する身近な動物、、、、という認識があまりない。

 

それに、ネズミが無害な動物なら、のら猫やのら犬と同じカテゴリーに入れられるのだけど、、、。

 

まあ、人間は無害なのかと言われたら何も言えなくなってしまうのだけれど。

 

私「それにしても、なんでネズミが入ったと思ったの?」

 

夫「昨日、ハトの羽が3枚車の下から出ていたから、ハトの死骸(の一部)を加えたネズミが侵入したかもしれない思って」

 

ということで、まだ憶測にすぎない。

ブログといい、Youtubeといい、Twitterといい、インスタといい、

本当に色んな人が色んなことを表現したり、発信したりしているんだなぁと、改めて思う。

思う、、、、、というか、驚く!!!!

 

表現できる場があると、人ってやっぱり自分を表現したり、何かを発信したり、

誰に共感してもらったり、認めてもらったりしたいと思うものなんだな、、、、。

 

自分の作品だったり、

自分の体験談だったり、

自分で企画して演出したものだったり、

本当に多種多様な表現がある。

 

 

情報発信系以外のものでいうと、

テーマがはっきりとしていて、なおかつ面白いもの、

企画が面白いもの、

作品がすばらしいもの、

がランキング上位にきていたり、フォロワーが多かったりする。

そして「プロフェッショナル」という肩書きなんかなくても、クオリティが高い!

 

 

このネット世界で、目に見えない電波を通して、

いかにグローバルに、そして顔の見えない繋がりが広がっているかということを、

今更ながら、本当に今更ながら実感する。

 

 

今の時代、素晴らしいものや人に出会える可能性は無限大なのだけれど、

私は膨大な情報や、限りない選択肢が与えられると、半思考停止状態に陥る。

 

でも、

自ら発信するか、自ら探していくか、、、

結局はやっぱり自分が動かなければ、何かに繋がっていくことはないのだとしみじみ。

インドでは、ご飯を手で食べるのは普通。

 

ご飯にダールスープやグレイビー(カレー)をかけたものも、

手でマッシュしながら塊をつくって、5本指で掴み、

それを親指で押し出すようにして口の中に入れる。

 

お皿に残った液体も、手の小指側のサイドを巧みに使って集め、

手首ををくるっと回してすくい上げる。

 

インド人曰く、

スプーンでご飯と混ぜるのと、手でマッシュしながら混ぜるのでは、美味しさが全然違うのだそうだ。

 

もちろん、食前食後の手洗いは、石鹸を使って入念に行っている。

 

ところ変われば、文化や言葉同様に食のスタイルも違うので、手で食べることには抵抗感はない。

それでも時に驚くこともある。

 

4年前、アシュウィンのお誕生日に、はじめて学校にケーキを持って行ったときのこと。

カットしたケーキを各プレートにより分けるのも素手、

子ども達にもフォークは配布されず、皆当たり前のように手で食べていた。

もちろん私も手で食べた。

これはさすがに想定外で、ちょっと不意を突かれた。

 

インドのキッチンでも、食品を手で触れる姿は普通にみられる。

要は、手=スプーン感覚なのだ。

 

私自身も気づかないうちに、食品を手で触れることに対する感覚、抵抗感が麻痺してきているのを感じる。

インドにいる分には問題ないけれど、日本に帰ったときには気をつけないと、

マナーや育ちを疑われるだけでなく、人に嫌悪感すら与えかねない😅

 

ちなみに、杏樹はインド式で、基本的に手で食べることが多い。

アシュウィンは中途半端で、基本的はお箸やスプーンなのに、同時に手を使っていることがあって、日本的にはただのお行儀が悪い、躾のできていない子状態になってしまっている(笑)😅

二人ともインドは手でOKで、日本では手はNGとの認識はあるものの、まだうまく使い分けられていない。

そもそも、大人の私ですら感覚が麻痺してきているのだから、子供たちはなおさらだろう。

 

 

 

小さな頃からものごとをロジカルに理解するタイプだったアシュウィンには、

大切なことを話して聞かせるときや叱っているとき、

私が言っている内容を理解して、それをきちんと飲み込んでいるなという感触があった。

 

でも杏樹の場合、

 

どうも話をしていても、私の言葉が右から左に流れていっているような、

意識の半分が自分の世界にはいっていて宙に浮いているような、、、いつもそんな印象をうける。

 

彼女の世界を包んでいるシャボン玉のような膜に、私の発する言葉の半分くらいが吸収されたりはじかれたりしているような、

何んとも言えない変な消化不良感、暖簾に腕押し感。

 

だから、本当に飲み込んで消化してほしいときは、

杏樹の意識をこちらに向けて、そこの部分を丁寧になおかつ簡潔に伝えるようにしている。

 

それでも杏樹はケセラセラ、、、、という感じで、ある意味羨ましくさえ思ってしまう。

 

繊細で少し複雑なアシュウィンの思考構造にくらべて、杏樹のほうが単純で感覚的なのだけれど、それがときに掴みどころがない、、、、、

いやむしろ、彼女にとって自分の世界以外のことはあまり興味がないといったほうがいいのかもしれない。

インドの自動車免許を取得して、一人で車で買い物に行くようになった。

 

インドで運転できれば、どこでも運転できるよ、、、とインド人は言う。(バングラもそうだった)

 

右から左から飛び出してくるバイクやスクーターが怖いというと、

「向こうがよけて行くから、気にしなくて大丈夫」と言われた。

 

バイクのドライバーはインドの道路事情を知っているから、向こうがちゃんとうまいことかわして行くとのこと。

多少接触したとしても、それは大したことではない。

確かに、、、とそこで妙に納得した。

 

今日は久しぶりに自分でフレッシュチキンを買いに行った。

 

路上の小さな掘っ建て小屋のようなところで、チキンやヤギ、ポーク、ビーフなどが売られている。

チキンは、生きている鶏をその場でさばく。

 

2.5キロのチキンをオーダーすると、目の前から2羽の鶏を捕まえた。

2本の脚を合わせて逆さにすると、ためらうことなくまず首を切り落とす。

それをバケツのような容器に入れてしばらく放置する。

血抜きをするためだ。

 

バケツの中で、頭を切り落とされた鶏がバタバタと動く。

バケツがカタカタカタとなる。

その工程がダメでこのフレッシュチキンを購入できない知り合いの日本人は、このチキンを「カタカタチキン」と呼んでいた。

 

チキンの動きが止まると、体を覆っている羽を剥ぐ。

お店の外まで血のにおいが漂ってくる。

血のにおいというのは、あんなにも強く鼻につくものだっただろうか。

 

久しぶりにその光景を見て、

あ〜そういうことだよね、、、と思った。

 

躊躇なく首を切り落とし、

慣れた手つきで鶏をさばいていくショップスタッフに対して別に何かを思うわけではない。

 

大量生産大量消費の時代だから、仕方がない。

 

ただ、目の前で見ているシーンとは少し対照的な、星野道夫さんの本にあった、アラスカの人々のクジラの解体作業の描写を思い出した。

 

それから、15年以上前に中国奥地の山で見た、少数民族の牛の解体儀式のシーン。

その解体がとても美しいと思ったのを思い出した。

 

適当な大きさにカットされたチキンは、家に帰ってもまだその温もりが残っている。

血や砕けた小さな骨を取り除きながらよく洗い流す。

 

彼女は若くて、バイタリティがあって、いつもとても自信に満ちた話し方をする。

 

好きな花は、バラとロータス。

 

彼女のような女性は、バラの艶やかさや煌びやかさに見劣りしない。

 

でも、あえてロータスを選んでみた。

 

バラはなにか強すぎて、私が特別に好きではないからかもしれない。

 

でも、バラでもロータスでも、彼女はやはり華やかで美しい。

 

Beauty Queen 😍

 

年下の彼女は美しく、そしてとても可愛らしい女性だ。

 

気が強いけれど、少女のように無垢なところもある。

 

私とちがって、美容やファッションにとても気をつかう、、、という意味での女子力が高い派。

 

描きながら、ギリシャ彫刻のような顔をしているなと思った。

 

ポートレートを描く際、

いつも数枚送ってもらった写真の中から私が選んで描いている。

 

表情がいいもの、この表情を描きたいなぁと思って選んでいるのだけれど、

私が描くと妙に落ち着いた表情におさまってしまっている。

 

せっかく表情で選んでいるのに。

むしろ少々誇張するくらいで描いてもいいのに。

 

無意識のうちに、失敗しないように、そこそこの無難なところでまとめようとしているのかもしれない。

 

心にとめて、次回からのポートレートにのぞもう!

 

 

 

Facebookの投稿を見て、

以前バングラデシュで知り合った方から、娘さんのポートレートのリクエストをいただきました。

 

来月がお誕生日のため、、とのこと。

そんな特別な機会に描かせてもらえて、すごく嬉しい😊

 


 

結婚して20年以上もたつラブリーカップル。

 

人がポートレートを描いて欲しいと思う理由はどこにあるのだろう。

 

写真が発明される以前、いかに実物とそっくりであるかに価値があった時代もあった。

でも今の時代、写真ではなくて、あえて手描きのポートレートの理由とは。

 

もしも自分がポートレートを描いてもらうとしたら、どんな風に描いてもらいたいだろう。

 

私だったら、、、、自然な笑顔のいい表情で、なおかつ自分らしさがみえるポートレート、、、だと嬉しいかな。

 

きっと、持っていて、飾っていて、いいエネルギーをもらえるかもしれないし、

落ち込んだりしたとき、その絵の中の自分を見てなんとなく「大丈夫」と思えるかもしれない。

 

でもそういう意味では、ポートレート写真も同じなんだろうなぁ。

もちろん、人それぞれ考え方や求めるものは違うだろうけれど。