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Appadiyah* ~ in India ~

南インド出身のドラヴィダ人の夫と共にタミルナドゥ州コインバートルに在住。
“Appadiyah”とは、タミール語で「へぇ、そうなんだぁ」「へぇ、ほんとに~!」という意味の感嘆語。なんとなくその言葉の響きが好きなのでブログのタイトルに。

昨日あるビルを訪ねた。

 

用を終えて階段を下りているとき、踊り場の窓から見えた景色にふと目が止まった。

 

完全な廃墟。

木の根が建物の壁をはい、開口部はほぼ崩れ落ちている。

かつては新聞工場だったらしい。

 

この工場が全盛だったころのコインバトールはどんな感じだっただろうと、しばらく想いをはせる。

 

このエリアも少しずつ開発が進んでいる。

数年後にはこの廃墟も売りに出され、新しい商業ビルが立ち並んでいるかもしれない。

 

2000年からの20年と、今からの20年と、この街はどれだけ変わっているだろうか。

 

そして、私はその変化を見つめる証人の一人になる、、、、ということになるのだろうか。

 

ビルの裏側に取り残された廃墟の歴史と、これから自分が見つめていくだろう歴史が、なんとなく頭の中で交錯した5分間だった。

 

 

普段SNSを見入ったり、誰かの投稿をじっくり読み込んだりすることは稀なのだけれど、

今朝はフェイスブックの投稿をしばらく遊び読みしていた。

 

ある人の投稿に目が止まり、その人の過去の投稿までさかのぼってみた。

 

何気ない日常のひとコマを綴ったものでも、

その人の人柄、人生や仕事への姿勢、そしてその人の思いが、

自然なかたちで織り込まれている。

 

とても深みのある素敵な人だなと思った。

 

言葉や表現というのは、いくらでもきれいに装うことはできるけれど、

でも、どうしても隠しきれないその人の本質的なものが必ず潜んでいるように思う。

 

自然な文章を書く人は、受け取る側も素直に自然とそれを感じることができる。

 

神経質で思慮深い風に見える人ではなく、自然体で、それでいて奥の深い人。

 

インド人にだってそういう人はたくさんいるはずなのに、、、

私がまだ出会っていないだけなのだろうか。

青年への階段をのぼるアシュウィン。

 

7歳なのにすでにそっけない態度であしらわれるけれど、

でもやっぱりまだまだ子どもで、かわいい。

 

幼児のころからずっと、やんちゃ坊主のレッテルを貼られてきているけれど、

わがままで自由気ままな杏樹には、結構お兄ちゃんらしい対応を見せるアシュウィン。

 

自分で描いていながら、またしてもほんの少し大人びた雰囲気になってしまったアシュウィンを見て、あと数年したらこんな感じの青年になるのかなぁと、一人しみじみ見つめる夜。

 

先日のオーストラリアの友人の次男くん。

 

今の私にとっては、メディテーション的効果のあるデッサン。

α波がたくさん出てそう。

 

でも、実際に描いていると、諸々の葛藤もある。

 

描いている途中、毎回必ず一度は「あ〜ダメだ〜!」と思う。

 

イメージが決まらないと、迷子になる。

細部の描写のために、そこに集中しすぎると、全体とのバランスを失う。

 

でも、緻密で正確な描写をしなくても、

なんとなく形と影と表情がとれていれば、

全体をみたときには細部はそんなに気にならないものだ。

 

むしろ、出来上がったものをクローズアップして、

細部にフォーカスすることには意味がないような気がする。

 

そしてまた思う。

きっと人生もそんなもんだろう、、、と。

 

それにしても、さすがにちょっと目が疲れて、集中力も切れてきた😅

今日のデッサンにもそれが表れているような気がする。

あとでちょっと修正するかな。

 

 

 

ウミガメの研究員になりたいというほどカメ好きな娘さんを持つ知人のリクエストで、ウミガメを描いてみた。

 

どんな雰囲気が好きかたずねると、

泳いでいるところで、顔が見えて、背景は海と光とサンゴ礁と、、、、。

 

なるほど。

よく写真で、水面から光がふりそそぐ青い海を優雅に泳ぐカメを見かけるけれど、

私には描けないと思ったので、結局私のテイストになってしまった。

 

下にサンゴ礁を描こうかと思ったけど、余白を残しておいた方が、ずっと下まで空間が広がっていく感じがしたので、サンゴ礁は省略。

 

それにしても、私はカメを侮っていた。

こんなにも細かい模様とテクスチャーがあるなんて、、、、。

 

途中で発狂するんじゃないかと思ったけど、意外と楽しく描けた。

 

細かい描写が苦手な私に、ある意味スキルアップのいい機会を与えてもらってありがたい。

 

ちなみに、昨日ゲットした練り消しが大活躍。

その他にも鉛筆や消しゴムも購入して、ちょっとテンションが上がった。

 

2枚連続で頼まれポートレートを描いたら、さすがに思いを込めすぎて疲れたので、

ちょっと箸休めで、軽い感じのものを描こうと思った。

 

モノクロのデッサンだけにもちょっと飽きてきたので、

頭を使わず、無心に塗り続けられる葉っぱのパターンと組み合わせてみた。

 

でも今は、Photoshopで簡単にこんな絵作れてしまうんだよね。

 

ちなみに、キリンというのはちょっと滑稽な顔をしていて、独特の愛嬌がある。

 

そして、知り合いのインド人女性がキリンに似ているということに気づいてしまったのだけど、褒め言葉にはならなそうだから本人に言うのはやめておこう。

 

 

先日、杏樹の学校で鉛筆の持ち方、文字の書き方のオンライン指導があった。

 

日本では、机に対してまっすぐに座り、紙やノートもまっすぐに置いて書く。

私もそのように習ってきたし、体の向き、姿勢、紙の向き、、、全てまっすぐであることが良いと習う。

 

でも先日の指導では、安定した書き方をするためには、

机にまっすぐ向かい、肘がテーブルにのった状態で、紙は斜め(約30~45度)にふった状態で書く、、、、と指導された。

 

そういえば、以前アシュウィンも同じことを言っていたのを思い出した。

紙を斜めに置くアシュウィンにまっすぐにするように言うと、学校では斜めに置くように言われたと。

 

確かに脇を軽く開けて、自分の中心あたりに手を置くと、肘がつこうがつくまいが、手元にある紙に文字を書く際には、自然と斜め上方向に文字が進んで行く。

 

 

でも、紙を少し右(利き手)方向にずらして脇を少ししめれば、横にまっすぐに書くのもそんなに無理な体勢ではないはず。

 

日本では、書道や武道などにもみられるように、何事もまっすぐきちんと美しく、、、が美徳で、

ある意味、きちんとした型にはまることを良しとしているところがある。

 

そして私も、、、やはり基本形として紙をまっすぐに置く癖をつけてほしいと思ってしまう。

 

インドの学校だって放置しているわけでなく、きちんとした指導として斜めを推奨しているのだけれど。

たかが紙の置き方、、、、だけど、”まっすぐ”こだわってしまうのは、、、、やはり私が日本人だからだろうか。

 

さて、どうしよう。

学校に相談したら説得にかかってくるのは目に見えている。

戦うべきか、従うべきか、、、、、

いや、学校には何も言わずに、子供にはまっすぐ置くことをすり込んでいくのがベストかもしれない。

いずれ大人になった時には、臨機応変に自由に紙の角度を変えていけばいい。

 

 

オーストラリアにいる友人の子供のポートレート。

 

誰かの大切な人やものの絵を描くのは、ちょっとプレッシャーがあるけど、

でも、自分なりに気持ちをこめることができるところがいい。

 

ずっとネットで描きたいものを探しても見つからないのは、

なかなか気持ちがこもらないから。

 

ただ、ポートレートはやっぱり難しい。

何かが違うのに、どう直したらいいのかわからなくて、線や影が彷徨い続けたりする。

わずかなズレで表情も変わるし、まったくの別人になってしまう。

 

AIの顔認証のシステムというのはどうなっているのだろうか。

 

もっとさくっと形をとることができれば、一番楽しい細かい表情の描写にもっと時間をかけられるのに。

でも、集中力が持たないので、切れたらそこでおしまい。

そして顔以外の描写はざっくり。

 

コツコツと、どこまでも納得いくまで追求できる長距離ランナーの職人タイプには憧れるけれど、

私はやっぱり職人にはなれないな、、、。

 

 

 

日本の友達に頼まれて、彼女の愛犬を描いてみた。

 

ネットで見つけてきた見ず知らずの動物と違って、

誰かの愛犬となると、やはりその人の家族を描くように微妙な表情が気になる。

 

そして相変わらず、微妙に違う仕上がりになった。

 

実物と隣どうしに並べるとその違いがよく分かる。

 

それにしても、そろそろちゃんとした消しゴムを買おうと思った。

細かい調整やハイライトに使えるような、細い消しゴムを。

 

 

色をつけてなにか描いてみたいと思った。

 

何もアイディアがないまま、とりあえずゾウを描いて、

まったく具体的なイメージがわかないまま、背景にパステルを落としてみた。

 

どこに行きたいのかわからないまま色を落とし続けて、

結局自分でも終着点がわからなくなった。

 

そこにゾウだけが取り残されて、

このゾウも行き場を失ってしまった。

 

なんとか救済しようと試みたけれど、、、失敗。

 

だから、無駄な部分を消した。

無駄な描写も影も。

 

自分の心が決まらないと、行き先を見失ってしまう。

それでも必ずどこかしらにたどり着くのだけれど、

これでよかったのだろうか、、、とモヤモヤが残る。

 

でも、慣れないことも続けていけば何かが見えてくるという、ポジティブ思考でいくしかない。

 

この絵はあきらめてしまったけど、

人生はそういうわけにはいかない。