なんとかなるもんだ -3ページ目

なんとかなるもんだ

2013年:膀胱癌再発
2016年:ブルガダ症候群、身体障害者手帳取得。
2017年:てんかん、右目緑内障
2018年:腎盂、右腎嚢胞
2019年:右目白内障、右多房性腎嚢胞
2021年12月膀胱がん完治
2022年左目緑内障
2023年膀胱内に変異箇所あり経過観察

妻2019:乳癌

スマホ条例

ここについて少し考察したい。


良い悪いではなくね。


個人的にこれについては疑問を感じています。

なぜそう感じるかというと、そもそも、デバイスに制限をかけても、害悪なコンテンツに触れる機会を減らせないから。そもそも、スマホそのものの有害さを訴えても、短時間で害悪なコンテンツに触れる機会が減らせなければ意味がない。

SNSにしても、無料ゲーム広告にしても、インターネットのページを開けば、これってどうなの?っていうものが出てくる。害悪でしかない。間違った知識や楽して稼ぐことに誘導されてしまいます。


規制はこっちに掛けるべきであって、使用時間とかそういったものにかけるのは、ずれていると感じるのです。


ブルーライトがどうこうとか言われているけれど、テレビで見ても同じでしょ。スマホに限定する意味はあまりないのではないかなと思うのです。それよりも、インターネッに約40%ほどあると言われている。有害コンテンツやそこに誘導する広告を削除する方に予算を使った方がいい。なぜそれを個人に任せるのでしょうか。日本がポルノ大国に成り下がったからですか?ここに政治を絡めるべきであって、そこに『自由』は必要ない。


有害なコンテンツで学習し、間違った大人向けコンテンツで学習し、暴力的な物を見続け、嘘やフェイクニュースを信じ、危険な誘いに乗り、悪口や人種差別に翻弄される。毎日、毎日、毎日ネットを開けば出てくる。まともになるわけがない。有効な情報を得るために害悪な情報を一緒に触れてしまう。


警察が取り締まるとかそういったレベルじゃない。

早急に対左右をとるべきはずなんですよ。でも、しない。

ポルノで売ってるから。この国は。

AETの先生と話をした時も同じような話になって「ここ10年でほんと日本はおかしくなった。」と。


YouTube上のかなり有益な学習コンテンツは正直、学校の内容を遥かに超えます。娘の受験期は寝る直前はYouTubeの一問一答問題を流してましたし。私も、会計の勉強もこれで行っていましたし、心理の学習もiPadにテキストがあるのが基本です。


うちで行っている対応ですけど、一応。


例えば、Braveというブラウザがあるのですけど、これにするだけで無駄な広告は消してくれます。これだけでも意味があると思うんですよ。細かい設定もできるのですが、(JavaScriptのカットであったりね。)これにするだけでかなり違います。

今は、よほどのことがない限りブラウザを使わないようにしています。だいたい調べるときは、GeminiやChatGPTです。当然、間違った内容が表示されることも含めて使用しますが、有害コンテンツに触れないだけでも意味があります。Googleページを見るのはここ数ヶ月で2、3回程度です。


私は、夏休み中ひたすらiPadを使いまくってました。読書も学習も仕事もです。

AIで簡単な時間短縮のためのコードを作成したりね。数年前まで半日かかっていたものが3分です。


スマホよりiPadが使用に耐えます。しかし、移動時間中は耳読書にスマホは便利です。今は、Kindleを機械音声で読ませることができますし。この夏だけで最低でも40冊は読んでますし。読書で気になった箇所は、メモをとり、自分の中にストックしていきます。


学校という場にいて子供たちを見て思うのは、スマホの利用時間が多い問題より『有害コンテンツ』に触れる時間が多いことが問題なのではないかなと思うのです。TikTokが悪いとかYouTubeが悪いとかではなく、その中の40%のコンテンツ自体に問題があるわけです。そこをなんとかするべきです。むしろそこに罰則をつけた方がいい。学校で知っている女優さんを聞いたら、知らない人を挙げてきたので、調べるとAV女優男優が出てきたりする。別に仕事そのものを否定する気もないけれど、そのコンテンツに触れ間違った学びを続けた結果、子供たちの脳を壊し、尊厳を奪っている実態が見えている現状が実際にある以上、規制をすべきであろうと思う。タブレットの利用時間じゃない。ゲームは利用時間だと思うけどね。


学習において、今スマホやiPadなしに進めることは極めて困難だと思うのです。


大事なことは日々の生活の中で自己成長の機会がどれだけあったのかです。コンテンツ消費で1日が終わるのなら、スマホもタブレットも捨てた方がいい。それは単なる『消費行動』だから。自己研鑽の積み重ねが自己を作るのです。人は一気に変化するわけではないのです。そこの理解を家庭レベルで行えるかなのかなと。でも、それが一律にできないからこそそこに『行政』が必要なのではないのかなと思うのです。