学習の本質は | なんとかなるもんだ

なんとかなるもんだ

2013年:膀胱癌再発
2016年:ブルガダ症候群、身体障害者手帳取得。
2017年:てんかん、右目緑内障
2018年:腎盂、右腎嚢胞
2019年:右目白内障、右多房性腎嚢胞
2021年12月膀胱がん完治
2022年左目緑内障
2023年膀胱内に変異箇所あり経過観察

妻2019:乳癌

教育というものに関わって20年以上が過ぎました。

 

これまで色々な生徒・教員・保護者に関わってきました。それぞれが様々な考えを持ち学校生活を送っています。私個人として思うのは学習というのは本来一人で行うものであるということ。なぜなら自分の頭のなかのことなので。興味関心がないことに対して学習の意欲が下がることは仕方のないことではあるのだけれど、それでも自分で学習するすべを持たない間はある程度学校で提供されている内容は理解できるといいと思っています。

 

正直、中学校程度の内容で十分生活していくことは可能であるし、大学を目指す高校の内容は比較的高度ではあるので中学校の内容を最低限理解できることは必要だと思うのです。自分が興味を持ったものが見つかればそれは幸せであるし、それを自分で理解を深めていけば良い。学習は本来そうあるべきだし、それができないのであれば学校の授業を聞いて興味の持てるものを探してみれば良い。

 

学習の基本は『読む』ことにあると私は思っています。教育に関わってずっと生徒らには言ってきたし、特別支援であろうが通常であろうが関係なく実践してきました。『読み』ができなければ自分で学んでいくことはかなり非効率的になります。映像教材が良いとか環境がどうとかプリントがどうとか正直学習者側ではなく教える側がどうしたって、学習者自身の『読み』のちからが上がらなければ学習の継続は難しいし、理解力も上がらない。国会議員になっても人数あわせのお飾りであるのと同じもんです。

 

『読み』の力が上がると同じ本を読んでいても読み取る深さがかわるので新しい発見があったりする。

 

私は理科教員ではあるのだけれど、国語が一番重要だと言っているのがここにあります。学習を進めていくにはまず読めなければいけない。そして、教科で言えば教科書を読めなければいけない。よく、日本の教育は、教科書の内容を教員が内容を補完して完成するとしているのだけれど、個人的には『無駄』だと思う。教科書に書いてある内容が十分理解できれば基礎に関しては問題ないと個人的には思っている。ただし私立中高でよくある宗教の授業の聖典はちょっと違う。宗教は同じ聖典でも宗派で解釈が異なってくるのでそこは聞く必要はあると思うのだけれど、学校教育に関しての教科書はそれがすべて。

 

裏を返せば、読んで教科書が理解できないのであれば、過去に学んだことで不十分な箇所があるということになる。

 

高学年になれば、低学年の教科書を開くことに抵抗を感じている生徒がいるのだけれど、それは本末転倒な話で、理解できるようになるところまで戻れらなければ一生理解できない。私立は一つの単元を一気に深める方式を取っているのでなかなか難しいのだけれど、公立の学校教育は同じ内容を学年を螺旋状に深めていく方式を取っているので、授業としては別のことを学びながらも家庭で理解できる箇所まで教科書の学年を戻して補完すれば良い。私立は、苦手な単元ができてしまうと補完する機会を失ってしまう場合も出てくるので、その時その時に解決すべきであろうと思う。

 

正直、読みの教材は何だっていい。本はどうでもいい内容のものもあるけれど、一つのストーリーがたった数万字で完結するわけで、すごいことだと思うんですよね。そこにどこにもっと驚いてもいいはずなんですよ。だって、それだけで情景も必要な知識も理解できるってかなりすごいと私は思うんですよね。太宰治の『津軽』だって読む年齢、経験した知識、理解力で引っかかる箇所が変わってくるんです。本の文字数は変わらないのに、それってすごいことだと思うんですよね。

 

以前、受験国語は娘にとって難しかったが得点源になったと書いていますが、(10月にやったこと)それはここの『経験した知識と理解力』を解釈に使用することが多く、出題者の求める答えとずれることがあったので、修正の技術を獲得したということです。受験国語と学校の国語の違いはここにあります。受験国語はある意味テクニック的な要素があるので、それは身につけておけば受験においては困らないかなと思うのですが、人間本来の学習という意味では娘の前者のあり方が正しいと思うのです。そこは娘には話をしてます。大学受験と趣味の読書の解釈は若干のズレが有るのが当たり前。一冊の本から通して解釈することとと、受験国語の部分を切り取って解釈する内容ではズレが有る。逆に全体を知っているからこそズレが大きくなってしまいバツになったりする。なので、部分に対しての読み取りの対策としてのテクニックが必要であるということです。

 

最近、学校の生徒らに聞いても読書より圧倒的に動画やSNS視聴が多い。むしろ年に1冊も読まない子もいるんです。ちなみに学校単位で読書量と学校全体の学習状態に相関関係があり、環境が結構変わることは意外に知られていませんが事実です。正直、少ない読書量での読みの向上は100%難しいですし、どれだけ教員が動画を利用しようがタブレットを駆使しようが本質がだめなんでどうしようもないわけです。その視聴時間の3割でもいいので、読みの時間を確保してほしいわけです。例えばYouTubeで雨穴の動画を見たらそのまま『変な家』を読むとかね。意外に読めちゃうんですよ。本を読まない子と読む子との差は、見やすいところで言えば学習の理解度の差であったり、テストの得点差として出てきます。まずは、なにか一冊でもいいので読み切ることが大事かなと思います。

 

家庭で動画視聴やゲームやSNSを許しているのは誰なのでしょうか。それが読みの時間を奪い学習の本質を奪っているのであれば大きな問題なのかと個人的に思うわけです。国の定める『大人』になるまで期限はすぐに過ぎてしまうのに。自己学習が難しい状況でおとなになってもそりゃ読みができないからできる人との差はどんどん開いていきます。学習は教えてもらうものではなく自分で主体的に学ぶもののことであるはずです。効率はその次にくるものです。

 

学習の本質を理解して家庭で過ごす時間を変えていく必要があるのかなと思います。