仕事上いろいろなことを判断しないといけないことが増えている。相談された教員から本人の出した判断の根拠を聞くとぱっと答えられない人が多い。何をもとにその判断を出したのかが『なんとなく』というのが最近結構多く大変困っている。要は理性的判断基準で指導を行ったり、行動したりしている場面に出くわすことが30%程度多くなったなと感じる。
ちなみにでた結論が同じになることはある。その場合は、状況判断でとった行動が関与しているので当たり前ではある。状況判断というのは教職では多い。そうした場面では『客観的な事実がある』のでそれをもとに判断をするのは『なんとなく』の状況が出した裏付けになっていることもあり、理性的判断でも合理的判断と同じ結論が出ることもある。でも、それは正直困る。記録に起こしてもらうとき、指導した教員が適当につなげて書いてくることも出てくるからこっちとしては本当に困る。
若手教員に疲れる要素は数えればきりがないけれど上司にタメ口当たり前。肘付き授業当たり前。金髪&ハーレムパンツで来たときは流石にきつく言ったけど、、、。当然その後にクロックス登校生徒が増えたりするよね。無駄にある新規採用者に優しくして辞めなくする風潮が教員の今の現状。個人的には辞めてもらって新しく補充すりゃいいのにと思うのだけれど。それはそれで私が怒られる。笑
教員不足はかなり深刻で、実際教務が2つ教科を受け持っている学校もある。1教科はあるけれど2教科は教務としての仕事ができない。とある県で、教員採用試験の2次試験の合格率が100%と聞いた。すべて通したということだ。教科としての知識があればOKとしたわけだ。これはこれで頭数の確保を優先したわけだから、他県にまで臨時教員の状況を確認するこの時代には一つの手ではある。しかし、この場合批判的に上がるのが『教員の質は問題ないのか』である。しかし、さっき言ったようにすでに質は落ち始めているので、委員会は問題ないと判断したのかもしれない。その県が判断することなのでどうでもいいのだけれど。個人的には面接は信用していないので、かなり『あり寄り』の『あり』だと思う。
日本の教育は、形式や呼び方が変われど根本は教師主導の学習が基本。しかし教員の数や質が低くなってきている状況で、頭数をまず先に揃えるというのは学習形式を崩さない意味ではまあ合理的ではある。ただ、個人的に思うのはもう教員主導の授業は中高一貫校以外はもう無理なんじゃないかなと思う。公立の学校は正直『教員ガチャ』ではなく『学校ガチャ』になっている。学校崩壊というより学校運営がなかなかうまくいかない状況も出てきている。学校予算もかなりひどいことになっている。ほんとお金がない。普通に昭和40年代のものを使っていることも多々ある。
個人的に『教員が授業以外にやっている仕事』を『外部委託』するのは当たり前なことだし、社会の常識だろうと思う。なぜこれだけ多様化してきているのにすべてを一つに集約しようとするのか。仕事を分散してもせいぜい学年内でだし、小学校は教科ぐらいしかできない。しかし、世間一般はそこに対してすら仕事の分散に疑問を感じる人もいる。学校の先生に言えばなんとかなる的な風潮は今も昔も変わらないのだけれど、今と昔では親が求めてくるのは以外に過剰要求のことが多い。
生徒も、SNSトラブルは必須だし、YouTube見て過ごすのもスマホゲーム、携帯ゲームも日常化している。正直、オンラインゲームとよんでいた時期が懐かしいくらい、オンラインが日常が今の子ら。学力が低くなればなるほどそこへの依存度は親も子も高くなり、病院が教員が介入しても日常へ戻すのはハードモード。SNSトラブルはかなり複雑化している。もうね、『なんでこんなこと思いつくの?』ってことが多々起きる。なぜ、そこの指導を教員がやらないといけないのか。スマホや携帯ゲームオンラインの環境を与えたのが親なのであれば、そこから生じる多々の問題の責任は親が取るべき。できないのであれば、渡すなよと言いたい。ちなみに娘の学校はそれらの問題は完全に『親の責任』と言い切っている。私立で言えてもそれが言えないのが公立の問題点だし弱さかなと思う。でも、それはやっぱ親の責任だろと思う。
教員が潰れるお膳立ては公立は整っているということ。
教員の子が私立校に行かせることが一定数いるのはそういうことでもある。当然、私立がすべて良いと言っているわけではない。娘の学校も一定のトラブルはあるし、かなり厄介なSNSトラブルも普通にある。公立になくて私立にあるのは学習環境。私立に行ったら行ったで教員ガチャ問題はあるけど。今の公立よりは『レア』を引ける可能性は高いように思う。
教員ですから住んでいる地域の状況や知り合いの教員から学校の状況を聞くことは易い。教員外なら状況を知りやすいのは塾でしょうかね。地域の学校の荒野程度とかね。公立中学校だと一定数の割合で進学が振り分けられると保護者の方は思ってますが、実際は学校差はかなりある。公立中学校上位でも高校受験校は中堅校が上位とか。進学は推薦頼みとか。私も学校を変わるとココまで変わるのかと驚いたこともある。
『東大合格はいくらで買えるか?』という本があります。
合理的に書かれているように見えるけれど、すべてがこの通りではない。ただ、客観的事実を数を揃えて出しているのは読むに値するのかなと。ここで出している教育費は、正直納得がいく。実際東大や医学部の進学率は親の年収に依存していることは個人的に『正しい』と思うし、それを超えて受験をしていくことはけっこう大変だと思う。この本は『受験にまみれた人生が幸せか?』と問います。個人的にはどーでもいい。それはそれを経験した人が語ればいい。
中学受験組はそうはない。娘も中学受験で12歳の半年は勉強三昧でした。ゲームなし。息抜きは好きな音楽を車の中で聞きまくる時間だけでした。今も部活終えても最低2時間は勉強してます。友達等は普通に塾に行くのが当たり前。中には河合塾と駿台をはしごしている人もいると聞く。はしご酒か、、、。娘はまだ、Z会や公開模試程度しかしかやってないのでなんとも言えませんが、開成や灘や桜蔭といった名前がズラッと並ぶ中に娘の学校があるのを見ると『やっぱそういう学校だよな』と思うし、娘の言う『まだ塾はいいかな』は現実味がある。ただ、『中学受験はもうやりたくないな』とは言ってます。彼女なりに受験を言い出すタイミングを誤ったと思っているのか学習計画は立てているようです。ご利用は計画的に。来年からは行くかもしれませんね。
合理性というのは、客観的事実や過去のデータを元に判断をすることですが、予想とかけ離れた結果をもたらすことも多いわけです。それは事実です。でも、そこを含んでも仕事では合理的な判断は必要だと思う。娘の学習計画についてもその点は伝えています。
おすすめの本として
という本があります。正解はない世の中で何を判断基準にして人生を組み立てるかを考えるにはよい本かなと思います。結構おすすめです。ここにあるなかで、受験保護者の過剰な働きかけの幸福の位置関係とかそういうのも参考になるかなと思います。
最近、ミニマリストにも二パターンの人がいると感じています。
①合理的な判断のできるミニマリスト
②理性的な判断で動くミニマリスト
どっちも極端にものが少ない人もいるのだけれど、ただ捨てろ捨てろと捨てている人は、なんとなく浅いなと感じてしまいます。逆にマキシマリストでも、合理的な判断を持っている人と理性的な判断で動く人では家の状況はぜんぜん違う。管理しやすさから言えば、圧倒的に物が少ないほうが管理する面からは良いのだけれど、そこに合理的判断ができているものならば多くても問題ないと思うし、そういう意味では物が多くても機能が被らないものを持っているのはそれはそれでよいのかなと思う。
自分の今の生活を変えたいからミニマリストを目指す人と、判断すべきことを減らし今に集中したいから結果的にミニマリストになった人ではちょっと違うのかなと。YouTubeやKindle本も多いんだけどただただ捨てろの話は見ないし読んでない。減らして数十個のものと自分だけが残ったときに自分を考える余裕があるのかなとすら思う。減らして人生が好転しましたみたいな記事はよく見かけるけれど、本当にそうなのかなとも思う。『捨てる=人生好転』では必ずしもないし、そう言い切ってしまうのは違うのではないかなと思う。
そういった意味では
ガジェマとか四角大輔さんとかミニマリストのNozomiさんやズボラとマメの丁度いい暮らしさんは同じ位置にいそう。多くのミニマリストの判断はただ減らして『今の物の数は何十個です』みたいことを言い合う。そういった人らと挙げた人たちは違っていて、ものの価値を合理的に判断して所有している。むしろそっちのほうが、コントロールできるし楽かなと感じる。この人らから学ぶことは多いけど、それぞれが自分の人生を合理的に判断した結果を配信しているだけだから同じことをしてもうまくいかないとも思う。だからどうしても、モノの所有を減らすことに特化ばかりしている配信は見ていて苦痛を感じる。個人的に『マメの丁度いい暮らし』さんは行動分析やん的な要素が多くて見ていて気持ちがいい。この人行動分析知ってんじゃね?要素があってほんと面白い。同じ動画が再アップされてることが多いのでまあやる気はあんまりなさげですが、、、。
話がとっ散らかりましたが。
仕事するなら説明責任できるようになれよということです。笑