こんにちは。

 

私、春休みにまた、ピアノで兄にやっちまったんです。

 

今、兄はヘ音記号低音のソから、ト音記号高音のラの音まで、おんぷカードではスラスラなんの音か当てられるようになっているのですが・・・如何せん、本物の楽譜になると、これが読めなくなりますアセアセ(私はさ、なんで?って思っちゃうの。だってカードだったら読めるのに、なんで楽譜になると読めなくなるのってね)

そして、極めつけが、低い方のソなのか、高い方のソなのか・・・はたまた右手か左手か・・・そこからこんがらがってフリーズしちゃう、みたいなことがよくあります不安

 

ピアノのレッスンで合格をもらった次の日が、一番ヤヴァイ。新しい曲の譜読み。

兄一人でほかっておいたら全然進まないし、私が横に付くと、イライラが募って、爆発してしまいがち。(がち、っていうか、大爆発です。春休みは、ただでさえパンパンに膨らんだ風船のような私なんでチーン

 

いつまで経っても、何度も何度も同じことを繰り返し間違う兄に、ほんとにひどいことしましたネガティブ

それが、春休みなりたてくらいの頃のことです。

やっちまって1時間後には、もう取り返しのつかないことをしたなって、自分が嫌になりすぎて体調不良になりました。(自業自得)

 


 

それでね、私は今この本を読んでいるんですが、そこにまぁ書いてあったわけです。

 

子育てにおいて、ピアノにこだわってしまう理由も、苛立ちが抑えられない理由も。

 

それが全てとは言わないけれど、そこに、自分の幼い頃のトラウマ、原体験があるからだということ。

 

そこを見つめ直して、自分がされて嫌だったこと、辛かったこと、強いては苛立ち爆発してしまう原因の根本を解き明かさない限り、この負のループからは出られないよってはっきり書いてありました。

 

 

 

これまでもブログで何回も書いておりますが、ピアノは、私の幼少期において、厳しく過酷でハイレベルな練習、途方もなく長い練習時間、怖すぎる母、先生などといった暗い影を落としてると同時に、自分の存在意義を示す唯一の手段でもありました。(対母親との関係、対小学校の友だちにおいて)

 

ここ、歪んでるんですよね。

 

自分は、ピアノはやりたくなかった。でも、ピアノは自分の存在意義(小学校の友だち、普通の子と私は違うのだという、歪んだ優越感のようなもの、母から認めてもらうための唯一の手段)であった。

 

母から認めて欲しくて(周りから認めて欲しくて)、そのために、自分はピアノがないとダメだ、認めてなんてもらえないって本当に思ってました。

 

ピアノなしで、ただの「私」が母から無条件に愛される自信はなかったです。

 

だから、いつも「もうピアノなんかやめちまえ!」って母に言われても、「じゃあやめるわ」なんて怖くてとても言えなかったんですよ。そんなこと、思いつきもしなかった。

 

私は、母が本心どう思っていたかはともあれ、条件付きの愛しかもらえていなかったと、あの頃感じていたんですよね。

(母は母で、多分、「娘の才能を最大限にのばすことがこの子のためで、そのために母が厳しくすることは正しい愛情の掛け方」と思ってたんじゃないだろうか。)

 

そして今、あの頃の「かわいそうな私」が、兄を攻撃するんですよ。

 

「お前は、その程度しかピアノができないくせに、母親の愛を貰えているなんてずるい!「私」は、もっともっと頑張って、努力して、それでやっと母親からの愛を、関心を、必死で繋ぎ止めていたのに!なんて甘えてるんだ。贅沢だ、許せない!」

 

ああ、これが、私の怒りの源だったのかと、この本を読んではじめて気づくことができました。

 

「今現在」の私から出てきてる怒りでは、なかったわけです。

 

だから、「ピアノ」だけに異様に執着して怒りが込み上げてくる。(勉強では、こんなことにならない謎がやっと解けた。)


このことは、今後の子育てにすごく大切な気づきになると思うので、書き留めます。


そして、続きます。