今回も小学生の頃の話だが前回の続きというわけではない。
保育園に通っていた頃から小学生時代にかけて継続的にあった苦痛を連ねていこうと思う。
母親の妹、私にとっての叔母は部落と呼ばれる人と結婚した。その人との間に生まれた子供は寝たきりの障害児で、意思こそはあるが知能は低く意味のない音を発するしか出来ないため会話もできなかった。
障害者の方に対して失礼な書き方になっている部分は今も、今後も多数あると思う。申し訳ない気持ちはもちろんあるが、身近にいた分許せないものや嫌悪感等々抑えられない部分がある。ここに書き連ねる障害者への不適切な言葉はあくまでこの叔母の娘、従姉妹に対してだけでその他の方々に向けているわけではない。
そんな従姉妹の話を今日はしようとおもう。年齢は姉と同じで私より15程歳上だ。
私は基本的に、母親から新しいものを与えられることがなかった。
衣服はもちろん机や文房具、絵本や玩具、小学校で使う書道セットやピアニカなんかも姉のお古だ。といっても年齢の近い姉から譲られる綺麗なものではない。年齢差は15程。その間ずさんに保管されてきたものが、私の周りにあった。不衛生・不潔はもう言い出したらキリがないので強調したいときにしか使わないようにしたいが、汚れやシミ、適切な清掃がされていないなどなんとなく物の状態を察してほしい。
与えられた新しいものの中に、ランドセルがあった。ストレスのはけ口として淵部分を噛むことがあったため卒業して処分されるころには皮が剥がれ噛みちぎられの悲しい姿になっていたが6年間しっかり役目を果たしてくれた。
そのランドセルにも、忘れられない記憶がある。
門限は17時と決まっていた。近くの公園には大きな時計があり時間はひと目でわかったが、叔母と従姉妹が家に来ている日は帰りたくない気持ちが強かったため一度だけ門限を破ったことがある。
その日、帰って数時間家の中に入れて貰えなかった。やっと家の中に入れてもらえたと思えば、ランドセルの中には生ゴミが押し込まれており、野菜が腐敗した汁に塗れ異臭を放っていた。その状態で、外のゴミ置き場に放り出された。門限を破るようなやつは学校に行ったところで賢くならない、意味がない、ということらしい。泣く泣く拾ってゴミを払い、公園の水道で洗って拭いて…悲しい思い出の一つだ。
話が逸れてしまったがなぜ新しい物云々の話をしたか、それは私には与えられないのにこの従姉妹には散々新しい服や装飾品等を毎日のように母親が買い与えていたからである。
「嫉妬」「羨望」「憎悪」などなど、色々な感情が入り混じって物凄くもやもやしたのを覚えている。
どうして私は与えてもらえないのか。
そういった疑問を投げかけては、私の存在に対する否定的な言葉とともに「この子は障害を持っていて可哀想だから」のような回答を投げられた。
とはいえ、この頃の従姉妹の年齢は二十歳をすでに超えている。
老い先が短いのだから、という理由があったのかもしれないが幼い私にはとにかく理由がわからず納得できず、どうして実の子供である私には与えられず他人の腹から生まれた気味の悪い生き物にばかり買い与えられるのかただただ不思議で、憎くて妬ましくて仕方なかった。
そんな理由も含めて私は従姉妹が大嫌いだった。涎を垂らした醜い顔も、奇妙な音をぶつけてくる声も、汚物臭の染み付いた身体も、何もかもが嫌悪の対象だった。叔母は私を従姉妹の遊び道具、玩具として充てがった。
髪を引っ張られ肌を引っ掻かれる。乳幼児がじゃれるようなかわいいものではない。寝たきりで筋力は劣っているとはいえ、障害故に大人の力が制御されないまま振るわれるのである。
髪を引かれれば頭皮が剥がれるかと怖くなるし、実際に毛髪は遠慮なく抜かれる。肌を引っ掻かれれば血は出るし皮膚も裂ける。何より嫌だったのはその苦痛に耐えているのをにやにやと、涎を垂らし気味の悪い笑顔を浮かべながらこちらを向いている従姉妹の顔。
あれだけは今思い出しても吐き気が凄い。夢に見てしまった時はしばらく食事ができなくなり体重が10キロ近く減ったこともある。
それ程生理的に受け付けない従姉妹だが、日常的に嫌だったものの一つが風呂だ。
叔母の家族が住んでいた家は古く、トイレも水洗ではなくボットンと呼ばれるもので、風呂はなかった。そのため、入浴しに来るのである。叔母が従姉妹をつれて2日に一度ほど。
風呂に入る、健常者ならあまり問題にはならないが従姉妹は違う。見たくもない全裸を部屋の中央に晒され、おむつを剥がすときには股間だって丸見えだ。視界に入れたくなくて目を背けようものなら、汚いもののように扱うなと見ることを強要されるという謎の状況に陥る。
浴槽内で糞尿を垂れ流すということも度々あった。私の入浴は一番最後と決まっていたから、必ずそれが湯に浮いているのを目にする羽目になる。
その頃の風呂はシャワーなんていいものはついておらず、浴槽に水を張ってガスで沸かし、それを湯桶で掬って身体や髪を流すしかない。
つまり、私は髪や身体をその汚物が浮かんだ湯で流すしかなかったのだ。暖かい日や夏場は水で洗い流して回避することもできるが冬場はそうもいかず、取れる限りの汚物を先に除いてから湯を浴びる。我慢できずに最後に思いっきり流水を浴びることなんかもあった。
そんな湯で風呂を済ませていたため、自分の身体が異臭を放っているのではないかとずっと不安だった。きっと幾らかは臭っていたのだろうとは思う。日によっては浴室自体が臭くて仕方なかった。それもそうだ、汚物が40度ほどの湯に使って生煮えのようになっているのだから。
この生活は叔母の旦那…伯父の母親が糖尿病で介護を要するようになるまで続いた。伯父の母親は部落地域に住んでおり、住居には恵まれていた。綺麗な室内に風呂トイレ完備、キッチンも広く部屋も多い。
叔母家族がそこに移り住んでからは入浴しに来ることもなくなり、風呂の問題は取り敢えず解決した。解決までが長くトラウマにはなったが。
従姉妹の話とは別に、叔母にも嫌悪を抱く出来事がちらほらある。
小学生の頃、学校で体調を崩した時に連絡がいくのは叔母だった。母親はパートで抜けられないため、主婦だった叔母が指定されてたのだ。
熱を出せば叔母が呼ばれる。運良く連絡がつかないときだけ一人で帰宅できる。
叔母が迎えに来てしまった日は体調不良どころではない。「うちの子はお前みたいに自由に動く手も足もないのに、お前ときたら。」「その両腕両足引きちぎってやりたい、うちの子に寄越せ。」と猟奇的な言葉を幾度も投げられる。
叔母の家に行った後も安静にしていられるわけではない。従姉妹のおもちゃになるのだ。運が良ければ叔母の旦那が育てている盆栽の草抜きをさせられる。いくら熱でしんどかろうと草抜きのほうが何倍も楽だった。気持ち的にも体力的にも。
この叔母には、私が成人した後に色々な出来事に耐えきれず自殺未遂を行った際「お前が死んでも金にならない」と言われたことが深く刺さっているのですぐに死なない内臓から一箇所ずつ抉って腸を引きずり出して死んでくれないかな、という気持ちがあり、度々脳内で死んでもらっている。それくらいは許されたい。