一番古い記憶は父親の背におぶられて、家の前にある田舎の狭い道路を挟んだ先の山を見上げているところ。
家の形はカタカナの「コ」になっていて、中央の空白部分は広い庭だったような気がする。
犬がいて、鶏がいて、鶏が産んだ卵を狙う蛇がいて。
他に覚えていることと言えば古い家ならではの高低差のある玄関。
歩行器でようやくよちよちと歩けるようになった頃に、普段は部屋から出ないよう閉められている襖がたまたま開いているのに気付いた私が好奇心に逆らえず突っ込んで玄関から転落したのをぼんやりと覚えている。
左眉に今でもうっすら残る傷跡はその時付いたものだと、幼い頃のいつかに聞いた。

家族構成はなんともややこしく、父が一人目の妻との間に作った娘(姉1)と、二人目の妻との間に作った息子(兄)と、母が一人目の夫との間に作った娘(姉2)と私という寄せ集めの兄弟でできている、
父は私がまだ幼児の頃になくなっているが、声も顔も記憶にはない。
家に残された写真というのもまた、サングラスで顔をかくされていたりそもそも写真そのものが少なかったりで思い出を探ることもできない。
遺影すらもサングラスで顔が隠されていて、私は父親の顔をまともに知らないのだ。
そのため幼い頃の無邪気さから、もしかしたら実はどこかで父親が生きていて、それを隠すためこのような写真しか残されていないのではないか…などという夢まで抱いてしまった。
悲しいかな、そんなことは一切なく急性心不全だったか、そのような病で他界して細かく砕かれた骨に成り果てていたのだが。
子供の頃は父親の生死をきちんと理解できていなかったためか、それともこうやって父親も火葬されたのかとテレビで見た光景を頼りに記憶を作ろうとしているのか、夢の中で父親の遺体が横たわっているのを足元側からぼんやりと見ていたり、火葬を終えて骨になった父が小さな壺に詰められていくのをただただ眺めていたりというのをよく見た気がする。
さて、何を記していきたいかというとなんてことはないただの昔話。
一部分だけをピックアップして恨み言を吐きたいのでない。
今に至るまでの毒や汚泥すべてを吐き出して、ただ楽になりたいだけの自慰行為。
そんな昔話をつらつらと、進んで、思い出しては遡って、年代を二転三転しながらのまとまりのない拙い文章で残していきたい。
誰かの目に止まって救われることを望んでいるわけではなく、死ぬ前に自分の過去を一つでも穏やかに昇華できたらというのが目的だ。

では始めていこう。
細かい記憶、薄っすらとした途切れ途切れな記憶は数あれど、色濃く残っているものは小学生時代のもの。
小学校は今でも細い繋がりのある幼馴染と出会えた場所でもあるが、いじめを受けたのもこの場所だ。
当時はまだ「いじめ」に対する認識も低く、生徒同士の喧嘩であったり仲違いによる一時的な仲間はずれや悪戯のような感覚で受け止められていたように感じる。
私が受けたものは今現在テレビやネットで取り上げられるようなものほど悍ましく犯罪として扱われるようなものでもないが、昔は昔の陰湿さがあった。
良くも悪くも子供らしいと言えば子供らしいのだと思う。
悪口に陰口、物を隠す・捨てる、物を投げる、足を引っ掛ける、笑いものにする、除け者にする、病原菌のように扱う、簡単な言葉で表せばたったこれだけの悪ふざけのようなものが大半だが、たったこれだけのことでも味方が居ない私にとっては苦痛極まりない行為だった。
ここは現在も共通だが教師に相談したところで変化などあるわけもなく、いじめを受ける側に原因があるという指摘を返されてそれはもう弱ってる心を更に押し潰された。
学校で過ごすことが苦痛で登校中引き換えして自宅のあるアパートの屋上で時間を潰したり親が不在の家に帰るなどを繰り返したある日、パート中の親に連絡が入って担任教師と二人帰宅したかと思えば理由も聞かずに腕を引っ張られ学校まで連れて行かれたこともある。
教室内で盗難事件があった際、犯人に仕立て上げられて企てた生徒と担任教師が放課後家に押しかけてきて、事実がないにも関わらず母親と含め私を取り囲んで罵声を浴びせるなんてこともあった。
苦しい、悲しい、辛い。何度も母親に打ち明けたが教師と同様。返される言葉は「いじめを受ける側に原因がある」「原因を作っているお前が悪い」なのである。
学校でも家でも理解者などおらず、ストレスをどうこうできる知識も手段もなかった当時の私は抱えるだけ抱え込んで、結果身体に異常を来した。
体感温度が狂ったのである。冬はもちろん夏でも寒く、周りが半袖やノースリーブ、薄手の服を着用している中、私だけ長袖を着て酷いときは上着を羽織っていた。
味覚も同時におかしくなり、しょっぱい、甘い、苦い、すっぱい、それらが酷く鈍いのだ。
当時診察を受けた耳鼻咽喉科でそれぞれの味を染み込ませた脱脂綿を舌の上に塗られた検査はなんとも気持ちが悪く、舌の上が唾液以外のもので自分の意図に関係なく濡れる不快感で終始眉を寄せていた気がする。
消毒なのか、消毒をする必要があったのか、そもそもも分からないが最後に舌の表面にポビドンヨードをたっぷりと塗られ、臭いが鼻について数時間吐き気に苛まれたのも苦い思い出だ。
同時期に化学物質過敏症やら紫外線過敏症、血液中の凝固因子の減少、逆流性食道炎なども起きたが、それらは何度か検査したもののこれといった原因がわからず「原因不明」または「ストレスによるもの」という便利な言葉で片付けられてしまった。
幸い、いじめ自体は小学4年生のときに他校より移動してきた正義感の強い教師が担任となったことで教師自身に敵視が向けられ、いじめていた生徒の私に対する興味はほぼ失われたため目立ったものはなくなった。
いじめに耐えた同時期に、歳の離れた姉が出産をしたことで幼いながら叔母にになるという経験をした。
その合コンのような飲み会で知り合った男との間で子供が出来、授かり婚をした。
当時住んでいたのは2DK、6畳二間の狭いアパートの一室。
一室には母親と父の仏壇、もう一室には姉と私というように分けられていたのだが、授かり婚を期に姉の旦那が転がり込んできたため一変した。
母と父の仏壇がある部屋に私が移動し、姉のいた部屋に姉の旦那と子供が入ってきたのである。
6畳間に2~3人と聞けばそこまで狭くないように感じられるかもしれないが、母親はいわゆる物を捨てられない人間だったため、部屋の壁は父の仏壇と私の机、そして残りすべてが箪笥に覆われていた。
部屋の入口付近には銭湯に置かれているような無駄に大きいマッサージ機も置かれていたため、出入りの際に身体を捻ったりフットマッサージ用のクッション部分を乗り越えていかねばならないという状況だった。
就寝時はただでさえ狭い部屋に布団を敷くのだから圧迫感がすごい。シングル用の敷布団の短辺は両側に置かれた仏壇と箪笥で伸び切らず、数センチいつも折れ曲がっていた。身長が伸び、160センチになる頃には膝を曲げなくては横になれなかった。
終いには押し入れの前まで陣取っていたマッサージ機が邪魔をして、起床後布団を畳み片付けられることがなくなり万年床のようになっていた。あの頃の部屋はゴミ屋敷の始まりだったのかも知れない。
物が多いのは部屋だけではなく、狭いキッチンとダイニングでも同様である。
母親の物を捨てられない気質が悪さをして、賞味期限の切れた食品や使い捨てのカトラリー、いつもらってきたのかもわからないポケットティッシュ、試供品で配られていた日用品、移し替えた後の洗剤の詰め替え袋、コーヒーやジャムの空き瓶、弁当に付いてくる使用済みのバランや飾り、ゼリーやプリンのカップ…挙げ始めたらキリがないが、ゴミでしかないようなものすら家に溢れていた。
割り箸なんかは一度使った後捨てるわけではなく、洗って乾かされまた使用される。醤油やソースのシミは完全に消えることはなく、着色汚れなのかカビなのかもわからない、不衛生でしかなかった。
その頃はまだ表面上は綺麗好きな姉がいて、赤ん坊もいたからか最低限の掃除はされていたように思う。とはいっても、主に床掃除をしていた私からしたらすでにこびりついた黒い塊がフローリングのあちこちにできており、取っても取ってもまた気づけば塊ができていたので綺麗を保っていたというよりは今以上に汚くならないようにしていただけなのだろう。
居候であっても姉の旦那は何もしなかった。九州男児だからなのかその人の元々の性格が人を見下すタイプなのか、転がり込んできた身でありながら私を召使いのように扱った。
掃除を手抜きしたりサボろうものなら、「あいつにもっと家事をさせろ、あいつは何もしなさすぎる」などと母や姉に命令をし、食事はいつも自分だけ効果な肉や魚を食らっていた。今思えば何様なのだろうと思うが、その頃の私は母と姉と姉の旦那の言いなりになることでしか衣食住を保てず、それが普通なのだと思い込まされていたので不満を懐きながらも従うだけだった。
この姉の旦那には、体調不良で学校を早退したときに家の鍵を開けてもらえず風邪を悪化させて気管支炎を起こしたり、私の態度が気に食わないからと髪を掴まれ指で瞼をこじ開けられた状態で太陽を直視させられて視力の大半を奪われたり、煙草の副流煙にストレス反応が出ているときに「どうしてお前なんかのためにこっちが我慢しなきゃならないのか」と煙を顔面に吹きかけられたり…と様々な恨み言がある。殺人が犯罪でないのなら殺してやりたいとすら思う。拷問ネタでよく言われるような、生爪を一枚ずつ剥がして関節を一つずつ砕いて表皮を剥がされていくような苦痛を意識を失う暇すらないくらい立て続けに与えた後に自分の糞尿で窒息して死んでほしいくらいの気持ちはあるが、出来はしないのでそいつのことを思い出してしまうたびに脳内で何度も殺して感情を落ち着かせている。