あなたはあの時、私の上で「忘れないで」と言った。


私は忘れたかったのに。


忘れたほうが楽だったのに。


知らない間に流れた涙をあなたは口で受け止め、きつく抱きしめた。


痛いくらいだったのに、私は嬉しくて堪らなかった。



その後あなたから連絡はなかった。


私からは一通のメールだけ。


3日待って待つのを止めた。


あれから一年。


遠くの彼は元気でいるのか。


彼の影は濃くなったり薄くなったりしながら私の中を漂っていた。



きっとあなたは会う前から終わりにするのを決めていたんだろう。


中途半端に切れてしまった私たちをもう一度、ちゃんと断ち切るために。




あの時、私はあなたの夢を見たの。


私の目を見て、笑っていたから。


私はあれから初めてメールを作った。


送ったメールは何の内容もなくて。


ただあなたの存在を感じたかっただけ。


送った後、手が震えた。




突然震える携帯があなたのメールを教えてくれた。


あなたの名前を見ただけで、涙が止まらなかった。


こんなにも好きなのに、何で忘れられると思ったんだろう。


開いたメールに彼の気持ちがあるのだとしたら、私は知りたいだろうか。




思い切って開いたメールにはたった一言。


「どうしても忘れられない。」


あなたの言葉に縛られたのは、あなただったのか、私だったのか。



結局最初から私たちは何にも変わっていないのかもしれない。


決して一緒になることはないのに。

「ごめんね、そんなつもりじゃなかったんだ。」


目の前で彼女は泣いていた。


綺麗なハンカチを手に、細い指が涙をぬぐう。


泣きたいのはこっちなのに。


そんなこと言えない。泣くなんてできない。


この子の前だけでは絶対に。




彼の様子がおかしいことには気付いていた。


そして彼女の態度が変わったことにも気付いていた。


その二つを結びつけることは容易なことだったけど、あえて考えないようにしていた。


なぜなら、彼を選んだのも彼女を選んだのも自分なのだから。



今目の前で泣いている彼女が何故泣いているのか私には理解できない。


でも一つだけ分かるのは、私は彼女を友達とは思っていなかったということだ。


急に会いたいと言ってきた彼女。


座るなり、私の彼と浮気をしたと告白してきた。


それから延々泣き続けるのを見ていた。


お店の人に迷惑とか考えないのだろうか。


注文を取りに来ようにも行きづらい雰囲気なのだろう。


遠巻きで見られてるのが分かる。


しかも周りのお客さんにも好奇の目で見られて。


私が泣かしているように見えるのだろうか。


そもそも、何故彼女はわざわざ告白したのかも分からない。


分からないことだらけだ。


「私のことがずっと気になってたって言われて。


どうしても断れなかったの。」


泣きながら上目遣いで私を見る。


溜息しか出なかった。


「あげるよ。私要らないから。」


「え?」


急に睨むような目で私を見る。


ほら、やっぱり嘘泣きなんじゃない。


「だから、私はもう要らないから。」


「え?ちょっと待ってよ、私だって・・・。」


「私だって何?」


「・・・・・。」


沈黙は何も生み出さない。


ただ居心地の悪さを再認識するだけ。


私は黙って席を立つ。


「待ってよ!!」


金切り声にも近い声が追ってくる。


私は振り返った。


「一度だけだったの。それに彼に誘われて・・」


「そんなのどうでもいいんだって。もうあなたのそういうところ気持ち悪くてたまらないから。」


彼女が何か言ったような気もしたけど、もう振り返らなかった。




家に帰ると彼がいた。


「お帰り。どうだった?」


「やっぱりあの話だった。」


「こっちのこと気付かれてた?」


「うーん、多分ないと思う。想像もしてないと思うけど。」


彼と彼女の事に気付いてから、私だって何もしなかったわけじゃない。


さっさと見切りを付けていたのだ。


選んだのは自分、切り捨てるのも自分。


隣にいる彼もいつかは私を裏切るかもしれない。


でも結局選ぶのは自分しかいないのだから。

「会いたい。」


その一言で私は十分だった。


私は部屋を飛び出した。





「俺ってそんな風に見える?」


「うん」って答えるのは失礼かも。


私の好きだった彼。


私たちはずっといい友達を続けてきた。


こうして飲むのも別に珍しいことではなかった。


『いろいろ遊んでるでしょ?』という私の言葉に彼は少し傷ついているように見せた。


彼には彼女がいるし、私には彼氏がいた。


「うーん、客観的に見たらってことでいえばそうかも。」


やさしい、やさしい彼。


彼の彼女になることにあこがれていた。


「実際知ってみたらそうでもないってこと?」


「うん。だって浮気したとか言わないから。」


彼は少し笑って、


「もしかしたらしてるかもよー。」


「えー、ないでしょ。やってたら絶対私に言うもん。


『どうしよう、助けて。』ってね。」


お酒を一口含んで、ため息をつく。


「やっぱり読まれてるか。」



この距離を保っている限り彼は私から離れないはず。


そう思っていた。



その時私は酔っていなかった。


そして彼も酔っていなかった。


軽く触れた唇が、少しかさついていた。


目を閉じるのがもったいなくて、私はずっと彼を見ていた。


ぼやけた焦点は近すぎるからか、涙のせいか。


濡れた頬を彼は拭って、深く深くキスをした。


こんなに壁は低かったのか。


私と彼はそれから会うのを止めた。


その夜届いた彼からのメール。


『きっと誰かを傷つけることにしかならないから。


でも、何かあったら絶対に駆けつけるから。


一番の親友でいたいから、必ず連絡ください。


俺に何かあった時、来てくれるのはお前がいい。


その時は必ず来てほしい。』


いっぱい泣いた。


たった一度のキスで私はすべて失ってしまった。




日々の中で彼のことは少しずつ薄まっていった。


でも決して消えることはなかった。


彼のメールを消すことができないように。


いつまでも私の心に留まった。





何かあったんだ。


彼のメールを見て、私は走った。


部屋を出てから、どこに行けばいいのか分からないことに気がついた。


階段を降りながらメールを打った。


「今どこ?」


送信ボタンを押した直後、彼が目の前に立っていた。




「久しぶり。」


白い息を吐きながら、懐かしい顔で笑っていた。


何にも言えなかった。


そっと触れた頬は氷のように冷たかった。


「いつからいたの?」


「少し前だよ。」


私は彼にそのままもたれかかった。


会いたかった。


何かあるたびに彼を思い出した。


何度もメールを打った。


でも送信ボタンは押せなかった。


「どうしたの?」


くぐもった声しか出せなかった。


顔を見てしまえばきっと泣いてしまう。


「会いたかったから。」


彼は晴れやかに答えてくれた。


「悩んだけど、その答えしか出なかったから。」


冷たい手が私の頬を包む。


「何で泣いているの?」


「だって・・・。」


彼は優しくキスをした。


唇はあったかくて、私の中に残っていた小さな氷を溶かしてくれた。