背筋を伸ばして、パソコンの前に座った。


隙を見せないように、必死に仕事をこなしていく。


彼に乱れた私を思い出させないようにするために。


私の斜め後ろに座る彼が見ているのが分かる。


背中で彼の動きを感じ取るたびに、集中できなくなる。



「そういうの見れば見るほど燃えるんだけだよ。」


「男のこと分かってないんだから。」言いながら彼はタバコに火を付けた。


煙が薄く香る。


私は手で煙を払った。


「意味分かんない。」


そう、意味が分からない。


周りに気付かれないように精一杯頑張っている私は間違っているのか。


「昼間と夜とギャップがあればあるほど、男は煽られるんだよ。」


首筋に彼の指を感じる。


追いかけるように唇が這って、舌の熱が溶かしていく。


「お堅い君がこんな風になるって誰も知らない。それがいいんだよ。」


少しずつ頭にもやがかかって、何も考えられない。


ベッドサイドのタバコの煙のように。


「でも・・、誰かに知られたら困るのあなたなのに・・・。」


背中に移った彼の手はやんわり私を溶かしていく。


「知られちゃ困るけど、誰かに教えたくなるんだよ。」


それは矛盾してるよ。


言いたいけど、もう声にならない。


彼の息が耳にかかってもう何も聞こえない。


抱きしめる腕がきつくなって、痛いくらい。


私は奥歯をかみしめた。



朝になると、またいつものお堅い私に戻る。




後ろから彼の視線を感じながら、落ち着かない気持ちを悟られないように。

私にはどうしても過去になってくれない人がいた。


「最初から結婚しようと思って付き合ったから。」


その人が言った一言。


結婚すると報告を受けたのは一週間前のメールだった。


「おめでとう」の一言を送るのに2日かかった。


放心状態から抜け出して、何とかメールを送った。


その後彼からご飯に誘われ、言った一言がこれだった。


「ああ、そう。」


じゃあ私は最初から結婚するつもりはなかったと、そういうこと?


それは言わずに喉の奥に押し込んだ。


付き合って1年で結婚することになったようだ。


今まで私と別れてからも何人かと付き合っていたのは知っている。


確か5人。


長続きしない性格だったから。


別れた今でも彼のことが好きだった。


多少美化されていることは否定しないが。


もちろん私も彼と別れた後他の人とお付き合いもしている。


それに彼には言っていないが、多分今の彼と結婚する予定だ。


それにしても「最初から結婚するつもりで付き合った」って言うのはどういう事なのか。



もう彼もいい年だし、ここらで手を打つかということなのか。


それとも彼女は最初から特別だったということか。


後者の場合だと、『特別』じゃなかった私はかなり気分悪い。


気分悪いのだが、人の物になる彼は前より魅力的に見える。


きっと彼はこの後私を自分の部屋に誘うだろう。


別れてから彼と寝るのは初めてじゃないし、珍しいことでもなかった。



彼の部屋に行くのは3ヶ月ぶりくらいだろうか。


別れてから数年経つが、全く変化しない部屋だった。


「引っ越ししないの?」


狭いこの部屋で2人暮らすのは厳しいように思う。


「引っ越しするけど、まだ荷物まとめてなくて。」


確かによく見ると片付けようとした形跡はあるが、また元に戻したようだ。


後ろから抱きしめられて、上を向かされ無理矢理キスをする。


身体を反転して彼の首に腕を絡ませそれに応えた。


別れてからはさすがにベッドでしなくなった。


リビングのソファーでも同じかもしれないが、一応の礼儀として。


これが最後になると思うと、余計欲しくなった。


彼が結婚を決めたのは、彼女が上手だったから?という根拠もない想像から、いつも以上に丁寧に彼を愛した。


後ろを向かされ、彼が入ってくる。


心地よい圧迫感に目を閉じる。


こんなに気持ちいいのに、これで終わりなんて。


彼の熱も、肌も、髪も、何もかも覚えていたくて、彼を抱きしめた。



彼が言った言葉に私は十分驚いた。


「これからもこうやって会おう?」


思わず私は彼の顔を見た。


「だって結婚するんでしょ?」


今までのようにはいくはずない。


奥さんにばれたらどうするの。


「大丈夫、気付くような子じゃないから。」


そこでようやく納得できた。


彼は所謂『鈍い』子を選んだ。


彼の浮気に気付かない鈍い子。


私と別れた原因も彼の浮気だった。


彼は自分がしたいことを出来る人と結婚することにしたんだ。


「それに、俺と離れられるの?」


自信ありげに尋ねる彼に私は返す言葉はなかった。


確かに、離れなくていいなら、離れたくない。


なら、行けるところまで行くしかないのかも。


無言を了承と取った彼は、また私の上に乗る。


「これからもよろしく。」


そう言って笑う彼が私はまだ捨てられない。

ついつい仕事をしている手を止めて想像してしまう。


彼はベッドの中ではどんな風だろうと。


あの長い指がどんな風に動くのか。


あの大きな背中に汗をかくのか。


どんな目で見つめるのか。


考えれば考えあるほど、それはとても気持ちのいいものに思えてくる。


私の席から見える彼の背中が動くたびに私の想像はかき立てられる。


毎日そんなことを考えているうちに、どうしても彼としてみたくなってきた。


私は彼氏もいないしフリーだったが、彼は結婚していた。


特に遊んでいるって噂も聞かないから、奥さんを大切にしているのかもしれない。


そう思っても、私の衝動は止められなかった。


でも、自分から誘う勇気はなかったし、それとなく誘い出せるほど恋愛上手でもなかった。



そして、寒い冬の日。


彼と2人で出張に出かけた。


行きの新幹線の中では仕事の話で終わった。


帰りの車内、お互い疲れてしまって無言になっていた。


私はウトウトし始めた所で、彼の肩が私の肩に触れた。


身体をずらして避けるべきだと思ったが、これが最後と思い、彼に軽くもたれかかるようにした。


もし、彼が身体をずらせば寝ぼけていたことにしようとあまり重みをかけずにもたれてみた。


驚いたのか、最初こちらを見たようだったが特にそれからは動かなかった。


私はそれをいいことに、また少し身体を寄せた。


それから30分くらい経った頃。


「起きてるんだろ?」


気付いていたようだ。


私は慌てて言い訳を考えた。


でも何一つ言葉は思いつかなかった。


「何でこんなことするの?」


少し叱られているような口調に、黙って彼を見つめていた。


「何?試しているとか?」


私は首を横に振った。


顔が真っ赤になっているのは自分でもよく分かっていた。


彼はじっと私の顔をのぞき込み黙ってしまった。


私はいたたまれず、目をそらす。


「結婚してるけどいいの?」


彼はまだ私を真っ直ぐ見つめていた。


私は黙って頷いた。


適当に降りた駅で適当なホテルに入った。


彼はベッドに腰掛け、ネクタイを緩めている。


私はと言えば、入り口のドアの前で動けなくなっていた。


「こっちに座れば?」


彼はポンと自分の横をたたく。


言われるまま彼の隣に座ったものの、どうしていいのか分からない。


「誘ってきたのあなたでしょ?」


彼は意地悪く笑った。


何も言わないでいると、強引にキスしてきた。


舌が入ってくる感覚が妙に生々しくて、彼の服をつかんだ。


別に初めてなわけじゃないのに恥ずかしくてたまらなかった。


ボタンを外そうとする彼の手を思わずつかんで止めようとする。


その手を彼はつかんで押さえつけてしまう。


「待って、お願い。」


キスの合間から洩れる自分の声が甘ったるく響く。


両手を頭の上で押さえ込まれ、もう抵抗できなくなった。


彼の目には全て見えているだろう。


「ずっと見てたの知ってるから。」


思わず彼を見上げると、また意地悪く笑う彼と目があった。


あんなに想像した彼の指や背中は想像以上で、頭の芯が溶けるようだった。


ずっと彼が見ている気がして、私は目を閉じたまま彼に任せた。


今までしたことのない格好も彼に言われると従ってしまう。


恥ずかしいのに、本当に恥ずかしいのに。


ただ彼の言葉が全てになった。


少し眠ってしまっていたようだ。


背骨に沿って尾てい骨までなめあげられ、はねるように目が覚めた。


「もう夜中だよ。」


そう言う彼は起きていたようだ。


「帰らなくていいの?」


結婚しているのに。


「大丈夫。そんなこと心配しなくても。」


彼は私の手首に軽くキスをした。


少し赤くなっていた。


「もう一回しよ?」


彼はそう言うとまた私の身体に顔を埋める。


これからどうなるかは分からない。


会社でどんな顔をして会えばいいかも分からなければ、彼との関係がどうなるのかも分からない。


私が想像していたことなんてもうどこかへ行ってしまった。


今は彼しか欲しくない。


そのまま私はまた目を閉じた。