アナウンサー生活20周年を機に
私がアナウンサーになったきっかけや
なるまでの活動、なってからの出来事などを
綴っています。



藤田りえ物語①はこちらから
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「リポーターになりませんか?」




その言葉を聞いたとき
びっくりしたと同時に
「わーーー!面白そう
という気持ちがこみ上げてきました。




アナウンサーやリポーターは
滑舌がよく声の綺麗な人がなるものだと思い、
私には無縁だと気にもかけなかった職業…




なのに、
私は「やってみたい」と思ったの。






その場で即二つ返事をして、
名越アナの名刺をいただいたのかな?
近いうちに局に行って
カメラテストをすることになったのです。





結果、局長OKも頂戴でき、
晴れてリポーターを
させていただけることに!





担当するのは
夕方のニュース番組
「KSBステーションEYE」の中の
お天気&中継リポートコーナー。





声をかけていただいたのが
卒業式で3月末。
番組は4月スタートで、
もう時間もあまりない状態。
レッスンもままならない…




そうなのです…
素人中の素人の初めての仕事が



生中継リポート 笑



今思うと、
KSBって器大きいなぁと 笑




初めての中継は
何が何だか分からない状態のまま
終わってしまい
全く覚えていません
見てくれていた友人たちは
ハラハラドキドキしていたそうですw




その後も岡山香川の各名所に
連れて行ってもらい
いろいろな経験をさせていただきました。



羽田健太郎さんと
芝居小屋から中継したり
当時大人気の大石恵ちゃんと
(ニュースステーションの美人お天気お姉さん)
共演させていただいたり。




苦い思い出もありますよ

名越アナの質問に答えられず
自分の取材力のなさに
撃沈したこともあれば….





生放送中に
原稿をすこーーんと忘れ 
頭が真っ白になってしまったこともありました
目の前にある景色を実況して
放送事故にはならなかったものの
かなりショックで後で大泣きしました。





喋りの方は、、、
リポーターを務めながら
山西アナウンサー(当時の重鎮アナ!)に
個人レッスンを受けていましたが…
なかなか上達していなかったように思います。



なぜなら、
公共の電波を使ってお伝えする
「責任」の重さを
あまり感じていなかったから。  
本当、まんま学生気分だったのですよね。



もーー!!
当時の私に会って
往復ビンタ喰らわせたいですけどね笑!




山西さんにも
「若さ以外の武器を見つけないといけないよ」
と遠回しにお叱りを受けていましたが、
当時の私はピンときていませんでした。
今は痛いほど分かりますが




でも
中継リポートは大好きでした!!
スタッフみんなと
いちから作り上げる感覚がたまらなく
好きだったのです。



私はずっとこの仕事を続けていきたい。




そして
リポーターを続けること1年。
大学3年生の春。



局アナ試験を受けよう!と
覚悟を決めたのでした。



自分との戦いが
始まった日でもありました。







↓リポーター時代の写真
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↑左)女性としても大尊敬している
浮田アナウンサー、
中央)恩人の名越アナウンサー



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↑着ぐるみを着て中継したことも 笑
怒ってないですよw











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