昭和四十四年 入院して5か月が過ぎた。
国立中野療養所の同室には3人のミツオがいました。
満男、光夫、僕の光男で 3バカミツオと呼ばれていた。
春爛漫のある日 桜が満開と聞いて こっそり四人で病院を抜け出した。
(三時の検温が有り、それを済ますと五時~六時の夕飯までは安静時間と呼ぶ
昼寝の時間なのだが若者が昼寝なんかしたら、夜 眠られなくて大変だ。
僕は誰も来ない 廃墟と化した旧 旧館の屋根の上でこっそりギターで作曲などをして
時間をつぶしていたのだが、他の若い患者達もこっそり抜け出しパチンコに行ったりしていたようだ)
この日は缶ビールを持って近くの哲学堂公園に出かけた。
下の段 左の真ん中の男は写真に凝っていてカメラマン志望、僕は良くモデルにされた。
その頃はアルバイト感覚で ギター一つを持って キャバレーのステージに独りで立ったりしていたので、
変に場慣れしていて 写真を撮られる事等にも抵抗感などは無くなっていたようだ。
キャバレーで歌ったりしていると「若いのに うまいじゃないか、まあ一杯いけ」と客から声がかかる事もある。
「まだ、未成年です」とは言えず、酒もタバコもいけたので何食わぬ顔でゴチになっていた。
謝礼は千円程度でバスが無くなるとタクシー代で足が出る事もあったが、何しろ人前で歌えるのが楽しいし
ちょっと年増のホステスさんにはモテるし、一歩間違えたらヒモになっていたかも知れず、
今 考えると良いタイミングの入院だったのかも知れない。
(松戸だったか、草加だったかのキャバレーに出たときはフロアに一段高いだけの小さなステージが有り
その直ぐ傍には バスタブが置いてある。 最後に入浴ショーが行われるのだ。
そのステージで 「影をしたいて、酒は涙かため息か、骨まで愛して」の3曲を歌い 下がると、なんと
次にあがったのは 渡辺 マリさん。
ギターとアコーディオンの二人を連れて「星の流れに」 と持ち歌の「東京ドドンパ 娘」を歌ったが
ギターが下手で途中コードを間違えた。
歌い終えて渡辺さん、顔は笑いながらも しっかり叱りつけていた。
一時はスターだった人が 下手なギターを連れてこんなドサ回りをしている・・・・。
僕は渡辺 マリ さんがとても 可愛そうに思えて 仕方なかった。
話を戻して 哲学堂に出かけた四人は男だけの花見酒。
そんな もうすぐ二十歳のとある春の日のゆるーい午後のひと時。
下 3 バカ 満男 光夫 光男 右下 素は悪く無い カメラの腕は?
同室には沖縄出身者が 二人いました。
宮城くんと 与那覇くん。
与那覇くんはまだ18歳で 中学を出て東京に働きに来ていたが、
結核にかかり、沖縄に帰りたがっていた。 しかし まだ退院の許可がおりる状態では無い。
困った事に 彼のビザが3年目で半年後に切れそうだった。
彼は手術を受ける事を選んだ。それなら3か月程で退院出来るしこの病院で受ければ
全て無料で済むからだそうだが、みんなは思い直すように説得した。
何故なら肺の手術は背中から行うのだが、その時の傷跡が当時は、背中の肩甲骨に沿って大きく残ったのだ。
小柄だが目が大きくて男っぽいイケメンの与那覇君、沖縄に帰れば海に裸で出る事もあるだろうに・・・・。
でも彼の決意は硬く 手術を受け 3か月後に沖縄に帰って行った。
沖縄が日本に返還されたのは、それから三年後の昭和四十七年 五月十五日だった。
もう一人の沖縄出身者の宮城くんは運送関係の会社だった様に記憶していますが、違ったかも知れない。
そこの同僚にイケメンの男がいて、社長の娘と行く行くは結婚するものと皆思っていた。
ところがその男は、俳優になり当時ブームとなったテレビドラマの女子バレーの監督役が当たり去って行った。
と宮城君は憤慨しておりましたが、浅 黒い角ばった顔ながら女装好きで一階の女子房に出かけては
和服などを借りて写真を撮っていたので、仲間内ではあまり、真面目には聞いていなかったようだ。
その宮城くん、「沖縄では 蝉を食べるんだぞ」と発言して周りから「ウソだあー」とはやし立てられ、
とうとう夕食時に実演する事に。昼間捕まえておいた生きた油蝉を熱したフライパンの中に放り込むと
直ぐに蓋をする、 ヂーヂー バタバタ暴れていた蝉も直ぐにおとなしくなり、羽を もいだ宮城くん
そのまま口に放り込み2~3回 噛んで飲み込むと ドヤ顔。
周りは「ハイ ハイ確かに 見届けましたよー」と冷たい態度。
誰も ホントは疑ってはいなかったのだが、面白いから食わせてみただけだったのだ。
さて入院生活も半年も過ぎると色んな事に慣れてくる。
始めは毎朝飲まなければならないストマイと言う薬に苦しみました。
見た眼は龍角散の様にサラサラした 無味無臭の薬だが、これがとっても飲みにくい。
いっそ苦味でもついていた方がよほど飲みやすい。
まるで壁土を飲んでいる感じ。
それはそうだ 肺の穴を塞ぐ壁土の様なモノなのだから。
だから ほとんどの人はオブラートに包んで飲んでいました。
小分けにした5個のオブラートを水に浸しゴクン ゴクンと飲み込んで行くのにも慣れた。
土壁のおかげで ウンチがコロコロ ウサギのウンチになり便秘薬を貰っていたのが、
人間の対応力はすごいです、3か月で普通に戻りました。
人間慣れるモノはあっても どうにも我慢出来なくなるモノもある。
それは毎日の食事、一階に食堂があって学食みたいな感じだがお変わりは出来ない。
朝飯は 一月単位で パン食も選べるが、食パン2枚(トースターは5台程ある)にバター小包み、
牛乳一本だけ。
ご飯は味噌汁にお浸しやおからの和え物など とにかくお金がかからないモノ。
好みの関係か納豆は出たこと無し、手間がかかるからか焼き魚は出たためしは無い。
朝、昼 夕とこんな感じでなので、いい加減 へきえきしてきた若い仲間は一人一月1000円を出し、
中華料理の経験がある僕に夕食の副食作りを命じたのだった。
下 雨の中 中庭を通り 裏口から食材の段ボールを抱え
買い出しから 帰ってきた僕を二階の病室から撮った・・・の図。
娯楽室のガス台を使い野菜炒め等を作っては喜ばれていた。
今の病院では考えられないが、療養所と言う事で大目に見てくれていたのだろう。
先の写真の四人位で よくつるんでは遊んだものだ。
それほど暇を持て余していたのだが、歩いて二十分程の江古田駅辺りには良く出かけた。
駅前の「ゲート(門)」と言う純喫茶にはよく入り浸ったもんだ、。喫茶店なのだがビール位は飲める。
四時ぐらいの昼間にビールを頼むと女性店員が慌てて隣の酒屋に買いに行くみたいな店だった。
暇を持て余していた四人はある遊びを思いつく、そこの同じ年位の女性店員を口説くと言うゲーム。
先ず最初に 僕がアタックする事にアミダクジで決まった。
僕は 五日後にその店に行くまでに 作戦を考えていた。
四人でビールを頼むのは 午後の四時頃で喫茶店は一番 暇な頃で他に客はめったにいない。
その日 僕はレコードを一枚買って「ゲート」の門をくぐった。
そして 頃合いをみて買ったばかりのレコードをかけて貰った。
途端に店内の我々四人とマスター、女性店員は笑いころげる事となる。
そのレコードとはクレイジー キャッツのリーダー、 ハナ 肇の「アッと驚く 為五郎」と言うレコードだった。
その直後 笑い冷めやらぬどさくさの間に 交際を申し込んだら、ちょっと考えて「グループでなら いいわよ」ときた。
結果 僕はゲームに勝ち いっか月の間は割り勘を逃れたのだった。
ところが その娘は、もう一人の光夫が好みらしくグループ交際とか 言いながら光夫君にベタベタ。
最後に勝ったのは光夫君だったと言う おそまつ。
僕はしばらく 落ち込んで 本などを読んで おとなしくしていた。



