正義の人うらら | OHIYORI日誌

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3児のハハの子育てお天気報告


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■正義のひと

快晴君も最近いたずらが激しくなってきて、カミナリもよく落ちるようになりました。

そんな時、うららがとんできて、快晴をなぐさめつつ、私の方を向いて必死に抗議。

まるで正義の味方のようです。自分が叱られた時の怖さを思い出すのかなとか…。

でも、だれが教えたわけでもないのに大した正義感だと思います。

ただ…自分が気にいらないことをされるとおかまいなしにこぶしが…あしげりが…(笑)

こんなところがエセ正義の味方とでもいうか…(笑)


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■うららの誕生日に乗り越えたこと


今年の誕生日は、私にとって胃の痛い一日でした。

かねてより言いそびれていたうららの病気の名前を、亭主の実家にあてて、少し前に手紙で伝えていたのです。

それが届くのがちょうどうららの5歳の誕生日くらい。

何しろ、偏見と差別の代名詞のような病気なのだと知ったのは発症後のことでした。

年配の親戚から、「私の家系にはそんな病気の人はいないのにどうしたことだろう」といわれたのが最初。

なに~?なんで、そんなこと言うんですか?

この病気って遺伝なの?

思い悩む日々に胸がつぶれそうでした。

大学病院の先生にいろいろと話を聞いても、原因がはっきりしないので、出産時、あるいはその後の事故の確率も否めないし、もともとおなかにいた時に何かの病気に感染してその後遺症で…と、いろいろと考えられるからはっきりしたことが言えないと…。ただ、親せきの人が言われるような、遺伝だと言い切ることはできないから、心配しないようにと、それは快晴を妊娠した時に言われ、実際、快晴は今のところそんな心配はなく順調に成長してきています。

発症してから2年半、どうしても嫁の立場としては、遺伝だのなんだのと痛くもない腹を探られることになるのではないかというおそれで、またその誤解をきちんと説明して説くことができるか自信がなく、ずっとずっと黙ってき続けていました。

それまでなるべくよき嫁でありたいと、一生懸命表面を取り繕ってきていたのですが、3人目を妊娠してイロイロと本音で伝えなくてはいけないことも出てき始め、それに伴い、うららのことも打ち明けざるを得なくなってきていました。


手紙にしたためてから、約半月。本当につらく長い二週間でした。

うららの誕生日までには…!

自分の中ではそう決めていたのですけれど、でもひどく後悔もしていました。

もしかしたら、このことで離婚しなければならなくなるかもしれないとも思っていました。


ポストに投函してからは、本当に食事ものどを通らなくて、事情を知っている友人知人にそんな気持ちを溢れるように打ち明け、投げかけ、自分のしたことが正しかったかどうか、やたら確認していました。

やもたてもたまらない…そんなかんじで、落ち着かない日々を過ごしていました。



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――そして。

誕生日の翌日。

まさかの電話。

お義母さんから。

ショックのあまり、私のことを憎んで、連絡などくれることはないだろうと覚悟していたので、本当に驚きました。

電話の声は、落胆するでなし、怒りにふるえるでもなく…。

ただただ、おだやかで。

途中で涙声になりながら。

「まだうららなんかは幸せなほうやけん。寝たきりの人のことを思ったら全然かるいほうやけん。」何度も何度も繰り返して言い聞かせてくれました。

私に言いながら、実は自分で納得するために話しているようにも取れました。

「若いもんばかりで悩んでいて、どうするん?家族なんだから何でも言えばいいんよ」とも言ってくれました。

本当に本当に、重たい肩の荷物がドスーンと大きな音を立てて降りたような気がしました。

(1998/12/10記)


うらら5歳の時点で、知的発達はかなり遅滞しており、ようやく二語文が話せるようになったばかりでした。

これ以上、打ち明けるのを伸ばすにはさすがに不自然になるため、最後のチャンスではありました。

おかげさまで、離婚することなく今年で20年。

ありがたい気持ちで電話を切った事を今でも昨日のことのように覚えています。