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日本人を中国に放置した政府

日本人残留孤児帰国事業再開 

1972国交回復。敗戦から27年。
中国に残された人々は日本政府から切り捨てられ、放置されていた。

国交回復後も日本の政府の対応がにぶく、
訪中調査が実現するには、さらに8年を要した。


厚生省および北京大使館は、
生き別れとなった肉親探しを依頼する手紙がぞくぞくと集まった。

しかし、すでに復員業務を終えていた厚生省は
「戦争が終わった」としてとりあわず、
肉親探しはボランティアや関係者の手で細々と続けられた。

中国と日本を行きかう通信は、
〝ここにも日本人がいる〟
〝私の子供も生きているかもしれない〟
という声をしだいに広げていった。


個人で肉親を探す人もいたが限界がある。
人々は集まっていくつかの会を作り、
共感したボランティアは国を動かそうと力を尽くした。

新聞、テレビを通じて、孤児の身元を探す


一般公開調査が始まったのは、1975年。


日中平和友好条約は1978年8月12日、北京で調印された。
孤児の集団訪日調査が開始されたのは1981年のことだった。
日中国交回復が実現して、肉親探しが35年後にやっと始まった。


だが、長すぎた歳月は、外地から故郷の家族のもとに帰る
という単純な「引揚げ」を不可能にしていた。

肉親の消息はとだえ、その住所も生死も、中国の地からはつかめない。

故国日本は生活様式も、言葉も違う「異国」となっていた。
肉親探しは困難をきわめた。

どうせ死ぬだろうと、泣く泣く子供を手放してきた親がほとんどで、
肉親を確認するのに必要な証拠が残るはずもなく、
結局親子の証明は、お互いの記憶や体の特徴などに頼るしかない。

証拠があったとしても、すでに親が死亡したりしているケースも多い。

兄弟と判明しても、双方にとって突然他人が肉親だ、と名乗ったようなものだ。


しかし、肉親が現れる一方、名のり出ない家族もたくさんいた。
子供に会いたくない親はないはずだ。
名のり出たくても出られなかったんだろう。
孤児は自分の意志で中国に残ったのでなく置き去りにされたんだ。
子供を殺しかけた親、金や食べ物と引きかえに中国人に渡した親。
そんな親に果たして会いたいだろうか、
自分を許してくれるだろうかと思い、
名のり出るにはかなりの勇気が必要だろう。

そして、帰国後の孤児のめんどうを国が家族に押し付けている限り
名のり出られる肉親は少ないだろう。


肉親が確認できた人もたくさんいる。
なかにはすでに白髪混じり、孫を持つ〝おじいさん孤児〟もいる。
「せめてあと10年早かったら、
 せめて国交回復直後から本格的調査が始まっていたら」


しかし、言葉などの障害から日本人として生きていくのは難しい。
多くの帰国者は仕事がなく、生活保護に頼る生活。
文化か違うことからくるトラブルも多い。
そして地域からの孤立。
盗み等の犯罪を犯してしまう人、差別、イジメ。
課題が多い。