奇麗事じゃない、硫黄島の真実
「硫黄島」玉砕の美名に隠された凄惨な真実
話題の映画、「硫黄島からの手紙」で美化された玉砕。
本当の地獄は、その、組織的戦闘終結後の敗残兵の死に様でした。
米国立公文書館所蔵の戦闘記録によれば、
日本軍は3月に玉砕したのでなく、
5月まで大勢生き残り、週に100人単位で戦死していた。
最後まで投降せず、意識朦朧で捕らえられた捕虜は約千人。
尋問調書からは、一人になっても戦えと命じられ、極限状態に陥る、
勇壮さとはかけ離れた日本兵の姿が明らかになる。
投降も突撃も自殺もできなかった数千人の兵士が
地下壕で飢えと渇きに苦しみ、米軍の火あぶりで死んでいきました。
しかし、生存者は多くを語りたがらない。
部下の命と引き換えに助かった、思い出したくない。
近頃、海軍通信兵として現地にいた元兵士が手記を出版。
「今も夢に現れる陰惨な史実を闇に埋もれさせたくない。」
それによると、
壕内には腐乱死体と地熱と硫黄の悪臭が混じり、リンが燃えていた。
水さえない島なので、兵士は体に寄生する蚤や虱で飢えをしのいだという。
自決者が絶えず、日本兵同士の殺し合いも起きた。
「敵はもう、アメリカではなかった。
弱肉強食。獣の方がまだ愛情がある。」
「本人や遺族を思うと書けない話もありました。」
「戦史は結局偉い人の目線で書かれる。
下っ端がどんな思いだったか目を向けて欲しいと思ったんです。」
「あの犠牲の上に今の平和がある、と思いたい。
大事なのはその平和を私たちがどう受け継ぐか。
武力はいけない。
国が勝っても負けても(庶民は)被害者ですから。」
戦局はサイパンとグアム等が玉砕、
硫黄島はそこと本土の爆撃ルートの中間点として米軍の標的になる。
飲料水すらない孤島に陸海併せて兵2万人が投入される。
それは、急遽集められた年配兵や少年兵が中心で、
銃の撃ち方すら知らない者もいた。
かがんで通るのがやっとの手掘りの地下壕数百が掘られ、
全島が要塞化される。
豪内は地熱と気温で40度にもなった。
彼らは退却が許されず、陣地死守、一人十殺が厳命された。
守備隊戦闘心得
「一人になっても戦い、決して捕虜になるな
勝手な自決と玉砕も禁止」
しかし、彼らは米軍上陸前に既に軍から見捨てられていた。
軍の支援方針は、陸海軍中央協定研究・案(1945年2月6日)によると
「補給もままならない実情では
硫黄島を敵手に委ぬるの止むなき」
と記録されている。
1945年2月16日
3昼夜の砲爆撃が始まる。
実に、爆弾700t 砲弾5千tが投下された。
地下で耐える、夜と昼の区別つかない生活。
「頭がどうかしそうになる。」
「恐怖症で震えが止まらない者続出。」
19日
米軍上陸開始
しかし日本軍の一斉反撃で米軍大混乱になる。
連戦連勝の米海兵隊が苦戦する。
ある、第4海兵師団海兵隊軍曹
「日本軍はそれまでと違う。
夜になると万歳突撃して来て狙い撃ち、と期待して待っていたが、
それはなかった。敵は長期戦を狙っていた。」
海兵隊兵士
始めての地下の敵と対決し、
「朝になると兵隊の死体の山。
叩いても、叩いても神出鬼没で苦しい戦いだった。」
戦闘半ばで米軍の犠牲者は4千人を超え、
それまでの太平洋戦争の戦死者の半数に至る。
衝撃を受けた政府は、硫黄島奪取に全力あげる事を決定。
待機兵力を投入し、火炎放射器で焼き尽くす作戦が検討される。
日本軍の抵抗は2週間でほぼ壊滅。
死体を小さな豪に毎日移す日々。
ある日本兵はあまりの苦しさに、戦闘での即死を望んだ。
3月7日
海軍少尉に、「米軍占領地を突破し、擂鉢山を奪還せよ」、の命令が下る。
動くな(陣地死守せよ)、から一転、総攻撃命令で兵士は混乱。
どうせ死ぬなら、敵陣に飛び込もうという部隊が相次ぐ。
少尉は間もなく、途中で死ねと言うことか、と悟る。
ところが、豪の入り口は死体だらけで出られない。
にもかかわらず、兵隊は後ろから無理やり押し出される。
豪から出た日本兵は米軍の狙い撃ちにあう。
「出た瞬間に組織的戦闘は終わりですよ。」
海兵隊記録によると、玉名山だけで800人戦死。
防衛拠点の一つの陥落で戦闘の大勢は決する。
帰還場所と部隊を失った兵士は、以後、孤独で凄惨なゲリラ行動を強いられる。
「昼間は死体の中へもぐって動かない。
動くと米兵に撃たれ、銃剣で刺されるからだ。
そのまま戦車に轢かれて潰される人の絶叫が響きわたった。」
17日
ついに各部隊と連絡がとれなくなった栗林中将は、
司令部の放棄を決意して大本営へ打電。
大本営は細かい事実伏せ、壮烈総攻撃と発表する。
以後、硫黄島は玉砕精神の手本としてもてはやされる。
日本軍の抵抗は米軍に硫黄島の教訓をもたらす。
米統合参謀本部議事録
「降伏を拒否し、捨て身の地上戦を挑んでくる日本にどう対処するか?」
それは都市への絨毯爆撃であり、空軍力の増強であった。
本土への攻撃を遅らせる、と言う作戦は、
返って米軍に多数の日本人を犠牲を強いる作戦の選択をもたらした。
硫黄島はB29の護衛戦闘機の基地として使用される。