乳がんを患った小説家さんのエッセイであり、がん治療ということで時に苛烈で凄絶でいくつもの孤独感や絶望感が窺えましたが、それでいて時に微笑ましく、そして慈しみや労りに溢れていたように思いました。誰だって予想だにしない大病を患って苛酷な治療を強いられる惧れはあるし、生きていくその一寸先は闇かもしれないけれど、その中にはもしかしたら一筋の希望もあるのかもしれません。

そして、自分の身体を愛せるのは素敵なことだと読んでいて心底思ったものでした。身体のことだけでなく、弱い部分もダメな部分もすべて含めて、いまの自分の在りようを保証してくれるような一冊。

 

 

 

 

内容

1 蜘蛛と何か/誰か

2 猫よ、こんなにも無防備な私を

3 身体は、みじめさの中で

4 手術だ、Get out of my way

5 日本、私の自由は

6 息をしている

終わりに

 

 

『サラバ!』『さくら』などを著した小説家・西加奈子女史。2021年にカナダで乳がんになり、そこから治療が始まったのだそうですが、そのときの様子と自身の胸中がエッセイの形式で詳らかに綴られています。

大病を前にしたときの絶望感や狼狽、治療において精神と身体に強いられる負担、日本とは勝手が違う医療制度、さらにはコロナ禍のピークも重なり、あらゆる面で艱難辛苦を極めていたようでした。

 

 

そんな大変な治療の中にあっても、全編通して微笑ましくユーモラスな箇所も多分に含まれており、それがときに笑いを誘い、あるいは胸ぬくまるものがあります。家族、友人、隣人、医師、看護師、飼い猫。著者と著者の病状のみならず、周囲の人たちの事もたくさん綴られており、そうした多彩な顔ぶれに囲まれ、そしてその一人ひとりに感謝できることが、掛け値なしに羨ましく感じられたものでした。

 

 

終わった後の寂しさ

そうやって、たくさんの人たちの助勢もあり、著者は無事に治療を完遂されたわけですが、治療が終わり日常が戻ってからどこか寂しさを感じてしまったという述懐を綴っており、それが読んでいて印象的だった点のひとつでした。そうゆう事もあるのかと妙に感心したと云うか、幸い自分はここまでの大病を患ったことはないのですが、それでもその感覚は何となく分かる気がしたものでした。

何らか目標に向かって粉骨するとき、その最中は辛くて苦しくて仕方がないのだけれど、後になって思い返したときに、どこかその当時を懐かしむというか、妙に愛おしさを感じたり、あるいは寂しさめいた想いが去来したりすることはあるんじゃないかと思います。決して当時に戻りたい訳ではないのですが、そんな風に過去を慈しんでしまうことは、誰しもあるのではないでしょうか。

著者の胸に生まれた想いは、それに近いものがあるのかと思ったものでした。

 

 

自分の恐怖を、誰かのものと比較する必要はない

もうひとつ印象的だったのは「自分の恐怖を、誰かのものと比較する必要はない」という悟り。無事に治療を終えた著者ではありますが、自分より生存率が低かったりあるいは自分の長期の治療を乗り越えた他のサバイバーの話を聞いて、「自分のこの恐怖は不適当」であると煩悶してしまったのだそうです。されど、怖いものは怖いと認め他人と較べるものでもない、と思い至ったとのこと。

事実、自分の感じる怖さや辛さといった感情は、他人のそれと比べられるものではないのでしょう。それにもかかわらず、辛いときに、「他の人はもっと辛い」とか「他の人は出来ているのだから自分も耐えなければ」とか考えて我慢してしまうことは往々にしてある訳です。されど人それぞれ、耐えられる負担の量も違えばその質も種類も違うのだろうと思います。

同じことが起こったとしても、蚊に刺された程度にしか感じない人がいれば、命を断つほど追い詰められる人もいるのだろうし。こっちの方が辛いとかあっちの方が酷いとか、得手勝手に比べていいようなものではないのでしょう。辛さは枡で測れるものではないし、辛さには秤も物差しもないのだと思います。

 

怖さ辛さは人それぞれであろうし、それを感じている己を恥じる必要もないし、ましてや他人と比較する必要もない。そしてそうした感情のみならず、身体的な特徴も含めて、このエッセイは、他人と自分を比べることなく、いまの自分の在り方を保証してくれるようでした。

乳房と乳首を失った自分の身体を目にして、それをクールだと感じて愛せるようになった、という述懐がありましたが、自分の身体を愛せるのは素直に素敵なことであると、読んでいて得心したものでした。欠けている、過剰である、平均的である、他人と違っている。人それぞれ、身体的な特徴はあって、それは敢えて誇る必要もないのだろうけれど、少なくとも恥じる必要はないものなのでしょう。むしろ、ひとの身体的特徴に対して優劣とか勝敗とか正否とか善悪とか無責任な差し金を持ち込むことこそ恥ずべき所業。そうしたことを改めて気づかせてくれる内容であったと思います。

 

 

病気のことのみならず、ファッション、身体、性、日本のこと、あるいは生きることや死ぬことなど多岐にわたって示唆に富むエッセイ。そして「自分」が「自分」であることを祝福できるような一冊でした。それでも今の自分がどうしようもなく嫌いなのであれば、嫌っているほうの自分を大事にしたほうがいいのかもしれませんが、読み終わった後には今の自分を許せるようになるというかStay yourselfとでも言いたくなったものでした。

 

 

読了:2024年6月19日