ユダヤ人を助けてきた歴史を持つ日本 樋口季一郎中将と杉浦千畝
歴史を知らぬジャーナリストたち 玉川君もも少し勉強してみようか
樋口中将と杉浦千畝はユダヤ人たちを救った
命をつなげた彼らユダヤ人たちの子孫が杉浦千畝邸を尋ねに日本に来ている
という記事を見たことがる
「ルーズベルトニ与フル書」
1945年3月26日未明、日本軍硫黄島守備隊は最後の組織的反攻を行い、栗林忠道陸軍中将、市丸海軍少将以下、数百名の残存部隊がアメリカ軍陣地へ総攻撃をかけた。これが硫黄島での最後の戦いとなった。
有名な栗林中将は陸軍 映画 「硫黄島からの手紙」では渡辺謙が演じた
海軍では市丸利之助少将(3月17日に中将) この方は予科練の創始者として有名
あの7つボタン 短ランの軍服 予科練では非常に厳しい訓練が行われた
彼はパイロット出身 中将は遺書としてこの書をしたためた 米国大統領宛にだ
通称 予科練( 正式名称 海軍飛行予科練習生)
海軍 パイロットの早期養成機関 14才から17才迄の生徒に
大和魂 海軍魂と各種身体トレーニングと操縦技術を徹底的に教え鍛え上げた
そして巣立ち多くの卒業生は神風特攻隊等へ進んだ
戦争末期の日本 状況を鑑みるに.. お国を守るために一身を捧げる進路を取らざるを得なかった
巣立ち羽ばたいていく予科練性 敬礼と答礼
桜に錨の7つボタン
出た 軍人精神注入棒 これでケツバット
罰打(ばっだ)といったらしい
たるんどるーと何回も何回も軍人精神の注入をされる
もう立てない歩けないの重傷を負う
何か月も入院したなんてこともあったようだった
体罰がどうだこうだ 僕は容認派 子供の頃は厳しくやってほしい
映画 予科練 正式な映画名は忘れたが長門裕之が主演をしていた
それを昔に観たがもうさすがに忘れちゃったな
1950年 日活
あったあった 「七つボタン」っていうのか
主演は三國連太郎なのか 確か教官をしてた
歌もあったはず
若鷲の歌(予科練の歌)1943年(昭和18年)
良い曲だなーと思ったら
作詞:西條八十 作曲:古関裕而 ということでした 無敵でしょ
♪「大和魂には敵はない」
日本は数々の戦争をしてきた
日清 日露 第1次世界大戦 大東亜戦争(太平洋戦争)
僕が生まれた昭和32年には第二次世界大戦 先の大戦という奴 ..は終わっていた
干支で言うと丁度一回りした そんな酉年
戦後12年が過ぎ1年後には東京タワーもできた
当時の人々は復興も進み平和な時代を迎えて
安堵して暮らしていたことだろう 復興の象徴として
1964年(昭和39年)には東京オリンピックも開催された
テレビでゼロ戦はやとという漫画が放映されていた
今でも唄える かっこいい歌だった ゼロ戦は正義の味方
誰が敵かも分からなかったが、幼い僕にはゼロ戦ってのはただただかっこいい
子供たちはいつの時代もそうであるように平和な時は無邪気なものだ
学校に行き、帰ればランドセルを放り投げて近所の神社でメンコしたり鬼ごっこしたり
馬乗りやったり 身体を存分に使ってくたくたになるまで遊び回った
子供たちは街にあふれていた
ごはんよーなんて母親が呼びに来ることもあれば暗くなるまで遊んで家に帰り
母に叱られた こんなに汚してと半分切れられて、素っ裸にされて風呂に放り込まれ
身ぐるみはがされて、ごしごしと力任せの怒りの体の洗濯に身を任せた いてー
年子の弟といつも遊び怒られていた
やがて成長して高校生になった
僕たちの昭和32年生まれというのはもっとも暴走族が多かった世代だ
警察白書にも記載されている
僕は団体行動は好きじゃない 今でもそれは変わらない
しかし僕も当時は血気盛んなというよりファンキーな高校生だった 学校からは札つきだった
短ランとボンタンの制服姿で、僕はフリー麻雀や仲間との4人麻雀をするような高校生だった
学校にはたまに行き、駅前のパチンコ屋で煙草を吸いながらジャン球やったり
手打ちのパチンコやスマートボールなんてのもやった 当時はそんなアホな高校生が珍しくないほどいた
店も全然普通 注意なんてされたことがない 今とは違うね
人をイジメるようなことは一切なかったが、社会のルールにはかなり反した高校生だった
ルール無用の悪党と タイガーマスクの歌では言うが 僕はルール無用の善人
まーしかしね そんなこんなで70才 あっという間ですわ




