既にお気付きの方もおられるかもしれませんが、昨年秋からちょっとお酒に関する記事が増えております。
胃腸の調子が上向いたというわけでもないのに、やんわりと酒量が上がったり、暇を見つけてはワインのブドウ品種についてネットで検索していたりするため
「やはり自分はアルコール依存症なのでは?」
と、ちいとばかし怯えておったのですが、そのような話を珈琲工房香幸さんでしたところ
「本物のアル中なら『なんでもいいからとにかく飲む』筈ですからまだ大丈夫だと思いますよ」
てな、優しい気休めの言葉をかけていただきました。
あいかわらずいい人だな~
ともかく、今後も
「お酒はスピリタス(度数96%)やで!」と言い出したり、量販店でとにかく安いお酒を大量に買い込んだりする日が来ないよう、心して飲んだくれたいと思います。
かように
「どんなお酒でも私はお酒が好き」
という域はもう少し遠そうだと胸を撫で下ろしつつ
「どんな○○でも私は○○が好き」というのは、深いようでいて危険だなぁ、と、最近、改めて思っています。
「モノに貴賎はない」と、モノの背景に想いを馳せ、僅かかもしれない美味しさや良さの気配を味わう人をほんのり尊敬の念で見る一方で、同じようなフレーズを口にする人には、明らかな思考停止を感じることも少なからずあります。
「どんな人でも私はあなたが好き」とかね。
いや、無理です。
極端な話ですが、ギャンブル依存症の夫のために身を粉にして働いて自分の存在意義を確認し続けるなんて、不毛にもほどがあります。
あの人の幸せは、パチンコで高揚感を得ること。
私の幸せは、あの人に必要とされること。
一見利害は合致しているようですが、あの人が必要としているのは、私ではなく私のもたらすパチンコ代。
それでも、あの人が好き。
って、なんだそりゃ。
弱い人を支えようという心意気は立派ですが、相手に対しても自分に対しても、ある程度の冷徹さを持ったほうがいいと、個人的には思います。
嗚呼、でも余計なお世話だなこりゃ。
てなわけで、今年も
「どんな愛でも私は愛が好き」
的、フランス人気質(偏見にもほどがあるわ…)の情には縁の薄いワタクシですが、人もお酒も珈琲も、ほどほど冷静に個性を楽しみつつ、長~くお付き合いしたいと思うこの頃です。