『ホーッ、ホケキョ、、』 うぐいすがなく、いい感じの女人堂から、、

本尊には大日如来、、弁財天、、
約100年ほど前までは、ここから先、女性は山内に入ることが許されなかったようです。
密教界のルールは、どこをどう基準においていることやら、、?
私の家系は仏門、、祖父、叔父、父、、全員和尚でした、、高野山の ある宿坊寺院が菩提寺です。
夏の高野山、、今回は女人堂から歩いて 霊宝館、奥之院まで、、
まずは霊宝館へ、、
孔雀明王像、、鎌倉時代の、もちろん木造、、
立派な仏像が立ち並ぶ中、孔雀明王をお祀りしている寺院も少ないもので、しばらくは観賞していました。
明王と呼ばれているが 武器を持たず、菩薩とでもいうべき優しい顔をされている、、
孔雀は 毒草、毒蛇などを食べるらしい、、
御利益は 災いなどを 取り省く、、だから明王と呼ばれているのかな、?
浅井長政、、父、浅井久政、、嫁、お市の方(織田信長の妹) の絵画が 宿坊寺院の持明院から、、
戦国大名と古寺、、
戦国の世は 一族の大義名分の、野望の為、、何人もの殺生をしてきた、、場合によっては 親や親族をも殺めてしまって、、科学も医学も発達してませんし、だから神仏に頼ったことが多いのかな、、
そして、名前の知れた大名衆は 自分の菩提寺を持つようになったのかな、、せめてもの罪ほろぼしに、、
高野山 奥之院へ、、
お~ぉ、森の中の戦国大名よー、、
入り口からいきなりの 奥州仙台 伊達家、、
その隣に 加賀 前田家の大きな墓石、、
石田三成の、、その奥が明智光秀、、光秀のごりんの墓石のまん中が縦にひび割れしている、、
織田家の血族に石にまで切り刻みにされたのかな、、
阿波徳島 蜂須賀家、、安芸 毛利家、、
お~ぉ、中でも薩摩鹿児島 島津家のごりんが何体もあるし、でかいデカイ、、
関ヶ原の合戦、以降、徳川方についた外様大名の墓石が どうしても でかいようにおもえて、、
だいたい、こんな険しい高野山に これだけのでかい墓石を、しかも、何百年も前に運び込むなんて、、莫大な金を使ったのが まるわかりの様に、、
きっと徳川方に 気をつかったのかな、、
徳川幕府の参勤交代も、各地の外様大名にカネを蓄えささぬよう、しょうもないことを企まさんように、、
徳川幕府は実によくできた、、かしこいですね。

上杉謙信の廊の右前あたりに 武田信玄の墓、、
あの世でも川中島の続きかな、、
謙信は晩年、高野山の宿坊寺院で念願の出家をしたと本で読んだことがあるけれど、、
謙信と信玄は最強に強かったけれど、将軍になれなかったとは、、今の時代も、どこぞの時代も理不尽だと残念に思います。
高野の森の奥深くに 弘法大師霊廟に近づく手前あたりに、豊臣家の、秀吉、、そして織田信長の墓が、、
信長は やっぱり人気がある、、賽銭に商社の名刺まで 供えられてありました。
信長は 戦国統一、一歩手前で いっきにかたをつけるよう、安芸の毛利を落とした後、この高野山を焼き討ちにする予定だったと、、その前に高野山宗徒を1500人、打ち首にしてるとも、、歴史資料で読んだことがあるのですが、、
本能寺の変がなかったら、おそらく比叡山延暦寺の次が高野山で、、その信長の墓石が高野山にもあるのですね。
私はメジャーなところでは謙信が、、
空海の霊域に そうそうたる大名衆の面々、、
今は あの世で酒盛りでもしているのかな、、
きっと、そーあってほしいですね、、
