『青雲はるかに』という小説の中に心に残っている場面がいくつかあります。
そのひとつに月をながめて悲嘆に暮れる場面があります。

ー春の月か
范雎(はんしょ)は梁をながめながら、ぼんやりと故郷を憶い出していた。
ーなにもない春がつづく。
よろこびの心で月を仰いだ事はない。夜は一日のつらさをなぐさめる時でしかなく、明日への苦痛へのはじまりでもあった。
かつてはそうであり、いまもそうである。

文庫本上巻57ページより

ここから、更に悲しみと苦痛は深くなります。
よく生きているなと自分を嗤い(わらい)、未来に対する希望と幻想が入り交じった自分の思いが非現実である事に打ちひしがれ、世の中の人々の沈黙に絶望します。
敢えて言うなら沈黙も言葉であり、自分を否定する言葉なのであろうが、それは大いなる肯定語であるという奇跡がないことはない、と思う場面があります。
ただ苦しみ、悲しみに暮れる時もあります。
どうしようもないという現状を直面して、打ちひしがれるだけの時もあるでしょう。
そのような時には、深い悲しみと絶望という苦しみに自分の心身を浸す事を求めているのかもしれません。
落ち込むだけ落ち込めば気持ちが落ち着くものです。
だけど、それでは言いようもない空しさしか残らない事もあります。
それは何も自分の中では解決していなかったり、もしくは何も得るものが無かったからではないでしょうか。
愚痴や不平不満をぶちまけた所では何も満たされない事もあります。
そのような時には自分の思いと向き合う事と、悲しみの沈みきって深みの底まで行く事が必要だと思います。
途中まで沈んでは見えなかったものでも、悲しみの底にまで行く事で初めて見えて来るものがあるはずです。
そこに行き着いたからこそ、自分が本当に求めているものが見つけられるものだと思います。
それは自分にとっては希望となるものかもしれませんし、もしくは自分を戒めるものかもしれません。
自分にとって都合の良いものか、不都合なものか。
何を見付けられるかはありますが、それは自分の悲しみに対する答えがあるはずです。
悲しみに沈みきる事で得られる答えがあるのであれば、悲しむ事にも何かしらの意味があるのだと思います。