「分離がない」とは…

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もしも自分を含めて目の前にあるものの一つ一つに名前がついていなければ、世界は一つに感じられるであろう。


言葉によって世界を認識することができない赤ん坊が感じている世界は、自分も両親も赤の他人もテレビも車も空も山も…全てが区別のない一つなのであろう。


聖書には「始めに言葉ありき」と書かれているが、人間とその他の物を分ける人間の歴史は言葉とともに始まったのであろうけれど、言葉による区別のない世界は言葉ができる前からずっと存在し続けている。


言葉がない意識だけがただある世界が土台にあって、その上に言葉で表現された世界がある。


言葉で表現されるものが増えていくにつれて、分離も増えて世界が複雑化していく。


言葉のない命の源とは常に繋がってはいるものの、言葉で認識する世界が増えていくと、そちらのほうに思考のエネルギーが使われてエネルギーが消耗する。


言葉での生活が中心になると、次第に源のことを忘れてしまい、移り変わる言葉の世界であくせくすることになる。


とはいうものの、命の源である真の私とは常に繋がっているので、何かのひょうしにあくせく生きる緊張が緩んでリラックスしたとたんに言葉が外れて、言葉のない命の源が現れることがある。


そういうのを一瞥体験と呼ぶのであろう。


もしもその体験がこの上なく素晴らしく再びその世界に触れたいと思うなら、


それこそが真の平和であり幸せだと思い、その世界を探求するなら、


コツは、移り変わっていく言葉の世界ではない言葉のない世界を第一優先にして、緊張よりもリラックスを心がけることが大事であろう。


そのために瞑想とか座禅とかも心身のためにもいいと思われるので実践することをお勧めする。


瞑想や座禅中に現れる思考や物音等は、川が流れていくように流れていくのを観ているようにすればいい。


思考や物音は自然に起こることなので、それに付いていくことなく流していけばいい。


とにかく現実だと思い込んでいる言葉で作った現れの世界は、浮かんでは消えるはかない雲のようなものであって、常に変わることのない命の源である真の私が存在しているということを意識することによって、すでにそれと繋がっているのだと確信することができるであろう。