翁の方財=ただいま94歳=我が祖父 島髙重太郎を偲んで(6)方財神社 | 行動派行政書士のチャレンジとつぶやき(医療・産業廃棄物・出入国在留許可(出入国管理)・建設業・農地法・土地利用・相続・民事法務等)

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方財神社

方財町の西部、川岸に住んでいる私は、台風や洪水のときに、川端が崩壊するのをよく見ている。
明治39年のときには、上区から高島家の下まで、約15間(けん)が崩れ、その下流の方もたびたび壊れている。
『広い墓地があったのが、くずれてしもうた』
と話しているのを聞いたことがある。
「日向地誌」をみると、方財には『墓地=Ⅰ町5段3畝7歩』と出ており、この一部が流されたのであろう。
明治34 年ごろから壊れた敷地や倒れて無くなった家を覚えているだけ書くと、
▽浮島万吉▽高浜忠吉▽高田長次郎▽甲斐恭市▽松下愛治▽佐藤新造▽浦田三吉▽浪岡佐吉▽長田政吉▽米田新作▽高島新蔵▽縫初吉▽高田庄造▽甲斐七五郎▽島髙浅吉▽本吉岩夫▽浜田林造▽甲斐秀吉▽熊本茂七(当時の戸主)らとなっている。
「方財島」の中央部に方財神社がある。創建年代は、よくわかっていないが、旧延岡城主の有馬康純公は、領内に多くの神社を建てておられるので、そのころに建てられたと推定される。
有馬康純公は、貞亨4年(1687年)10 月に隠居して『仮宿』と号し、永純公が城主となっている。
そうなると方財神社は300年にわたって守られ、信仰を集めてきたことになる。
古い時代は「大将軍神社」と呼んでいたということである。
神殿には見事な彫刻もあり、雨にかからないように二重に屋根を作って保護するという気配りがされていたが、約35年前に覆いが外されたので、損傷が目立つようになっている。
すぐれた彫刻を残すためにも、早く保護の手をさしのべるさことが必要であろうと思う。
神社の棟札には「安永8年『1779年)9月25 日・清高島大工・団七」とあったのを氏子総代になったときにみた。
また寛政3年(1791年)の「お札」には、「奉再興・大将軍社、蛭子神社・本社一宇成就・安鎮守護修」となっており、「大将軍神社」と呼んだことや「蛭子(えびす)神」を合祭したことがわかる。

【メモ】
「宮崎県史蹟調査」(昭和2年刊)によると、方財神社は「東臼杵郡岡富村大字方財島小字方財に鎮座」とある。そして、
『もと大将軍神社と称した。その由来は明らかでない。明治4年(1871年)11月、他の神社を合祭して、方財神社と改称』
『祭神=大巳貴命、蛭児命、磐長姫命、大童津海命』
『合祭社=稲荷神社。川口神社=享保4年(1719年)11月14日、旧城主・牧野備後守源良倶の勧請。歴代城主が厚く尊徳拝し、殊に海上安全の守護神と称した』
『宝物=棟札4枚。享保6辛丑年『1721年』8月21日。安永8己亥年(1779年)9月25 日外2枚あり』

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