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オレンジネコのブログ

 
 
すみません開始から1年以上たっても何がなんやら(笑)
ここのコメントもようやく少しお手入れ。
内容は統一感なく色々?やってます。
こんな感じですがたまに役に立つかもしれないことも書いたりなので、
もしよろしければお暇なときにでもご覧ください。

きっと人間は生きていく中で自分の形を意識するようになる。

 

それは小学生から大人まで、自分を自分として認識して何年か生きれば自然と起こることなんだと思う。

 

自分はこんな感じ、これが苦手でこれが似合って、たぶんこう思われている。

 

 

その結果、自分の限界や苦手なことが固定されて、そこにそれが自分の普通という繰り返しがすりこまれていく。

 

 

物語や想像の世界にはヒーローや何でもできるような人がいて自分にはそれができない。

あの人にはできることが自分には出来ない。

 

そう思うのはそうした自身の繰り返しの刷り込みや周りからの刷り込みもあって、それが真実だと思い込んでしまっているから。

 

自分にもそれがあって、というかむしろ自分はそれが強いほうで慎重で後ろ向きに自分をとらえてるところがあるけれど、

けど、ほんとにそうかなとも思う。

 

いい出来の物語の主人公もちゃんと悩むし、できることもできないこともある。

そしてできないと思っていたことをできるようになることもある。

 

それは人間が成長するからって前提があるからで、物語はそれがちょっと多めに成長するようにできているだけ・・。

 

そう考えるとほんとに自分は全然できないのか?と、そんなことも思えてくる。

 

なんとなくみんな、『きっかけ』を得られないだけなのかな?とも思う。

自分ができると思えるきっかけ、チャレンジするきっかけ、自信を持つきっかけ

 

というのも、自分はできないことが多い、特に人間相手は疲れてしまうから苦手だったりするのだけど、

実際には人間相手のことを結構していたりもする。

 

苦手なことをするときは、誰かを参考にして、自分でできるようにしている感じもある。

ただ真似をするだけは気持ち的に無理なことも多い。

自分にないことを真似しようにもどうするかわからないから。

 

けど、その人のつもりで何かをすると案外できてしまうこともある。

あの人はこの時どんなだったかなと思い、その人になりきるような気分で。

 

できない自分が『できる人のやってることの真似』をしようとしても無理でも、

『できる人自身のつもりになってやる』ことは可能なんじゃないかと。

 

それは物語やそれを演じる想像の世界のようなもので、必ずしも成功するわけじゃないけれど、100個のうち1個でも2個でもできるなら、それは十分にきっかけになっているのかなと思う。

 

きっかけや可能性はいくらでもある。

 

普段会話で小さな声しか出せない人でも、まったく大きな声を出さないわけじゃない。

いやな時に声を荒げたことは?怖い時驚いたときに叫んだことは?

 

普段声を荒げる必要もなく静かに過ごしてる人でも、別に声を荒げられないわけじゃないから、ちょっと悪っぽい荒っぽい人の気になって声を出したら、案外出るかもしれないし、そんな普段しないことをすると世界が変わるかもしれない。

 

もちろん相手のいることでそれをいきなりはできないけど、一人で演技でもするように、ちょっと試すように立ったらできることもあるかもしれない。

 

ちょっとふざけてやったら楽しくなれたら勝だと思う。

楽しい経験は人の原動力になるし、それを何かで人に認められたら・・

 

と、そんなことを考えると、例えば演劇とかなんかを演じる経験てのはすごく面白いだろうなぁと思ったりもする。

 

ただ、それをするにもまた自分の形が邪魔をする。

こんなことしちゃいけないかな、とか、やりすぎかな、とか、変な常識とかブレーキみたいなものもかかってしまったり。

 

どんどん萎縮していってしまう・・自分の形に収まろうと元に戻っていく感じ・・。

 

もちろん演じるとかってなると、その前後関係やら背景やら、キャラクター性なんてものがあるだろうし、それを読み解く力も必要なんだろうけど、でも結局は楽しむ力が一番なのかなとも思う。

 

と、話がわけわかんない方向に向きだしたので戻りますが、

否定されてばかりでそんなきっかけが欲しかったなと思う自分は、なんとなく人にそのきっかけを持ってもらいたいしそのきっかけのきっかけに慣れないかなぐらいは思ってしてみたり・・。

 

そんな自分の形の中でできる自分をしていたら、そこに何かを見出してくれる人もいたりで、少しずつ自分の思っている形とは違う、人から見える自分の形を少しは信じてみようかなぁと思ったりするようにもなったりと・・

 

形はそうしてちょっとずつ変化しているのかなぁと。

 

 

まぁ、自分が自分を認めて変わっていければそれが一番なんだけどね。(笑汗)

 

短い言葉って簡潔で簡単なように見えて難しい・・そう思いついつい長くなる。

 

人っていろんな捉え方、理解の仕方をするもので、それを考えると誤解を与えないようにと例え話やら補足やらを重ねていかないと予想したのと違う結果につながる・・なんてこともあるので、どうしても長くなっていくのですが・・

 

特に文字会話は感情や表情が直接は読み取りにくく、相手の解釈次第になるので、簡潔に書いたつもりが、ニュアンスが強く取られるなんてことが起こりやすいように思う。

 

顔を合わせた直接の会話でも、言われたくないことを言われるような場面だと、受け入れがたさから過剰反応してしまったり、力んだ先読みで勝手に誤解したりなんてことも。

あまり会話をしない相手なんかも、その人がどういうことを言う人かわからなかったりで、伝わるべきことがうまく伝わらないなんてことも。

 

この想定だと、その人がどういうことを言う人か想像がつくけど、あまり話したことない人はどうなんだろう?という疑問はわくものの、これも結局印象が増幅される傾向はあると思えるので、という心配はまぁなきにしもあらずなのかなぁと・・

 

 

こんなことを改めて考えてるのは先日人と顔を合わせる場面で特に会話をすることなく帰ってきた自分がいるからなのですが・・。

 

 

短い言葉が苦手、というのは前述の理由からあるとは思うものの、実のところ自分でもよくわからずなところは・・。


別に人と話せないとか緊張するとかそんな理由で言葉がつまるわけでもないので、タイミングとか時間とか伝わりを考えている間に、それが難しいと感じていたりしているのかなぁとか

 

時間と文字数をかけて何かを伝えるのはそれだけ相手に伝えたいとか、大事な相手だとかそういうのはあるのかなぁとか

 

人との距離感の取り方が少し極端なのかなぁとか
 
まぁいろいろ考えはしましたがうーん。
 
 
まぁ、そんな悩み事をつらつら書いてもしかたないので、話を戻しますが、言葉ってなんだろうとちょっと思ったのです。
 
ほんとにその通りに伝わるものなのかといえば、意図したことと違う形に伝わることも多いわけで、なんかこう全身全霊名いっぱい伝えることに一生懸命でやっとそれっぽく伝わるかなって感じのするものと・・。
 
 
まぁそんなことをみんながみんなにできるわけはないので、それを本気でするのは自分のキャパだと本当に大切にしたい相手だけにはなりはするのですが・・。
 
言葉はいくらでも発することはできても、そこに意味を持たせるのはやっぱり難しいなぁと。
 
 
うーん、結局長い言い訳をしているような・・(汗笑)
結論は出ないままたぶんこれからも考えていくことなんだろうなぁ・・
 
何が言いたいのか自分でもわからない(汗)