きっと人間は生きていく中で自分の形を意識するようになる。
それは小学生から大人まで、自分を自分として認識して何年か生きれば自然と起こることなんだと思う。
自分はこんな感じ、これが苦手でこれが似合って、たぶんこう思われている。
その結果、自分の限界や苦手なことが固定されて、そこにそれが自分の普通という繰り返しがすりこまれていく。
物語や想像の世界にはヒーローや何でもできるような人がいて自分にはそれができない。
あの人にはできることが自分には出来ない。
そう思うのはそうした自身の繰り返しの刷り込みや周りからの刷り込みもあって、それが真実だと思い込んでしまっているから。
自分にもそれがあって、というかむしろ自分はそれが強いほうで慎重で後ろ向きに自分をとらえてるところがあるけれど、
けど、ほんとにそうかなとも思う。
いい出来の物語の主人公もちゃんと悩むし、できることもできないこともある。
そしてできないと思っていたことをできるようになることもある。
それは人間が成長するからって前提があるからで、物語はそれがちょっと多めに成長するようにできているだけ・・。
そう考えるとほんとに自分は全然できないのか?と、そんなことも思えてくる。
なんとなくみんな、『きっかけ』を得られないだけなのかな?とも思う。
自分ができると思えるきっかけ、チャレンジするきっかけ、自信を持つきっかけ
というのも、自分はできないことが多い、特に人間相手は疲れてしまうから苦手だったりするのだけど、
実際には人間相手のことを結構していたりもする。
苦手なことをするときは、誰かを参考にして、自分でできるようにしている感じもある。
ただ真似をするだけは気持ち的に無理なことも多い。
自分にないことを真似しようにもどうするかわからないから。
けど、その人のつもりで何かをすると案外できてしまうこともある。
あの人はこの時どんなだったかなと思い、その人になりきるような気分で。
できない自分が『できる人のやってることの真似』をしようとしても無理でも、
『できる人自身のつもりになってやる』ことは可能なんじゃないかと。
それは物語やそれを演じる想像の世界のようなもので、必ずしも成功するわけじゃないけれど、100個のうち1個でも2個でもできるなら、それは十分にきっかけになっているのかなと思う。
きっかけや可能性はいくらでもある。
普段会話で小さな声しか出せない人でも、まったく大きな声を出さないわけじゃない。
いやな時に声を荒げたことは?怖い時驚いたときに叫んだことは?
普段声を荒げる必要もなく静かに過ごしてる人でも、別に声を荒げられないわけじゃないから、ちょっと悪っぽい荒っぽい人の気になって声を出したら、案外出るかもしれないし、そんな普段しないことをすると世界が変わるかもしれない。
もちろん相手のいることでそれをいきなりはできないけど、一人で演技でもするように、ちょっと試すように立ったらできることもあるかもしれない。
ちょっとふざけてやったら楽しくなれたら勝だと思う。
楽しい経験は人の原動力になるし、それを何かで人に認められたら・・
と、そんなことを考えると、例えば演劇とかなんかを演じる経験てのはすごく面白いだろうなぁと思ったりもする。
ただ、それをするにもまた自分の形が邪魔をする。
こんなことしちゃいけないかな、とか、やりすぎかな、とか、変な常識とかブレーキみたいなものもかかってしまったり。
どんどん萎縮していってしまう・・自分の形に収まろうと元に戻っていく感じ・・。
もちろん演じるとかってなると、その前後関係やら背景やら、キャラクター性なんてものがあるだろうし、それを読み解く力も必要なんだろうけど、でも結局は楽しむ力が一番なのかなとも思う。
と、話がわけわかんない方向に向きだしたので戻りますが、
否定されてばかりでそんなきっかけが欲しかったなと思う自分は、なんとなく人にそのきっかけを持ってもらいたいしそのきっかけのきっかけに慣れないかなぐらいは思ってしてみたり・・。
そんな自分の形の中でできる自分をしていたら、そこに何かを見出してくれる人もいたりで、少しずつ自分の思っている形とは違う、人から見える自分の形を少しは信じてみようかなぁと思ったりするようにもなったりと・・
形はそうしてちょっとずつ変化しているのかなぁと。
まぁ、自分が自分を認めて変わっていければそれが一番なんだけどね。(笑汗)
