夏みかんの木のそばをアゲハチョウが飛んでいる。右の羽が少しちぎれてバランスが取りにくいだろうに、ひらひらと飛びつづけて、卵を産んでいる。葉の裏側へ産み付けるために、体をぐっと前かがみにして、羽ばたきは止めない。


必死すぎるんだよ、と思う。そしてちょっとうらやましい。

あの卵から幼虫が出てくる頃には、親の蝶は死んでいるかもしれない。でも安全な場所と、十分な食糧を得られるところに産んでくれた。親に会えなくても、自分なら泣いて感謝する。


だって帰ったら夕飯の買い物をするお金が残ってるかもわからない。お母さんがわたしが学校に行ったあと、自分の飲むお酒と、つまみを買ってしまうから。

そして洗濯物が干してなかったら、急いで洗濯機を回さなくちゃいけない。明日は体育がある。体操着を洗わないといけない。

お風呂掃除がまだだったらそれもやらないと。お父さんが工場から帰ってきたときに沸いてないと、とても機嫌が悪くなる。お風呂と、お風呂上がりのビールと、晩ごはんがちょうどよく出てこないと、大きな声でお母さんを叱る。ときどき、布団から引きずり出して叩く。


最近、友だちと遊んでない。休み時間にちょっとおしゃべりとかするけど、一緒に帰ったりもしなくなった。お小遣いで晩ごはんのおかずを買ったりしてるから一緒に遊べないし、うちに来てもらってもお母さんが酔っ払って寝てるから、見られたくない。絶対、見られたくない。


わたしには、味方がいない。お父さんはお母さんが酔っていたら大声で叱る。お前なんかいらない、実家に返してやる、と言う。それは自分のために家事をしたり家計のために働いてないからで、子どものためには少しも叱らない。

わたしにはいつも、下手な料理だとか、こんな時間に洗濯物が乾いてないのかとか、掃除ができていないとか言う。

学校のテストでいい点をとっても家ではなんの役にもたたないと、思い知らされることばかり言われる。


わたしは、学校ではとてもいい子でよくほめられるのに、家では家事のできない役立たずとしか思われないし、まだ子どもだから働いてお金を稼げない。なんにもできない役立たずだ。

でも、こんなふうに扱われるのは本当は違うような気がする。テレビには、こんな家族は出てきたことがないから、普通じゃないんだろう。


わたしにはわたしの夢があって、それを叶えるためには、たぶん普通の親なら応援してくれる。それがない。絵を描いて、物語を考えて、両方作れる絵本作家になりたい。でも親には話せない。

もし反対されるとしても、それはわたしの夢を知っていればこそだからで、このままだと高校生とかになっても、親にやりたいことやなりたいものの話はできない。


この先のことは、ときどき考えている。

お母さんがお酒を飲みすぎて体の病気になったら、お父さんはちゃんと入院させて助けてあげるだろうか。それとも、お風呂が沸いていて晩ごはんができてさえいれば、満足なんだろうか。家に帰ったらここはおれの家だからおれが居心地のいいようにしなければ、それ以外は間違いだ、とよく言うけど。


お母さんの代わりにわたしが家事をやり続けないと、この家はおかしくなってしまうんだろう。わたしは、自分のやりたいことより、家族のために働いていなければいけないのだ。

どんなに夢があっても、それがわたしを救ってくれることはない。

現実には、わたしは夢を捨ててお母さんの代わりをしなければ、家族がバラバラになってしまう。なんとなく、それはこわい。


家の前の通りまで来たら、泣きたくなってしまった。

今日のテストは国語。95点取れて、先生に褒められた。私は、高校生になって大学生にもなって、もっと言葉を勉強して、絵本作家になりたい。だからこれはとても嬉しい。

なのに、嬉しいことを分け合える家族はいない。お父さんもお母さんも褒めてくれないし、上の学校にやる金なんか出さないといつも言う。


自分で働いてお金を貯めてから上の学校に行けるならまだいい。諦めないでやってもいける。でも、働き始めたら育ててやったのにかかった金を返すように、と言われている。


わたしは、いつになったらわたしのために生きられるのかなと思う。

あと何年、家族をバラバラにしないためにひとりでがんばらないといけないんだろう。小学校を卒業したら?中学校の卒業まで?


もしお父さんやお母さんが言う上の学校が高校のことなら、わたしはなんの夢も叶えないまま、中学校卒業で働いて、ほとんどのお金を家に入れることになる。


いつお金を貯めて、いつ勉強して、いつ、上の学校に行けるだろう。

もしかしたらずっと、お母さんのお酒や体を壊したときの入院費なんかに使われて、お金なんて貯められない。家族のために働いて、家でも外でも働いて、勉強してると怒られて、その繰り返しなのかもしれない。


ただいま、とアパートのドアを開けたら、お母さんは起きていた。流しでペットボトルに水を入れている。おかえりなんて言われたことはあまりない。今日も言わない。もう酔っ払っているのだ。あのペットボトルの中身は、半分は焼酎というお酒だろう。


泣いているヒマはないし、お母さんの前で泣くなんてまるで意味がない。酔っ払っているから、自分のために私より大きな声で泣くような人だ。なんにもならない。



さあ、冷蔵庫を開けて、晩ごはんの買い物のこと、洗濯機を見て洗濯物のこと、お風呂場を見てお風呂掃除のことを、考えなければ。

明日のことなんかより、今日をようやく生きるので精いっぱいだ。

上の学校に行けるかどうかは大事なことだけど、私がその頃までにお母さんよりおかしくなっていないとも限らない。


やっぱり、明日なんて、来るはくるけど、ないのと同じだ。

周りは受験や部活や遊びの予定がどんどん入るけど、私の家ではこのままか、これより悪くなっていくことしかわからない。それしか見えてこない。

きっと、中学校から始まる部活動にも入れない。勉強も本を読むのも、学校でしか許してもらえないし、ほめてももらえない。


それでも、生きていかなきゃいけないのかな。