大河原惇行先生の本を読みました。

土屋文明から小暮政次への短歌の流れ、その後についても書かれています。

 

お二人のことも著者の大河原先生のことも不勉強で殆ど存じ上げないので、自分のためにちょっと記録を。

 

 

土屋文明は1990年に100歳で亡くなっています。

直接の先生は小説『野菊の墓』の作者、伊藤左千夫でした。(伊藤左千夫の先生が正岡子規です。私の中ではここでアララギに繋がりました。)

土屋文明は万葉集の研究で有名な方だそうです。96歳のとき文化勲章を受賞しています。

 

小暮政次の先生が上記の土屋文明です。

小暮政次は2001年に93歳で亡くなっています。

 

短歌の歴史で言うと、1908年からのアララギの歴史が1997年に終わり、そこでアララギの流れを汲む結社は幾つかに分かれました。その中の一つが短歌21世紀です。短歌21世紀の最初の主宰が小暮政次で、現在の大河原惇行に受け継がれています。

 

 

自分の入った結社のことを殆ど知らなかったというのは問題大ありですが、そこは入ってからでも勉強できることなので厚かましくも許していただこうと思います。

短歌の「た」から始めて一年に満たない者のことなので、滑稽だと思って眺めていただくか、まったく気にしないでいただければ尚ありがたいです。

 

 

 

さて、この土屋文明、小暮政次、大河原惇行各氏の非常にざっくりとしたことがわかって読んだ本ですが、2004年に発行されています。

 

2001年に結社誌で連載が始まった『生と動揺』を収めている本です。

 

2001年。小暮政次が亡くなり、9.11テロが起き、短歌21世紀の内も外も大変なときに書かれた内容ということになります。

 

 

残された結社の人たち(この当時すら知らないのでまったくの他人事のように書いてしまいます)が、何を頼りに創作活動を続けていけばいいのかを書かれたのだと思って読みました。

 

 

万葉集を大事にしているので、柿本人麿や大伴家持についても最初の方で触れています。短い詩の表現として俳句の松尾芭蕉と与謝蕪村についても触れています。アララギで活躍した斎藤茂吉と伊藤左千夫についても触れています。それぞれおもしろかったので、何度も読み返すでしょう。その都度、思ったことを書いて記録しておけたらと思います。

 

 

土屋文明の残した言葉に「生活即短歌」というのがあるそうです。前置きも長いので今回はその周辺の感想を。

 

短歌は境涯を歌うもの、と大河原先生は書かれています。

さまざまな考え方があるのでしょうが、短歌21世紀という結社の特色はこのようです。短歌は境涯、つまり身の上を歌うものである。

 

その上でドイツの実存主義の思想家ニーチェの言葉を引用しています。

 

「未来のよき詩人は現実のことのみを表現し、(中略)ただ現実のみといっても現実なら何でもいいというものでない。どこまでも、選ばれた現実である」。

 

 

生活、身の上、現実。そんなところにおもしろくて他人の気を引ける歌の材料が、果たしてあるのかなと思ったのは私です。平たく言えばネタがないからムリかもしれないという。

 

歌の材料はどこにでもあるようです。その出来事の選び方に人間が表れ、表現しようと工夫するところにも人間が表れる、ということだそうです。

だから嫌なんだよなあ、という気もします。

「リア充」との比較をされてしまうことへの怯えですかね。

自分の生活がバレてしまうことへの恥ずかしさや恐れの気持ちは、誰にでもあるし、SNSを呼吸をするように操る時代の人間にとっては特に強い感覚かもしれません。自己主張をしたいけど、身辺のことは適当にはぐらかしたい、というような相反するものを抱えているのではないでしょうか。

 

それはそうなんですが、この本では別に住所や居住面積や世帯構成や年収をさらけ出せ、と言っているわけではありませんでした。

・・・いや、そりゃそうだ。

まあやってもいいんでしょうけれど、それで何が残るのかは知りませんし私は嫌です。やりたくない。

 

 

ニーチェの言葉のように、抽出するのは「選ばれた現実」で、その選び方と描写の工夫で、読んで共感できるかどうかがわかる。うん。

うん?わかるような、わからないような。

 

 

 

これまで読んできた『短歌入門』などからざっくりと判断すると、結局今の私が気をつけないといけないことは三つくらいです。

 

・報告にしない

・等身大で飾らない

・読む人のことを思いやる

 

たぶん多くの短歌を長年続けておられる方からは「違う違う!そうじゃない!」と笑われることだとは思いますが、今の私の気をつけないといけないことは主にここです。先ず気付けたことが少ないんです。

 

「こんなことを発見したよ」とか「ここに行ってすごく楽しかったよ」は伝えたいことです。だから伝え方として工夫を続けます。

小説のような情報は入り切らないので、簡潔に述べる技術を身に着けたいです。そして自分を大きく立派に見せたい気持ちをぐっと堪えるのをがんばります。

 

あとこれは結構大事なんだなと思ったのが、きつすぎる言葉や読む人が不快になる(ここは難しいですがいろいろ想像力を働かせて)表現については、扱いを特に慎重にしたいと思います。

 

 

まあ、でも他人のために詠んでいるわけではないですよね。

周りの求める通りにしようと思ったら自分の歌ではなくなりますし、最初から私にはその気がないしで、あまり外の目は気になりません。

 

結社の大先輩の皆さんに、読みやすい、心地よい、と思っていただけるようになれたらいいな。そこを目指して先ずはがんばらないと。

 

 

 

目標は達成可能な設定で。叶えば次の目標を立てる。

私が続けていくのに必要なことだと思います。

 

ときどき、こんなままでは他の誰かの方がずっとうまく伝えられる、私じゃなくてもいいのかもしれないと思ってかなり萎れることがありますが、そこも含めて等身大に詠もうと思いました。