土屋文明さんの本を読みました。

昭和7年の文藝春秋から、昭和60年の西日本新聞に掲載されたものまで、長きにわたるさまざまな文章や講演などの内容が収められています。

 

文章はとてもわかりやすく書いてありますが、実践となるとたいへん難しそうな内容でした。

難しく考えすぎてもいけないでしょうが、考えないままというわけにもいかないです。塩梅というものが難しい。

 

 

創作の世界で、こんなにも実生活の態度を指摘されることは少ないのではないでしょうか。特に写生・写実ということを掲げているのでそうなのかもしれませんが、根本態度を正しましょうとか、生活態度を見直しましょうという勧めが頻繁に見られたのでびっくりしました。

 

もちろん選者としてたくさんの方の歌を見てこられた経験も、ご自身の人生の経験も豊富なので、歌を作る上でそれが必要なことだという根拠があるのでしょう。それにしても、厳しい言葉だなあと思いました。

 

 

厳しいからじゃあやらない、というつもりではありません。

 

 

自分のことを詠むようにとつい最近勧められたのは、こういう意味だったのかなと思います。自分の観察したものを詠むのに加えて、自分の心の動きをきちんと描写する方法を身につける、ということではないかと。

 

他人事のように出来事を観察する歌が多かったかもしれません。それだけではあまりに積極性がないので、少しは自分を出しましょうということではと思います。

 

 

できるまでには時間がかかるかもしれません。

臆病だし疑い深い自分にとって、自分を詠むとか自分を出すとかいうことは身ぐるみ剥がされるのかしらという感想を持つ出来事です。

 

認知の歪みがひどいので、修正しないといけないことが山積みです。

まず上の「身ぐるみ剥がされるのかしら」は、そんな暇のある人が短歌をやっている筈がないのに、自分から出てくる深い疑いだなと思います。思うのに、なかなかそこから出ていけないのです。

 

 

前の記事にも書いているように宗教に関わったことで受けたダメージが大きく、それが家族との関係にも影響したので人生の半分以上をもぎ取られたように感じています。自分が生きてきた大半の時間と出来事について、距離を起きたいと日頃から感じているのです。

 

自分の作品にはそれが出ていると思います。いい思い出を詠むという作業ができないのは、そもそもいい思い出がないから、というような。

それはきっと思い込みで、いい思い出を取り出す勇気がないから手つかずになっているんでしょう。生き残ってきたのだから、何かしらいいことはあったに違いない。

そう思おうとしても、思い出すのが辛い時期が多くて今を普通に過ごすのに支障が出るほどなのは、やはり手を出すのにもう少し冷却期間のようなものが必要なのかもしれません。

 

 

・・・これを直していくには、残りの人生では時間が足りないかもなあ。

 

 

まあ、追々です。今は今過ごしている時間から取り出せるものに手を付けるしかないです。

 

 

 

この本の後半ではいろいろな方の歌を「なぜ選歌しなかったのか」例をあげています。まさに詠み人知らずの歌の数々です。

新聞の歌壇に歌を送るというのはよほど腕に覚えのある方々だと思うのです。やはりどこも悪いように思えない歌も多くありました。

本を読みながらああ、そうなんだ、と思ったり、思わなかったりしました。

 

わからない部分は何度も読み返したいです。

最初からなんでも受け入れられる素直さがないので時間がかかりますが、何かを得たいから始めたことなら納得できるまで食らいつくのも苦ではないです。

 

 

歌は生き方が出てしまう。品とか格とか以前に、態度が出てしまう。ということがわかった本でした。素直に、わかる範囲できちんと詠むのを心がけます。

気負わずやっていけたらというのが目標に加わりました。

がんばりすぎないことをがんばるのと似ていますね。