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THE DYNAMICS OF SERVIC⑪~ALPHAEUS NELSON PAGET


救霊の動力~A・パジェット・ウィルクス


第十一章 救  い


 
 『彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』(使徒行伝二十六・十八)

 イエス・キリストの働き人としての最高の仕事は、死んでいる魂に永遠の生命を与えるために、主の御手のうちにあってその器となることである。
 使徒パウロに授けられた大いなる任命を検討して、とがと罪とに死んでいる罪人を目ざめさせ、照らし、回心させる働きについて学んできた。しかしこれらのすべてのことは主な目的への単なる入口に過ぎず、魂に神の賜物を受けさせるための準備にほかならない。
 主イエス・キリストの救いは罪よりの救いである。そしてその中にはすでに指摘して来たように四つの異なる意義がある。すなわち、その有罪であること、その行為、その習慣、その性質である。これらのいっさいよりの完全な救いを主イエスは備えて下さったのである。したがって、この救いがまずわたしたち自身に、そしてまたそれを聞く者に十分に了解されるまでは安心してはいけない。
 他の言葉を用いるならば、神の御子によってわたしたちのために得られた救いとは、まず神と人とに対してとがめのない良心を持つことであり、第二は、聖霊によって新たにされた心を持つことである。これは義認と聖潔である。それは罪のゆるしと新生を意味する。この二つの幸いな神の賜物は、経験としては同時であるとしても、その事実と意義においては全く異なっている。前者は犯した罪とその罰とを取り扱うものであり、後者はその習慣と状態とにかかわっているものである。
 したがって、わたしのこれから述べようとすることを、罪のゆるしの四項目としてまとめることは了解を助ける方法であろう。

 一 罪の責めよりの救い

 『神に対し‥‥‥良心に責められることのないように』(使徒行伝二十四・十六)

 チャールズ・フィニー教授は、そのリバイバル講演において、説教者は人々の良心に訴えなければならないことを強調しているが、それは当然のことである。一例を挙げよう。

 「説教者は人々の注意を喚起するためにある程度まで感情に訴える必要もある。しかしそのあとは必ず彼らの良心に迫らなければならない。感情に訴えるだけでは罪人を回心させることはできない。もし説教者が感情だけに訴えるとしたら、人々を興奮させることはできても、感情の波は全会衆を浮き立たせ、ついには偽りの希望を持たせるようにしてしまう。健全な回心をさせる唯一の道は良心を取り扱うことである。もし注意がゆるんだと見たら、感情に訴えてこれを引き立てるがよい。しかしほんとうの仕事は良心に対してなされなければならない」と。

 このように回心において重要であることは、救いにおいても同様である。わたしたちの取り扱わなければならないのは人々の良心である。目ざまされ、罪を知った者に対しては、その良心に安息を与えるように導かなければならない。その心は変わらなければならない。しかしその前に傷つけられた良心は主イエスの傷によって癒されなければならない。
 ここで道を誤りやすいのである。良心は、うっかりすると悔改や弁証や改革によって満足してしまう。それらのことも、人に対しての良心のとがめを除くためにそれぞれ必要なことではある。しかし、神に対する良心のとがめを除き去ることはできない。
 神に向かって良心のとがめがないということは、単に罪の意識がないということだけではない。それももちろん必要なことである。『たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである」(第一ヨハネ三・二十)。しかし心にとがめがないということが真に神に向かって良心のとがめがない状態とはならない。そう考えることは途方もない間違いである。いかに多くの人々が、隣人に対する実際上の悔改や、また時には、犠牲や謙遜の価を払って良心のとがめを取り去りつつも、なお神に向かって良心のとがめのない状態から生ずる、思うところ願うところにまさる平安を得ていないことであろう。それはただ主イエスの血によってのみ得られるものである。罪のゆるしによって良心の安息は来るものである。わたしたちの栄光ある仕事は、人々をここにまで至らせ、ただ罪のあるままに来る者を救ってくださるキリストに連れて来ることである。
 しかしこれは最も難しいことである。人々は良い決心、熱心な努力、新生涯に入るという約束によってキリストのもとに来るが、その罪をもって、へりくだりと率直な罪の告白をもって来ることを好まない。これはすべてにまさって、人々の嫌うところである。しかしこのほかには道がない。主キリストはただ罪人を救うために来られたのである。わたしがいつも求道者に語っているように、もしその人が罪人でないなら、この世においても永遠においても救われる望みはないのである。
 もしわたしたちがこのように人々をキリストに導くことに成功したとしても、彼らの罪を救い主と共に残して置かせることは更に難しいことである。彼らは何度か来て、その重荷を自分から取り返すのである。彼は信じても喜びも平安も得られないことを不審に思って、主のみもとにいっさいを永遠に置き去りにすることができないのである。別の言い方をすれば、罪人を導いてキリストの血に対する確信に至らしめることは、救霊者にとって最も困難なことである。血潮を差し置いて、その代わりに自分の努力や決心や骨折りや悔改や献身などを持ち出すことは、聖霊を憂えしめることで、憐れみ深い神が備えて下さったこの最高絶対の癒しの道を受けるまでにはならないのである。もしそこにあがないの教理に対する知的理解があっても、キリストとともにその心が閉じ込められるまでは、良心の呵責はただ鈍くされただけで、善でも悪でもそのなしたことに従って審判を受けるかの日に、良心は再び悔やんでも間に合わない苦悶の中に目ざめるであろう。ジョン・ウェスレーが魂の安息を求めていた時に、ドイツにおいて、アービッド・グラディンと長い会話をしたことがある。グラディンは自分の経験を語ったあとで、ウェスレーの願いによって、実にすぐれた信仰の確証についての定義を述べた。その言葉は次のとおりである。

 「キリストの血に安らい、確信をもって神に頼り、その恵みを堅く信じ、すべての肉の願いより解き放たれ、いっさいの内住の罪より断ち切られて、心に言うことのできない静けさと安息を持つ」と。

 この驚くべき定義は、もちろん聖潔の経験であって、救いの初めに味わうことができないことは明白である。しかし救いのすべての段階において、わたしたちの良心を死の行ないよりきよめて神に仕えさせる唯一の力あるイエスの血を携えて来て、その傷つけられた良心に癒しを得させるのは、わたしたちの主要な務めである。

 二 罪の行ないよりの救い

 『人に対して、良心の責められることのないように』(使徒行伝二十四・十六)

 本書の読者が、悔改に合う実を結ぶことについて述べるところが少ないことを不審に思っておられるのではないかと思う。
 わたしは何度も何度も、求道者が自己の力で罪のきずなを断ち切る代わりにキリストのもとに持って来ることを強調して来た。この点について更に詳細に述べることにしよう。罪の行ないと罪の習慣との間には著しい相違がある。罪の習慣は、新生の際、聖霊の働きによってのみ取り去られるものであるが、罪の行ないは、罪人自身の悔改の行為によって処置されなければならないものである。
 一つの場合を想像してみよう。ここに放蕩な習慣を持った青年があり、酒とそのほかの罪の奴隷であるとする。彼は覚醒され照らされ、罪を自覚し悔い改めて、このように自らをとりこにしている悪習慣から解放されたいと願う。彼はこれまで何度か、あらゆる方法をもってその鎖を断ち切ろうとして失敗を繰り返した。さらに深く彼の生涯を探ってみれば、彼はよくない行いをしているのである。すなわち仕事には不正直であり、悪い友人と交わり、親には不孝で恩知らずであり、雇い主には不真実である。こうしたものは習慣ではない。これは悔い改めて捨てなければならない不義の行為である。彼は悔い改めなければならない。そしてそれをやめてしまわなければならない。人に向かってとがめのない良心がなければならない。そしてこのような良心は、ただ悔改の実行によってのみ得られるものである。彼が神に従ってこうした悪から離れることを拒んでいる間は、どれほどイエスの血に頼り、神の憐れみを叫び求め、その悪欲の束縛からの解放を求めても、それは空しいことである。これをなす力がないと言わせてはならない。彼には力がある。その悪習慣とこれらの行為が別のものであることを指摘しなければならない。習慣を処置するのは神のみわざである。悪い行為を処置し、悪い道をすぐに捨てることは彼自身の仕事である。
 そこに救霊者の出会うさらに深い困難がある。そのことについてわたしは一言言わなければならない。実行の伴う悔改は、ただ知っている罪をその生涯から除き去ることだけではない。それには弁償、告白などの行為が含まれているものである。この点において、わたしたちは多くの恵みと知恵と思慮とを要する。
 わたしは自分の経験でも、そのほか少なくない場合に、神がこの義務を回心当時に示すことをされないで、恵みに堅くされ、救いの喜びを味わったのちに、告白すべき事柄、返却すべき金銭、許しを請うべき行為、弁償すべき事柄などの記憶を呼び起こさせなさる、恵み深いお取り扱いを見てきた。時には悔改にかなう実を結ぶことを回心の当時に要求される場合もある。しかし多くの場合そうではない。何はともあれ、救霊者がその導きつつある魂の中に永久的な平和がないことを認め、そのほかにこれぞという理由を見いだせない場合は、この点に探りを入れてみることである。
 多くの実例の中からただ一つのあかしを持ち出すことにしよう。今は既に天にあるひとりの姉妹は熱心に心と良心との平安を求めていた。彼女の正直な心に極めてすみやかに、神の霊は告白とゆるしを要する幼時の罪を示された。感謝すべきことに、すぐに従った瞬間、人に対しての責めのなくなった良心は、キリストの完成されたみわざに安息することができ、その完全な救いを受けることができた。卒業ののち彼女は郷里に帰り、父親の経営する病院で、暇のあるたびに病人を訪問して彼らをキリストに導いていたが、二、三年後、主にあって眠った。彼女の喜ばしい手紙の一節は次のとおりである。

 「わたしは喜びに溢れています。今は讃美と感謝のほか何もありません。これはただの感情ではありません。わたしはかつて罪人であったのに、今はキリストの尊い血によってあがなわれ、また潔められて全く救われたことを納得しているからです。主はわたしを救うために苦しみ、また死んで下さいました。どうかわたしと共に神を讃美してください。あなたとわたしとの祈りを神は聞いてくださったのです。あなたとお別れするまでまだ聖霊を受けることはできなかったのですが、しかし日曜日に受けることができました。聖霊はおいでになって、わたしの心を言うことのできない喜びに満たして下さいました。あなたにお話しした罪について両親に書き送りました。あの娘たちの住所がわかったらすぐに手紙を書いて赦しを願うつもりです。まだ彼女らのゆるしは得ていませんけれど、神からのおゆるしはすでに受けています。わたしはもう罪の中にいません。サタンの子ではなく神の子です。悪魔は疑いや失望に投げ込もうとします。しかしわたしは気にしません。○○さんの熱心な祈りを聞いたとき、あの方の持っておられるような感情がないことを悟り、それは熱心の欠乏であると思って失望しました。しかし今はそうでないことを知って喜んでいます。わたしは見えるところの感情がなくても満足しています。顔かたちが互いに違って見えるように、聖霊はそれぞれ違った道をもっておいでになります。時には突然、時には静かに音もなくおいでになります。わたしには極めて静かにおいでになりました。わたしはこの喜びをほかの人にも分けようと努めています。ひとりふたりの新しい友人が、確実に恵みを受けないで過ごすようなことは一日としてない、ということを申し上げられるのは大きな喜びです。」

 このような場合の取り扱いをするために、救霊者は多くの恵みと知恵と機転とを必要とする。その導き方の中にカトリックのようなやり方で魂をそこなうことがあってはならない。わたしは何度か魂を助けようとして彼らに告げた。その罪をわたしに告げるのでなく、その関係者と神にだけ告げなさい、と。もちろん、ぜひ聞いてもらいたいと願う場合は、適当な注意を与えることを得るためにこれを許容した場合もある。その他の場合において、ことに極端な罪については、わたしの心が汚れないためにこれを聞くことをお断りした。わたしは罪深い人の子たちによって行われ、語られたこのような言うことのできない汚れによって、汚れのない神の小羊が汚されないことをいぶかりつつも、このような告白をただ神にだけ言い表すように願ったのである。
 わたしたちはこの仕事に対して十分の注意を要する。一方においては、人に対する悔改を実行しないで、イエスの血を信じたと考えるような状態に導くことを警戒するとともに、一方においては、魂がただ悔改だけに頼って、キリストの犠牲に依り頼まないで満足しているような状態に導くことを警戒しなければならない。
 罪のゆるし、これは何と幸いな賜物であろう。この賜物こそ、人々に受けさせるためにわたしたちが召された理由である。すなわち一度に、しかも永遠にわたしたちの過去のとがを消し去り、キリストの血によってその良心はいっさいの罪の感覚から現れ、その魂は義とされ、すべての罪は蔽われ、一切の不義は負わせられず、不敬虔であった者は義人とされ、イエスに対する信仰を義と認められるようになる。これこそ神の賜物である。
 この題目の終わる前に、もう一つの重要な点を述べよう。罪のゆるしの喜びのおとずれを示すにあたり、区別を明白にするために、若い伝道者たちのために高調しておきたいことである。
 聖書には二つの意義が記されている。
 一、初歩の経験において、反逆の武器をいっさい投げ棄てて永遠に降伏するところのもの、すなわち「神との平和」である。
 二、神の子となってから、ある罪の行為や不従順によって彼を憂えさせたときに受けるゆるしの恵みである。反逆をゆるされることは一つのことであり子としてのゆるしはまた別のものである。わたしたちが導く人々が混乱と暗黒に陥ることのないよう、この点をできるだけはっきりさせておく必要がある。

 三 罪の習慣からの救い

 『わたしは新しい心をあなたがたに与え‥‥‥』(エゼキエル書三十六・二十六)

 わたしたちは罪のゆるしや良心の洗われることを、キリストによって神がわたしたちのために備えて下さった救いの一部であるとして考えて来た。しかし厳密な意味においては、これはそこに至る門口であると言った方が更に正確であろう。救いの実質は完全な心の革新──新生──キリスト・イエスにあって新たに創造されることである。
 ニコデモが主イエスのみもとに来た時には、救い主については少しも心得ておらず、ただの教師であると思っていた。主はそれに答えて、まずご自身は証人であり、また救い主であると告げられた。教師は、理論や前提や論法をもって教えるものである。証人はその見聞したことを語るのである。ニコデモは彼と同類の多くの人のように、主のあかしを受け、または罪人として救い主に来る準備ができていなかった。
 引き続いての驚くべき物語の中に、すべての人々が、いずれの時においても知ることを求めている四つの大きな質問に対して答えられた。救われるとはどういうことか。どのようにして人は救われたらよいか。なぜ人は救われるか。誰が救われるか、の四つである。
 この四つの疑問に対して主はだんだんに答えられる。救いとは新生である。それは聖霊のお働きである。そしてその救いは十字架によってのみ得られる。これは神の御子のみわざである。なお父なる神が、そのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さったことによってのみ救いは可能となった。これは父なる神のお働きである。そして光に来て信ずる罪人は誰でも救われるのである。
 ニコデモはなお満足しないで「どうして」と質問を繰り返した。主のお答えはただ譬えの中に語られた十字架のメッセージであった。のちに聖霊はパウロを通してその秘密を啓示された。ローマ人への手紙第六章に、十字架はただ義認のためだけでなく、また人の心が聖霊によって生まれ変わるための道であることを説いている。血はきよめ、十字架は解き放つ。第二のアダムの死は第一のアダムの性質を破壊する。肉体の不自然な欲望のために望みのないほどに束縛された意志は解放される。自我はキリストとともに十字架に釘づけられる。わたしたちの苦難でなく、彼の御苦難によって、魂は新生し悪に向かう意志は変えられる。自らを喜ばせることだけを努める意志は変化する。この秘密は人知をもってしては測り知ることができない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである。わたしたちはわたしたちの発熱した額に人の息を感ずる。それは義の太陽のおもてを隠す暗雲を追い払う。または天の彼方の岸辺から宝を満載して来る巨船の帆をはらませる。それはまたその見えない翼に永遠の生命の種を携えて来て、心のうちにこれを植え付ける。それは死んでよみがえったキリストによって心の中に吹き込まれる生命の息である。それがわたしたちの知っている全部であるが、しかしわたしたちは知りかつ感じ、その中にあって生きまた喜ぶのである。
 パウロの任命の言葉の中に記されている「きよめ」という言葉は聖書の中で二つの意味に使われる。
 一、一般的意義において、義と認められること、義とせられきよくせられるとの意味に用いられる。
 二、特別の意義としては、生涯の義なる歩みに対して、心の純潔を指す言葉として用いられる。
 第一の意味においては、すべての信者はきよめられた者、聖徒と称えられるのである。第二の意味においては、すでに聖徒となった者が全くきよめられることをパウロは祈っているのである。
 この区別は極めて大切である。この点をはっきりさせるために前者を新生とし、後者を聖潔と呼ぶことは更に理解を助けるであろう。そして今、わたしたちがここで考えているのはその前者についてである。この幸いな経験は神の賜物である。それは心の中に植えられた永遠の生命である。わたしたちは、罪のゆるしによる信仰とキリストの血によって良心をきよめられることによってこれを人々に受けさせるために、任命された者である。わたしたちの罪が主イエスの血によってぬぐい去られたように、わたしたちの古い人は十字架の上に砕かれたからだとともに釘づけられた。
 この讃美すべき神のみわざによって、聖霊はわたしたちの罪の習慣を取り扱われるのである。わたしたちがキリストによってありのままで来る時、不潔な習慣の破衣を剥ぎ取って、新しい救いの衣を纏わせてくださるのである。
 ローマ人への手紙六章において、使徒は彼の義認の教理に対して発せられる次のような詰問に対して答えている。「もし罪のゆるしがこのように簡単で、神がこのように喜んでくださるとすれば、なぜ罪の中にとどまっていないのか」。第一の場合は、「わたしたちはキリストと共に十字架につけられて、わたしたちの意志が新たにされたために、道徳的にわたしたちは罪を犯すことができない」(ローマ六・三~十五参照)というのである。
 第二の場合は「わたしたちの良心はきよめられたばかりでなく新たにされ、今は新しい律法の下にあるゆえに罪を犯してはならない」というのである。
 次の章に、彼は更に納得させる理由を述べている。すなわち「わたしたちの願いがきよめられ、わたしたちの悪い性質が取り除かれたために、わたしたちは罪を犯すことを願わない」と。
 わたしはあまり立ち入り過ぎたかも知れない。たぶんこれ以上述べる必要はあるまい。その仕事、その特権、またその困難は、誰にも明らかになったことと思う、どうか、求道者が十字架の基礎の上にその罪を告白し、みことばを受け入れ、救い主のあがないの血に対する信仰によって永遠の生命を受けるようになるまで休むことのないように。

 四 内に宿る罪からの救い

 『わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな』(ローマ七・二十四、二十五)

 魂が神の義とし新生させる恵みによって、エジプトの束縛から救出されることは実に驚くべきことである。ああしかし、わたしたち自身の経験によって、また導かれる者の経験によっても、回心の時まではまだエジプトがわたしたちの心から取り去られていないことを発見するのである。
 これについては千に一つの除外例もない。神と共に働く者として、わたしたちの幸いな務めは、神の救ってくださる者たちを満ち足りた救いにまで導き入れることにある。良心は神と人とに対する悔改と、主イエスの血に対する信仰とによってきよめられ、心は変えられ、意志は新たにされ、わたしたちはキリスト・イエスにあって新たに創造された者となった。罪の呵責も行ないも習慣もこうしてみな取り除かれた。しかし内に宿る罪はなお残っているのである。この心中の罪の実在から解き放たれ、心が「内に宿る罪」「不信仰な悪い心」「肉の心」「罪のからだ」「夫」(七・二)、「すべての不義」から救われること、これこそわたしたちが渇き求める魂に提供すべきところのものである。
 ローマ人への手紙五章及び六章において、きよめられ生かされた良心、キリストと共に釘づけられよみがえり新たにされた意志、生命の新しさによって歩む生命を見る。しかし七章、八章においては、生命の結合よりもさらに深きもの、すなわち結婚の結合について述べてある。それは古き夫、すなわち『わたしではなく、わたしの内に宿っている罪』が十字架によって処置されるまで持つことを得ない結合である。聖にして義、かつ善なる律法は、使徒パウロのように『わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか』と叫び出て、主イエスの傷口に完全ないやしを見いだし、その十字架に完全な罪のからだの破壊の力を経験し、その血が聖霊によってわたしたちの心に適用されることによってその汚れから完全にきよめられたことを自覚するまでは離婚を許さず、またキリストとの結婚予告の公表を承知しないのである。こうしてのち初めて、婚筵の鐘は鳴り渡り、わたしたちはただ彼と共に生命の新しさを歩むだけでなく、また霊の新しさによって彼に仕え、神のために多くの実を結ぶようになるのである。
 この驚くべき経験は新生と同じように信仰によって一時に受けるものである。聖霊はその生まれ変わらせる働きのように、たちまち信ずる魂の心の宮に臨まれるのである。そこには多くの準備となる経験があるのであろう。しかし与えられる最後のわざは瞬間的である。ウェスレーの言うように、人は長い間死の経過をたどることがあろう。しかしいよいよ死ぬ時は瞬間的である。
 さてこうして目ざめた者を全き救いに入らせようとする場合、その診察に注意深くなければならない。わたしたちは、その魂はすでに神の子となり、死から命に移っているかどうかを確かめなければならない。多くの渇いた魂は、神の新生させる力については何も知らない。ただ単に宗教的なものである。このような者が第二の恵みを求めることは無理である。遠慮なく言えば、もしわたしたちが彼らにこのような深い問題を語るとすれば、彼らはいよいよ迷いと混迷の闇に深入りするだけであろう。日本におけるある宣教師たちの集会においてこのことについて語っていた時に、ひとりの婦人がその最後の集会に出席した。その一回の集会に導くのでさえ、彼女の友人たちは大いに骨折ったのである。つまり彼女はこの種の会合が大嫌いであった。彼女は反抗しながらやって来たのであるが、そこで神は彼女に会って下さった。彼女の渇いた魂は大きな欠乏を自覚し始めた。それが何であるかは知らなかったが、何かが必要であるということだけは深く悟った。三日の苦しみののち、わたしたちのもとに来た。わたしは彼女の実状を診察して、まだ救いの恵みもわかっていないことがわかったので、彼女に言った。「救いの初歩からやり直す決心があるか」と。彼女は、「平安を得る道とあれば何でもする」と言う。「しかしもし、ミッションの責任者に今まで回心さえしていなかったと告げなければならないとしたらどうか」と聞くと、「神がもしわたしの悩む心に安息を与えて下さりさえすれば、何でも誰にでも告げる」と答えた。
 彼女が間もなく良い羊飼いに見いだされ、救い主なる神によって大きな喜びを得るようになったことは申すまでもないことである。
 わたしはここに結論として、このような魂を全き救いに導くことの必要と幸いとについて一言を付け加えたいと思う。
 わたしたちが魂をキリストに導く場合、それはただ一人であるかも知れない。しかし彼を通して更に幾千の人々を導くことができるということをわたしたちは心に留めたい。このように上よりの力によろわれた魂は、光と祝福と力との中心となり、多くの人々を導くようになるものである。
 ここでも一つに実例を提出したい。余白がないからただ一人を挙げることにしよう。わたしは彼の回心については前にも述べた。彼はそのあかしを更に続けて語る。

 「わたしは回心後幾月かを過ごすうちに、わたしは自己の中にある悪い性質が発動することを鋭く感じ始めてきた。わたしは大いに失望した。死んでしまったと思ったがまだ生きている。わたしはエジプトから救出されたが、エジプトはまだわたしの心に残っている。
 わたしが救われたことと神に受け入れられたことについての確信は明らかである。わたしはキリストにあって新たに造られたものであることは確かである。酒や娯楽に対する願望は完全に取り去られている。わたしは夜ごとに伝道館に出掛けて救いのあかしをなしていたのであるが、時を経るに従って、読みもし聞きもした全ききよめに対する渇望が強烈に湧き上がってきた。わたしは何度か聖別会にも出席して、全き聖潔の教理については納得が行った。一度ならず、思い切り贖い主のきよめる血の力を信じてみた。数日は都合良く行くが、数日の後にはまたしても元の木阿弥となる。ついにわたしはただ一人で全力をこめて主を求めようと決心した。こうして主を待ち望んでいる間に、主はヨハネの第一の手紙一章七節の意味を示して下さった。すなわちもしわたしが光の中を歩んでいなければ、全き聖潔の約束を自らに当て嵌めても駄目である、と。わたしは即刻従う決心をした。そうするためには、悔改と告白と謙りの必要があった。このような状態で約一年は過ぎたが、ちょうどそのころ教会内に混雑があっていろいろと不親切な悪口なども聞かされ、苦い感情を挑発するようなことが多くあった。その時、わたしの心の中に「人の悪を思わぬ愛」がまだないことがわかってきた。そこでわたしは徹夜の祈りをするために山に登り、新しくできた墓地を祈りの場所として選んだ。死ぬためには絶好の場所である。そうして謙りと悔改と告白をもってひたすら主に祈り求めたときに、聖霊は罪の根をきよめ去る十字架の血の力をかつてないほど明らかに示して下さった。わたしは信じた。しかして心に平安が来た。わたしは自由になった。数日後、隣の市に集会を持つために出掛けたが、その帰り道、駅で発車を待っていた時に、突然求めつつあった主が心の宮に臨んで下さった。そして言うことのできない喜びと愛で心はいっぱいに満たされた。時は夜の十一時三十分、すでに寂しくなった町を歩いたが、さながら主とただふたりで空中を歩いているように感じられた。汽車に乗ってもその一隅に座しつつ天国にあるような気持ちで家に帰った。
 その後、夢幻的な喜びは静まった。このような強烈な感覚は退いたが、平和は常に心にあふれている。そして感謝すべきことには、主はこのような賤しい器を用い始められた。格別に神癒において特別の力を賜った。至るところに渇いた魂は群がって来て生命の言葉を待ち望んでいる」

 五年前まで異教の闇の中にあって、大酒飲みのキリストなき魂であった者が、今は万軍の主の手にあるとぎすました矢とされた者から、このようなあかしを聞くことは実に幸いなことである。これこそは救い、これこそわたしたちの使命の言葉、これこそわたしたちの仕事である。
 どうかこれを経験しこれを知り、神がわたしたちに託して下さるこの栄光ある職を果たす特権の喜ばしい感覚が骨の中に火のように燃え上がり、測り知ることのできないキリストの富を異邦人に伝え、彼らをして罪の救いときよめられた者の中にある嗣業を受けさせるようにして下さるように。

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THE DYNAMICS OF SERVICE⑩~ALPHAEUS NELSON PAGET


救霊の動力~A・パジェット・ウィルクス


第十章 わざの最小限


 
 『わたしは救われるために、何をすべきでしょうか』(使徒行伝十六・三十)

 わたしは救われるために、何を知ったらよいか、というのが前章の題目であったが、この章で述べることは「何をしたらよいか」である。わたしたちは、ここでも目ざめた魂を取り扱っていると仮定しておく。今までの筋道に従って、求道者が、神とその賜物と罪とその癒しとの四つの真理について悟らされ、そしてわたしたちに向かって、「それなら、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」と尋ねたとする。
 これに答える場合、四つの原則的行為があることを認めなければならない。事実、悔い改めた者が救いの確信を受け、神に受け入れられる前に、彼らが果たさなければならない四つの義務があるのである。ここでこのことを順を追って述べることにしよう。

 一 罪の告白

 『もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる』(第一ヨハネ一・九)

 ピリピの獄吏から『わたしたちは救われるために、何をすべきでしょうか』と質問されたとき、聖パウロは『主イエスを信じなさい』と答えた。ちょっと見れば、必要と罪との告白が不必要であるかのように見える。しかし事実は決してそうではない。なお確実に彼を導くために『神の言を語って聞かせ』、罪人であることの公然の表明であるバプテスマの水にまで彼を連れて行った。彼がその必要と罪とについて深刻な告白をしたのは当然のことである。
 長い間多くの人々を導いてきた経験から、悔い改めた者の側で罪の告白をすることは非常に重要なことであることを見いだして来た。そのことによって、わたしたちは罪を負うおかたとしてのキリストを受け入れるのである。わたしたちの不義がイエス・キリストの上に移されたということが、これによって納得させられるのである。こうして信仰をもってイエス・キリストをわたしたちの救い主として受け入れることができるのである。
 わたしたちはこの点をあくまで主張しなければならない。求道者は、いまだかつて祈ったことがなかったのかも知れない。それはこの際問題ではない。その祈りと告白とが、どんなに簡単でありまたかすかなものであっても、とにかく祈らなければならない。『神様、罪人のわたしをおゆるしください』という叫びだけでも、それが心から出たものであれば十分である。
 現在、この大切な義務の代わりにさまざまな他の事をもってしようとする危険な傾向がある。人々は真理を悟ることにより、または教会に加わることにより、あるいは決心することにより、罪を捨てることによって救われるように考えている。
 また伝道者の側においても、今まで祈ったこともない者が直ちに罪の告白などすることは不可能のように思う傾向がある。このような愚かな考えにいささかも感化されてはならない。むしろわたしたちは、悔い改めた者が、この義務を最初から果たすように励まさなければならない。更にわたしたちが罪人と共に祈るときに、彼らが単に憐れまれるべき者であるとの印象を与えないように警戒しなければならない。もちろんそうであるに違いない。密室では彼らをそのような者として祈るのである。しかし彼らに対して、彼らが罪人であるということは悟らせなければならない。チャールズ・フィニーはこの点について非常に強くかつ適切な考えをもっていた。
 この点を説明するために一つの例証を挙げよう。ひとりの学生がキリスト者になりたいという願いをもってわたしのもとにやって来た。彼は八年間教会に通ってキリスト教を学んだが、なお信仰を決する前にはっきりしておかなければならない二、三の点があるというのである。わたしはそこにあった時計を取り上げて、どのようにして救われるかについて、八年間も要らない、八分間でその道を示すことができると告げた。彼は驚いてどうするのかと質問した。わたしはヨハネの第一の手紙一章九節を開いて読み、そして付け加えて言った。君がもし心を低くし、その必要と罪とを告白するならば、神は必ずすぐに救って下さるであろう、と。これは彼の心を刺戟したようであった。彼は急にほかの約束を思い出したようで、明日また改めて来ると約束して、そこそこに立ち去ったが、その後顔を見せなかった。もしわたしたちが理屈っぽいパリサイ人をどのように取り扱ったらよいかを知るならば、多くの労力と時とを節約できるであろう。
 いま一つの例を述べることにしよう。前章においてわたしたちは大酒飲みの漁師で、今は熱心な伝道者となている者のことを述べたが、彼の回心はこの題目についての著しい実例であるから、その後のことをもう少し述べよう。彼は覚醒され、照らされ、悔い改め、多くの罪を捨てて神に立ち帰ろうとしている。
 しかし、彼の悪習慣が彼を捕らえているのである。彼はまだ救われていない。酒癖はとうてい断つことができないように見えた。彼はたびたび泥酔して集会に来た。私はそれまで個人的に一度も会ったことがなかったが、ある日彼の住んでいた町に行ったので、彼を招いて会うことにした。彼はしらふでやって来た。聞いてみると、ほとんどすべての根本原理を信じている。その地の伝道者によく教えられていたのである。彼は救われたいが自分自身をもてあましている。彼は何のためにこのように酒の奴隷であるかを知らない。彼は切に主に立ち帰ってバプテスマを受けたいと願っている。最後に私は彼に聞いた。あなたは憐れむべき罪人として、神の御足のもとに来て、その不義を告白し憐れみを求めたことがあるか、と。彼はまだないと答えた。酔いどれであっても、心の高慢がこれをさせないものと見える。わたしはこの点を強く言った。彼は今まで祈ったことがないと言う。わたしは今それを始めなければならないと彼に迫り、そこの伝道者と一緒にひざまずいて祈り始めた。ついに彼は額から豆のような汗を流しながら、彼の必要と罪との告白をやった。たちまち信仰は彼の心に湧き上がってきた。
 すぐに彼の桎梏は砕かれ、彼は救われた。以来今日に至るまで二十有余年、彼は一滴の酒も飲まず、救い主なる神を喜びながら魂を導いている。このことは極めて重要であるから、この理論をいくつか付け加えることにしよう。「もし罪を告白するならば」であって、「もし罪のゆるしを求めるならば」ではない。そのことは、第一に神のご性質、第二にキリストの犠牲のみわざ、第三に魂の状態について考える場合、大きな違いとなるのである。
 一 神のご性質 神はキリストの十字架によって、わたしたちの罪について十分な満足を持たれるのであって、これ以上なだめの必要を感じたまわない。わたしたちが真実で正しくあることを求められる必要はない。それはキリストの死によってすでに擁護されまた表明されている。神には御心を罪人に向けさせるために、これ以上何事もなす必要がない。
 二 キリストの犠牲 わたしたちが罪のゆるしを求める場合、しばしば罪のゆるしのための完全な土台である十字架を見忘れてしまう危険がある。わたしたちの罪の赦しを願う祈りがどれほど熱烈であっても、わたしたちの罪をゆるして下さる真実と義の根底となされることはない。
 主の祈りにおいて、わたしたちは罪のゆるしのために祈るように告げられているが、それはむしろ手抜かりの罪についてであって、負債と称せられている。もし積極的な罪がある場合、へりくだった心をもって確実に罪の告白をしなければならない。そのことさえなされるなら、わたしたちはたちどころにキリストの贖いの血によって安息することができるのである。
 三 魂の状態 告白は自己審判を含む。一般的に言って、罪のゆるしを求めることは、赤裸々に恥ずかしい罪を告白するよりもはるかに容易である。子どもが罪を犯した場合にも、ゆるして下さいと言う方が、その悪いことをありのまま告白することよりもはるかにやりやすい。
 わたしはこのことについての実例を最近の帰国の際に見せられた。私はそれまで数回にわたって聖別会を持っていた。その集会のあとで、ひとりの婦人がわたしのところに来た。そこでわたしの話した一語が、数年来の彼女の悩みを解いて、完全な自由を与えられたと言うのである。それはどんな言葉だったか、と尋ねると、彼女は次のように答えた。「あなたは言われました。もし神があなたのうちにひそむ罪と必要とを示されたら、何をするにしても、救われるために神を叫び求めることだけはするな、と。わたしはその変な言葉に驚いて、次に何を言うのかと思って怪しみながらあなたを見上げましたが、あなたは続いて言われました。神は『もし救いを叫び求めるならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる』とは言わない。『もし、自分の罪を告白するならば』と言われます、と。わたしはその相違と今までの自分の誤りを悟って家に帰り、自分の部屋に入って神の御前にひざまずいて、長い間救いを叫び求めていたがなお得られなかったことを申し上げました。わたしはその時から叫ぶことをやめて、その代わりに正直な罪の告白をしました。その夜、神はお約束を成就してわたしを解き放って下さいました」と。
 罪人に対しては、このように導かなければならない。神のお約束に対して信仰を働かすことを勧める前に、この根本的な義務を果たすことを主張しなければならない。『救われるために、何をなすべきでしょうか』と聞かれる場合、彼が全能の神の御前にへりくだってその罪を言い表し、心を砕いて救いの恵みが必要であることを告げることが最も必要であることを示さなければならない。これこそ救いを受けるための第一の最も重要な条件である。

 二 神の賜物を、約束に対する信仰を通して受けるべきこと

 『それらのもの(ご自身の栄光と徳)によって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである』(第二ペテロ一・四)
 『彼の勧めの言葉を受け入れた者たちは、バプテスマを受けた‥‥‥』(使徒行伝二・四十一)
 『心に植え付けられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある』(ヤコブ一・二十一)

 わたしたちは、前の章で、救霊者の目的は、人々に神の賜物である永遠の生命を受けさせることであることを学んできた。その媒介として神が定めて下さったものは彼ご自身の御言である。わたしはこの神のみことばの必要を、どれほど強調してもなお足りないことを覚える。
 神の言葉は、照らし罪を悟らせるだけでなく、それによって神の命が人の魂に注がれる道となる。これは生ける水の流れる管である。これは溺れそうな魂に投げ与えられた生命の綱であって、それにすがりつくことによって、陸地に無事に引き上げられることができる。魂が神の約束を信じて安息することは、とりもなおさず神御自身を信ずることである。わたしたちは時には他の何事かをなすように誘われるかも知れないが、決してその代わりをこしらえてはならない。
 わたしたちも勧め、警戒し、解明し、祈り、あかしし、信ずるように人々を励ますのはよいことだが、しかし神のみことばを植え付けることを決して忘れてはならない。時には信仰の試錬が来て、すべての感情、熱心が消失するようなことがあっても、魂は永遠に保つ生ける神の聖言に安息することができるのである。
 瞬間的に神の賜物である永遠の生命を受けさせるために、適確な約束のみことばを提示しなければならないことはもちろんである。単に漠然と勧めることや、一般的な真理を提示するだけでは効果がない。わたしたちは明白な、そして適当で確実なみことばを選んで、悔い改めた者に再三読ませて記憶させる必要がある。そうすればいっさいが忘れられた時にも、それは留まって根を下ろし、永生の実を結ぶようになるであろう。
 霊的経験を持つわたしたちとしても、時には死の陰の谷を歩むような場合があったが、みことばの笞と杖とはわたしたちを慰め、生命と栄光の所へと携え出した。そこにはその代わりとなるものはない。『わたしは救われるために、何をすべきでしょうか』と悔い改めた者が尋ねる場合は、『心に植え付けられている御言を、すなおに受け入れなさい』と答えなければならない。種蒔きのたとえ話の中にも、『信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである』(ルカ八・十二)と記されている。神の言葉がその心に植え付けられるのでなければ、救われるべき信仰がその中にないことは事実である。それを取り去りさえすれば、深い印象も、良い決心も、キリスト教の真理に対する了解も、何の益するところなく、彼らは風の吹き去るもみ殻のように吹き散らされ、砂漠のように荒らされることを彼はよく承知しているのである。永久にとどまるものはただ神の御言である。祈りは溺れようとする者が助け求める叫びである。助けの綱を投げ与えるのはわたしたちの仕事で、その綱が神の約束の言葉である。どのように強く握ってもすがりつくべきものがなければ、彼は空をつかむようにして滅びるほかない。

 キリストの血に対する信仰を働かすこと

 『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんなことでもできる』(マルコ福音書九・二十三)

 行為すなわち意志の確実な働きとしての信仰と、確信の賜物としての信仰と、魂の習慣としての信仰とは、三つの全く異なったものである。
 使徒ペテロのいわゆる「尊い信仰を授かる」というのは確信の賜物であって、神から与えられるものである。信仰の習慣とは、聖霊によって保たれる魂の幸いな状態である。しかし行為としての信仰は、悔い改めた者自身の働きである。そしてこれこそここで言おうとするところの信仰である。この信仰の操作によって神は与えられることが可能になるのである。罪を告白することもみことばを植え付けられることも共に必要である。しかしそれがこのような信仰の操作にまで至らせることをしないなら、魂はなお救われずに残る。
 このような信仰はまずいくつかのことを前提のうちに置く。魂が信仰の目当てとするところのお方、その信仰の媒介となるもの、信ずる理由、獲得しようとする目的のもの、安定すべき基礎などがそれである。信ずるところのお方は、言うまでもなく神である。その媒介は神の言葉また約束である。その理由は彼の罪とその必要である。獲得せんとするところのものは救いである。そして彼が依り頼んで安息すべき基礎工事というのは、救い主の贖罪の死である。求道者をしてその注意を向けしめ、その意志を働かせてその上に安息させるよう言い張らなければならないのはこの点である。神の霊が更生の力をもって働かれることができるのは、ただその点においてである。天路歴程におけるクリスチャンのように、十字架を仰ぐ時に罪の重荷は転げ落ち、三人の輝く者が現れて、彼に新生の衣を着せ、神に受け入れられたとの確信を与えるのである。
 すべてのアダムの子孫が、十字架に対する信仰の代わりにさまざまの代用物を持ち出そうとする悲しむべき傾向のあることを記憶しておかなければならない。わたしはしばしば聖霊の満たしを求めている熱心なクリスチャンが、このような間違った土台の上にその信仰を据えようとしているのを見た。今ここに紹介する例証は、たびたび霊的な本の中に誤って用いられている場合が少なくないものである。
 神の賜物の満たしはちょうど溢れている貯水池のように、信者の心は空の器のように譬えられる。そしてその中間に水管があって両方をつないでいる。もし水が流れ込まないなら、管の中に物が詰まっているのを見いだすであろう。その邪魔物さえ取り除かれれば、水は自然に流れ込んで器は満たされるというのである。これは一面大いに助けになる例証ではあるが、しかししばしばその適用法が誤っている。邪魔物を取り去る道は悔改と献身であると言われるが、それはとんでもない間違いである。悔改も献身も、決して自然に神の霊に満たされる道ではない。ああ、いかに多くの人がこのような道により神の霊を受けて至聖所に入ろうとして空しく労したことであろう。しかしこのような道によって入ることはできない。神はただ一つのことに対してのみ答えて下さる。それはイエスの血に対する信仰である。悔改も献身ももちろん必要である。しかし聖霊を心の中に招き入れることのできるのは、贖い主の犠牲に対する信仰を働かすことによってのみ可能である。血はこの賜物をあがなうために注がれた。このまたとない尊い価を崇め、頌め、信頼し、訴える信仰だけが神に受け入れられるのである。それにのみ彼は答えて、その大きな賜物を与えられるのである。
 しばらく前、ある宣教師のための集会の時に、この点を高調する機会が与えられた。集会のあと、出席していたひとりの熱心で敬虔な人が、これは全く新しい啓示であったとわたしに告げた。彼は長い年月、悔改と献身をもって約束の恵みを受けようとしていたのである。彼は常に邪魔物を取り除くことだけに時を費やしていたが、いっこうに神の霊の灌漑を経験しなかったと言った。しかし、その集会中のある夜、夜中に目がさめてただ一人でいたときに、主はイスラエルの子孫がヨルダンを渡った物語を思い出させて下さった。彼はいくら身をきよめても、そのことによってカナンの地に入ることはできなかった。ただ祭司の担いだ契約の櫃だけが水を二つに裂いたのである。こうして彼らは乾いた河床を通ったのである。この信仰の道を彼はどんなに喜んだことであろう。彼は神と共に急いでヨルダンを渡ったのである。
 救いにおいても同様で少しも違ったところはない。わたしたちは何ものにもまさって、悔い改めた者が意志の働きにより、あがないの血に対する信仰を働かすように言い張らなければならない。それこそ彼らが絶望の恐ろしい穴より、罪の泥の中より引き上げられて、その歩みを堅くされるために足を踏むところの岩である。これによって再び悪の泥と恥の穴とに滑り落ちることから守られることができる。この義務を求道者に提出する場合、この信仰の操作が、ただ一度なすべき単純なしかも確実な意志の働きであることを、明らかに示す必要だある。そしてその信仰が確実なら、感謝と讃美にこれを言い表すようにすべきである。
 すでに述べたように、この点においてわたしたちは彼を助けることができる。わたしたちは彼らと一緒に彼らのために信ずる必要がある。わたしたちは彼が信じなければならないことを含んでいる確かな約束の言葉を示さなければならない。ただ単にカルバリの犠牲とキリストの身代わりの死について語っただけでは足らない。そこにはキリストの救いに対する認識がなければならない。信仰の操作は確実で単純、また即刻になされなければならない。この点を強調せよ。この場合、わたしの説明より証人の言葉がよく語ってくれると思う。
 ひとりの青年が田舎の大学で学んでいる間に、ユニテリアン風の信仰をもったひとりの雄弁な神学者がキリスト教について講演するのを聞いた。今まで一度も聞いたことのなかった彼は、これは良いものであると考え、その地にある組合教会の牧師の所に行って、教会加入を申し込んだ。人のよい牧師は、たぶん教会員の数の増えるのを望んだためであろう、彼が有神論を受け入れ、またキリスト教に賛成だというので、次の日曜日にバプテスマを授けてしまった。
 数か月の後、わたしたちの伝道していた市に来て造船所に奉職した。彼はそこでたちまち罪と歓楽の渦に巻き込まれて、持っていた宗教の貧弱な断片を投げ棄ててしまった。しかし彼はある日、わたしたちの伝道館に来て再び捕らえられ、そこで初めて罪とあがないとについて聞いたのである。彼はもっと現実的で永久的なものを得ることができれば、ということで第二の集会に残った。あとになって彼はしばしばその夜のことを語ってくれた。「わたしには十字架の目的とその意義とはよくわからなかった。T氏がヨハネ第一の手紙一章七節を突きつけて、このほかに救いの道がないと繰り返すが、わたしにはそんなことはたいして大切な問題ではないと考えられた。しかしあまり熱心に、それ以外に神に近づく方法はないと強調するので、よくはわからなかったが、とにかくイエスの血に信頼を置いて信じてみることに同意した。しかしそれが実はわたしを救ったのである。その夜、神はわたしのすべての罪をゆるし、わたしを彼の子どもとし、キリスト・イエスにあって新たに造られた者として下さったのである」と。

 四 口でキリストを告白すること

 『人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである』(ローマ十・十)

 魂の救いを確かめるためにもう一つに重要な義務があることを認めなければならない。神の霊のあかしが与えられる前に、その信仰の事実をあかしする単純な服従の行為を神はしばしば要求されるのである。こうするときに聖霊のあかしが与えられるのが普通である。
 この義務を果たすのにはさまざまな道があるであろう。洗礼を受けることを主の弟子である唯一のしるしと心得ている者もいる。しかし悔い改めた者が洗礼を受けることを教えられるよりはるか前、その回心の日にキリストを告白することが最も必要である。偶像を砕くこと、日曜を守ること、古い友人と歓楽と罪の場所に行くことを断ることなども、キリストを告白する絶好の機会である。どんな形式によっても、徹底的にこれをなすように強調しなければならない。『邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使いたちと共に来るときに、そのものを恥じるであろう』(マルコ八・三十八)。回心者は背水の陣を布かなければならない。その立場を告白しなければならない。これは彼自身を救うだけでなく、またおそらく彼に聞く者も救うことができるであろう。救世軍はこの点をよくやって来た。回心の当時から、ほかの人を救うために救われた者であることを教えられる。あかしをなすことの必要と価値は三重である。
一 回心者の信仰と勇気と品性とを強める。
二 キリストに栄光を帰する。
三 救いと祝福とを他に与える。回心の当初よりあかしの必要と力とを明白に説明し、彼らが神に従いその救い主を公に言い表すように励まさなければならない。
 彼は罪の告白によって、キリストを罪を除くお方として受け入れるのである。彼はその口で言い表すときに、キリストを主として王として受け入れるのである。いかに多くの回心者がこの公の告白をしなかったために、その後の歩みにおいていっこうに進まないことであろう。
 ここに紹介するひとりの伝道者は、これから語ろうとしている真理を裏書きする著しい例である。
 彼は新聞屋をやっていて、早朝の三時から九時まで働くのである。彼の母と二人の姉妹は結核で倒れ、彼もまた少し肺を冒されていた。彼の回心の当時、ちょうど博覧会が開かれていて、わたしたちは毎日午後の二時から十時まで天幕集会をやっていた。彼はそれに毎日出席していた。聞けば、映画館と仏教の説教会とわたしたちの集会にかわるがわる出席するのが、彼の毎日の娯楽であるというのである。
 彼は大酒飲みで、映画の奴隷であった。こうした物が彼の心の空虚を満たそうとしたいなご豆であったのである。彼はいつも最前列の席に腰を下ろしていたので、わたしたちの誰もがよく知っていた。
 わたしたちは彼のことをしばしば話し合ったが、しかしとても信用のできる人物とは思えなかった。彼は嘘をつくのが平気である。しばしばいい加減な名前を決心者カードに記したり、また、全く見当違いの住所を記したりしていた。それでわたしたちも彼には何の望みも持たなかった。
 最後の夜、特別な説教者が来て、この集会中に救われた者は立つようにと告げた。すると驚いたことに彼が一番に立ったではないか。わたしたちはまた狂言をやっているなと思った。しかしあとであかしをしたが、彼はキリストに対する信仰を告白しようとして立ち上がった時に、彼は生まれ変わりの経験を得たのであった。その瞬間、聖霊は彼をキリストにあって新たに造られた者とされたのである。
 その後の彼の生活の変化は、その夜の経験の真実を証明するものであった。すなわち飲酒の悪い癖は全く取り去られ、映画の熱はなくなり、心の浮動は安定し、病は癒された。彼の貯蓄はその負債を全部支払うために銀行から引き出され、残りの少なくない金額を為替にしてわたしたちの所へ郵送してきた。その送り状には次のように記してあった。「地獄へ行かなければならない罪人、イエス・キリストの恵みによって、博覧会の天幕集会で救われた者より」と。彼はその後献身し、修養の後、この同じ福音の宣伝者となったのである。
 これらのことは、悔い改めた者が永久的な救いの経験を得る前にしなければならないこととして教えなければならない、簡単ではあるが重要な義務である。わたしたちはこの信仰と服従との道に彼らを進ませるために、彼らを助けて率直にまた強く勧めなければならない。何もわきまえていない幼稚な回心者でも、これを信じこれに従うことができる。もしわたしたちが、失われた者を救おうとしておられる良い羊飼いの手に信仰をもって彼らを携え、正しく導くことさえするならば、福音を聞いたその場でもこれに従うことができるであろう。

http://web.mac.com/biogeochemistry/sacellum/service/chapter_0.html



THE DYNAMICS OF SERVICE⑨~ALPHAEUS NELSON PAGET


救霊の動力~A・パジェット・ウィルクス


第九章 真理の最小限


 
 『しかし、信仰による義は、こう言っている。「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である』(ローマ十・六~八)

 福音について何の予備知識もない異教徒の間に伝道することは極めて困難である。旧約の物語の一つでも知らない。贖罪、和解、新生、聖霊などの熟語については全く初耳である。罪とか神とか救いとかいう言葉すら、そのキリスト教的意義については全く無知である。聖書の人物等についても全く不案内で、アベル、ノア、アブラハム、ダニエルなどの名を聞いても何のことやらわからず、時にはキリストご自身の名さえ、何の感興も与えないのである。
 ある宣教団体の幹部のひとりが日本を訪れたとき、大阪のある劇場で多くの未信者のために一場の説教を依頼された。彼は自分の国から得意の説教を携えて来た。彼はそこで開口一番「親愛なる皆さん、あなたがたは、イスラエルの子孫がエジプトの地から出て来たことを覚えておられるでしょう‥‥‥」と語り出した。彼の通訳は慌てて彼をとどめ、「あなたは、イスラエルが何であるかを説明するために少なくとも三十分かかるでしょう。また彼らがエジプトにいたことについて更に三十分かけなければ、今夜の聴衆にわからせることは困難でしょう」と。これは極端な例のようである。しかしわたし自身もこの種の説教の通訳をさせられたことがしばしばあった。
 したがって、十分な真理を土台としなければ真の信仰などあり得ない、救いの信仰を働かす前にキリスト教の真理を十分に教え込む教育が必要であるという意見が、極めて当然のことのように思われる。
 この章の目的は、わたしたちが求めている魂を救いの経験に導く前に提供しなければならない真理は、極めて少ないということを示すことにある。これは祈りと研究を最も要する問題である。わたし自身も、少しもキリスト教について知らない人々の心に有効に届くために、どのようにこの真理を示したらよいかについて、多くの時を費やして研究する必要があった。救霊のわざで成功しようとするなら、同じような努力が必要であると思う。
 この章でわたしたちが取り扱おうとする魂は、その必要についてか、罪についてか、目ざまされた真の求道者と仮定しておく。キリスト教については何も知らないが、困難や悲しみ、病や心配や、また罪の苦しい結果や、或いは説教を読みまた聞いて、自らの状態がどのようであるかを悟らないまでも、キリスト教によって心の平安か、罪の力よりの釈放か、来世の救いか、非常にぼんやりとした考えを持ってわたしたちの所に来た場合、どのように導いたらよいか。彼らに信仰による救いを握らせる前に知らせなければならない最小限の真理とは何であろうか。

 一 求道者の必要にふさわしい救いの方面を示す聖句を提示すること

 『もしあなたが神の賜物のことを知り、また「水を飲ませてくれ」と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう』(ヨハネ福音書四・十)

 求道者がどんな筋道で目ざまされたのかを確かめたのちに、わたしたちがまずしなければならないことは、彼が要求しているものにちょうど適する救いの一方面を示すことである。わたしたちはその一点に集中しなければならない。その点を明瞭にし、確実にし、説明しなければならない。簡潔な言葉でこれを述べ、そして最後にみことばをもってこの真理を彼の心に打ち込まなければならない。言い換えれば、救いというものの性質と真理を述べなければならない。同時に、彼が目ざまされた筋道に従って彼を導くことに大いに注意しなければならない。たとえば、来らんとする審判について恐怖をもつ魂に対して、現在の喜びや罪に対する勝利などを語っても何の益もない。またその回心者が情欲に悩まされている青年だったとしたら、死後の生命についての教えを語っても効果がない。真理の提供は単純でしかも確実であることを要する。要するに、悔い改めた者が救いを神の賜物として即刻受け入れるものができるものであることを明らかに悟るように語らなければならない。
 伝道地において避けることにできない一つの傾向は、ほとんどすべての求道者が、だんだんわかって来て救いの経験を味わうようになりだんだん救われる、というように考えることである。このような考えは当初から捨ててかからなければならない。
 前章で、賜物としての救いを強調することの必要を指摘してきたが、この点ぐらい悪魔が巧妙に魂を朝むくことに成功する問題はない。人々は神の存在とその造り主なることと、その正義と全知について認めることができるとしても、それが讃美すべき与え主であることについては全く目をくらまされている。『もしあなたが神の賜物のことを知り‥‥‥』と救い主は仰った。確かに『もし‥‥‥知っていたならば』である。しかしこの一事こそ人々の知ることのできないもの、信ずるのに最も困難を感ずる点である。
 恐ろしいものは四つ、地震、雷、火事、おやじだということわざが日本にある。このように父という考え方が下落しているのであるから、父なる神についても了解することが難しいのは当然である。
 救いは賜物である。それが「心の安息」としてでも、「確信の光」としてでも、「束縛からの解放」としてでも、「永遠の生命」としてでも、これを繰り返し力説しなければならない。すなわち救いは確実なもの、受け取るべきもの、瞬間的に受けることのできるもの、いま受け取ることのできるものである。
 このように真理を提出する場合に、その真理を示す聖句を読ませ、できたら暗唱させればなお幸いである。こうすればこの真理は堅いところに打ったくぎのように、他のことは忘れてしまっても長くとどまるであろう。
 ある時、かつて一度も福音を聞いたことのないひとりの若い婦人が彼女の必要について説教を聞いたあとで、求道してあとに残ったのを取り扱ったことがあるが、彼女は心の不安に悩まされていることを知ったので、わたしは聖書を開いてマタイによる福音書十一章二十八節を示し、これを読んで暗唱するように勧めた。そしてわたしはていねいに説明を加え、この救いこそ今このところで受けることのできる神の賜物であることを告げたのである。

 二 神が父であり祈りに答えられる方であることについての簡単な教え

 『このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか』(マタイ福音書七・十一)

 わたしたちが賜物より、その与え主に移っていくのは自然である。この求道者に提示しなければならない真理の第二の方面がある。神の存在と力と、またすべてにまさって祈りに答え、賜物を与えようと待っておられることである。
 前に述べた求道者の場合、説教の中で神の父であることと、その与え主であることを聞いて求道したのであるが、彼女の心は不安と悩みとでいっぱいになり、彼女の叫びを聞いてその要するものを与えられる生ける神の存在と力とについては全くその心に入っていないのである。
 今まで何も知らない人々に対して、神のご存在、ご性質、ご要求などについて教えようとする場合は、できるだけさしあたり必要なこと以外は語らない方がよい。わたしたちは両極端を試みなければならない。一方においては感情的な観念、他方においては単なる知的学究的な見解である。現在の場合、わたしは求道者に「もし生ける人格的な神がおられるとすれば、必ず祈りに答えられるはずだ」ということを徹底せしめようと努めた。私はこのことを試験してみるように勧めた。神は果たして祈りに答えて下さるのか。マタイによる福音書七章十一節のような聖句を一緒に読んで、この言葉の中に含まれた真理に心を集中させる。そしてこの事実を試してみるように勧告する。単なる神についての説明ではいけない。実際的でなければ効果がない。神の属性についての神学的説明は無用である。悔い改めた者に、神は祈りに聞き答え、そして求めるものを与えられるとの一点を確実に握らせなければならない。
 この点は極めて重要であるから、ちょうどわたしの言おうとするところを説明する一つの実例を述べたいと思う。それはわたしが説明するよりははるかに有効であろう。それはわたしの知っている限り、最も美しい信者のひとりである。彼女は婦人であるが、恐ろしい病に悩まされていた。しかし神に対する美しい信頼に満たされ、数週前の日曜にそのあかしをすることを申し出た。彼女の声はやっと聞こえるくらいであったが、ほとんど男子ばかりの会衆を全く捕らえてしまった。そして四十五分もの間、話を続けた。そのあかしを簡単に記せば次のとおりである。

 「わたしは田舎の生まれで、神さまのことや救いのことについては全く聞く機会を与えられなかったのであります。二十歳のころでした。わたしは、婚約がととのってお嫁に行くことになりました。回りの人は祝ってくれるのですが、しかしわたしには少しもうれしくありませんでした。わたしは人生の空虚が深く感じられ、心は抑え付けられたようで、どこへ行って慰めを得てよいかわかりませんでした。わたしはよく裏の丘の墓地に行って町を眺めながら考えました。この墓には先祖たちが眠っている。現在この町で元気そうに働いて食ったり眠ったりしている人々もまたここに葬られる時が来るに違いない。そうしたらどこに行くのだろう。だれも知らない。また誰も教えてくれない。人生とは何と不思議な、そしてつまらないものだろう、と。
 何度となくわたしは自殺を思い立ちました。ひとりの友人がわたしの悩みを知って一冊の聖書をくれました。しかし開いてみたがさっぱりわからない。教えてくれる者もないので、そのままにしておきました。わたしの悲惨は増すばかり、わたしはまたまた自殺しようと思いました。
 こうしている間に、わたしは、日清戦争の時に捕虜になって広島の収容所に入れられたひとりの中国兵の物語を読んだことを思い出しました。ひとりの宣教師はその収容所を訪問することを許されていて、たびたびその中国兵をも訪ねた。彼は全く無関心であったが、ある重大な罪を犯し、軍法会議によって死刑を宣告された。苦しみの中にあって、彼は宣教師と彼の与えた本を思い起した。しかし自分では何もわからない。その時、彼は神さまがあると聞かされたことを思いだし、もし生ける神があるならわたしの祈りを聞いてくれるはずだ、ひとつ試してみようと決心し、所内にひざまずいて叫んだ。『おお神よ、もしあなたが真の生ける神であるならわたしの祈りを聞き、かつてここを訪問したあの人を遣わし、あなたとその救いについて教えて下さい。あなたが祈りを聞いてくださるなら、わたしはあなたを信じます』と。
 その夜、その宣教師は収容所へ行きたいとの願いがこみ上げてきてたまらないので、さっそく次の日彼を訪れた。彼は狂喜せんばかりにして即刻救い主に導かれた。その時以来彼の人物は一変した。そこで軍隊のほうではその処刑を延ばしたがついに赦され、戦争が終わったあとで本国に帰され、この福音を自分の国の人に伝えるようになったということでした。
 わたしはこの物語を思い返して自分自身に語った。これが事実ならわたしも同じようにやってみよう、わたしもひとつ試してみよう、そうして祈りました。『おお神さま。もしあなたが生ける神様なら、誰かを遣わしてわたしに平安の道を示させてください。もしこの祈りに答えて下さるなら、わたしはあなたを信じあなたに仕えます』と。ひとりの伝道者がかなり離れた所にいたのに、その夜ひとつの重荷を感じて、その夫人に話した。わたしはどうも某町に行って、娘さんを訪問しなければならないように感ずる、と。次の日彼は見えました。私は言うことのできない喜びと驚きとをもって彼を迎えました。そしてその場でわたしは救いを受けました。以来十五年、今に至るまでわたしはキリストを愛し彼に仕えています」と。

 ここに目ざめた魂を導く幸いな秘訣がある。こうして五分間に学ぶことのできるものは、五ヶ月の神学研究にはるかにまさるものである。わたしが導いた若い婦人においてもそうであった。
 このように彼女を導き、神とその賜物とについて単純に信じたことを見て、わたしは第三の点に進みたい。

 三 罪についての十分な教示

 『わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞き入れになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞き入れて下さいます』(ヨハネ福音書九・三十一)

 そこには受けるべき幸いな賜物がある。また求める者に与えて下さる神がおいでになる。そこには彼が与えて下さらない何らかの理由があるだろうか。またわたしたちが受けることができない何らかの理由があるだろうか。このようにただすなら、十中の九までは、真心から求めさえするなら、何の妨げもないことを悟るのである。この点を十分確かめさせるがよい。そうすればこれから示そうとするところが力強く響くのである。このことがわかったなら、今度は罪の分離する力を示さなければならない。
 『見よ、主の手が短くて、
  救い得ないのではない。
  その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
  ただ、あなたがたの不義が
  あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。
  またあなたがたの罪が
  主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。』(イザヤ書五十九・一、二)
 ここにわたしたちはしばらくとどまる必要がある。彼らがどのような筋道で罪を悟ったか、注意深く探らなければならない。もちろん、それぞれ異なっているであろう。その罪の考え方が霊的でないにしても失望してはならない。神のみことばを遠慮なく憚ることなく使うとよい。了解しなくても心配する必要はない。そしてたびたび罪が分離するものであるという初めの点に帰って教えるとよい。悔い改めた者の知能の程度にも関係がある。またキリスト教の真理について、どれだけ予備知識があるかということも顧みなければならない。そして、どの聖句とどの例証がよく適合するかも考えなければならない。
 前に、罪という言葉を四重の意味に使うことを指摘した。すなわち、行い、習慣、性質、及び告発を受けるべきものとしての罪である。またもし求道者がキリスト教で言うような罪の意義がわからないとしても、自己と他人とを傷つけるものとしてこれを悟ることができることを示そうと努めてきた。もちろんこれははなはだ不適当な罪の見方である。しかしこの点について求道者を導こうとする場合、このような考え方を、より高い見解への飛び石として利用すべきである。あらゆる機会を捉えて彼らを引き上げていかなければならない。罪が神に対しその御心と律法を破るものであるという概念を捕らえさせるまで休んではならない。罪は単なる病気ではない。罪は神からわたしたちを引き離すものであって、この点が認められ、告白され、審かれ、大きな罪を負ってくださる主のみもとに行って解決されるまでは、きよい神との交わりから除外され、平和もきよめも力も受けることはできないのである。別の言葉で言えば、行いと習慣と性質についての罪の自覚は、神に対する罪の自覚を持たせる材料として利用しなければならない。異教徒は、罪が破壊的なものであり、また悪いものであることは悟っているにしても、神に対する罪の自覚は全くないのである。自己の必要とまた神がその求めに答えて下さるということについて目ざめた魂を取り扱う場合において、神に対する自覚にまで至らせるのがわたしたちの仕事である。もちろん各人各様の導き方をしなければならないということは言うまでもない。ここにひとりの教養ある人で、キリスト教の真理についてもある程度まで教えられた人の実例がある。

 数年前、有力なひとりの実業家がわたしを訪ねて来た。彼の妻は熱心なキリスト者であって、数年間彼の救いのために祈っていた。彼はこの市にある大きな商社の支払いのために中国に行くところであった。彼は必要に目ざめさせられた。わたしは彼がどんな必要を感じているのか知ろうとした。彼は罪からの救いを求めていたのである。彼は人の信頼と尊敬を受けるにふさわしい堅実な品性を得たいと願っているのであった。これは半ば真実、半ばパリサイ的な願いであるが、それが彼の持っていた光の全部で、神の霊は確かに彼の中に働いておられることを認めた。わたしは真実な品性の要素は、謙遜と感謝と同情であることを示した。すなわち自己に対しては謙遜、神に対しては感謝、人に対しては実行的な無我の同情であって、結局は愛の三方面であって、これを得る道は天下にただ一つしかないことを告げた。
 わたしたちはルカによる福音書七章を開いた。そこで主は「‥‥‥多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」と言っておいでになる。したがって罪の赦しこそすべての真実の品性の源泉である。この罪の赦しの恵みがどんなに大きいものであるかを悟った者こそ、真に謙遜であり、ゆるして下さるお方に対して感謝に溢れ、自分自身に対するように罪人である人に対して同情深くあることができるのである。
 彼はよくこの点がわかって、砕けた心をもって神の前に打ち伏した。そしてひとりの罪人として罪の赦しを受けるために十字架のもとに来たのである。ちょうど一週間前に、彼は価の高い真珠を見いだしたその日、すなわち主イエスの血を信ずることによって罪の力から釈放された記念の日を思い返しながら、感謝の手紙をわたしに送ってくれた。

 この人はもちろんかなりよくキリスト教の真理を知っていた。したがって、彼のように教えられていない者を、同じような方法で導くわけにはいかないであろう。求道者が犯した罪と、心の中に存在する罪(すべての犯罪の原因)との区別をはっきりと了解するのは必要なことである。この両方とも、わたしたちを神の御前より除外するものである。しかし天の宮殿に至るのに二重の障害があるとは言え、神に対する罪を最大なものとして求道者に知らせることが必要である。まず罪の赦しの道があることについて何らの暗示も与えないうちに、罪は義なる天の父にわたしたちが近づき受け入れられる時に越えることのできない障壁であることを示す必要がある。
 わたしは何度となく、どのようにしてその障害を除くことができるか質問したが、その答えは、祈り、善行、誠実、悔改など、であった。それらのものがみな空しいものであることを示したあとで、彼らを悔改と信仰とに導く前に、わたしたちは最も大きな、最も重要な第四の真理に移っていくのである。

 四 キリストの十字架を教え示すこと

 『一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた‥‥‥』(ヘブル九・二十七、二十八)
 『われわれはみな羊のように迷って、
  おのおの自分の道に向かって行った。
  主はわれわれすべての者の不義を、
  彼の上におかれた』(イザヤ書五十三・六)

 罪の深い自覚に悩まされていたひとりの人のことが伝えられている。彼はどうしても平安を得ることができず、ひとりの熱心な信者の友人を訪ねた。その友人は非常に忙しい身で、ゆっくり話す暇がなかったので、だいたいの事情を聞いてから次のように言った。「家に帰ってイザヤ書五十三章を開いて、第一のすべてから入って、第二のすべてから出なさい」と。
 彼は別れを告げて家に帰った。めんどうなことを押しつけられた彼は、はじめ冗談だと思い、いささか立腹しながら帰った。しかしとにかく聖書を開いて指定されたところを読んだ。
 『われわれはみな(すべて)羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った』と彼は声を出して読んだ。なるほどそれは事実だ。わたしは確かにこのすべての中に入るべき者だ。『主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた』。うむ、これがほんとうなら、わたしもまた第二のすべてから出ることができる。わたしは救われたのだ。信仰は勝利を得、自由となったのだ。
 これはキリスト教国に生まれ、その教えを熟知している者には極めて容易なことであるが、しかしキリストの生涯も死もよみがえりも知らない人にとってはどうだろう。わずかの時間のうちに、救い主に対して、十分な生きた信仰を働かすことができるように教えられることができるであろうか。これに対してわたしは答える。できる、もしその心が聖霊によって備えられているならば確かにできる、と。わたしたちは、キリストの生と死とよみがえりとを詳しく初めから教える必要がないことを教えられなければならない。その贖罪の死の事実とその真実の目的と値打ちだけが最も必要なことである。わたしは、キリストの贖罪の死の歴史的事実というふうに言う。なぜなら、たとえば仏教の阿弥陀如来などは、架空の人物の想像から作り出した救い主であって、歴史的実在ではないのである。神秘的な救い主ではなく、歴史的キリストと歴史的よみがえりとを伝えるとは、いかに光栄ある幸いな仕事ではないか。救い主の血に対する信仰は、わたしたちの救いの大きな秘訣である。これがなければ、わたしたちの宣べ伝えるところに何の力もない。目ざめさせられることも、照らされることも、悔い改めることも、最大の終極の一歩であるくぎづけられた救い主に対する信仰までの道程に過ぎない。魂の敵である悪魔がすべてにまさってこの点において人々を惑わそうとする。神の御子の贖いのわざに対する信仰さえ奪いことができるなら、悪魔は悔い改めた者がどんなことを信じても敢えて気にしない。
 多くの熱心な魂が、自分たちの足の踏むべきこの岩を知らないで、決心や献身や頼ることのできないものに頼りながら、泥沼の中に沈んでいくのを見るのは最も悲惨な光景である。
 次に紹介する若い婦人からの手紙は、たとえすでに洗礼を受け教会に属していても暗黒と失望の中にもだえている多くの人々の、一つの見本に過ぎない。この手紙の主は、極めて善良な品性の持ち主で、平安の道を見いだそうとして一生懸命に求めた人である。

 「神の恵みに導くためにこのようにおほねおり下さったご親切に対して、何と感謝してよいかわかりません。すべて信仰の欠乏であったということをかつてないほどにはっきりと見せられました。わたしの祈りは全く利己的で、知らず識らずに神さまに嘘を言っていました。今ほどカルバリに現された神の愛に対して心から感謝をささげたことはかつてありませんでした。
 私は神の前に喜ばれる奉仕をなしていると考えていました。しかし事実は、自己の義をもって自らを救おうと試みていたのです。そこで自分の罪を悲しむたびに、わたしは結局救われているのだろうかという疑問が、心の中に起きて来るのでした。何度か神の御前に泣きました。しかしわたしのうちに真の信仰がありませんでしたから、その祈りが神さまの御耳に届こうとは思えませんでした。だれもこの疑問を解いてくれる者がありませんでしたから、わたしの心は常に失望の状態にありました。そしてついには、わたしがあまり罪に対して過敏なために苦しむのであろうかと考えるようになり、世の一般の人々が罪を犯しても平気でいる状態がうらやましくなり、神さまのことなど聞かなければよかった、そうすればあの人たちのようにこの世を楽しむことができるのにと思いました。わたしは祈りをもって神様に近づくことさえいやになりました。しかし不思議なことに、神を信ずる生涯を送りたいという願いは、何としても捨てることができませんでした。そしてその願いはますます強くなり、たまりかねてわたしの先生のもとに行っていろいろな質問を持ち出しました。先生はわたしが少し気が変になったと思われたようです。そして親切にいろいろなことを教えて下さいましたが、やはり神さまに受け入れられたかどうかはっきりしませんでした。
 あなたがおいで下さったときのわたしの状態はこのようでした。そしてこの小さな部屋で聖書を開いて下さったとき、初めて真の救いとは何であるかを悟りました。次の朝の祈り会の時にも『わたしたちはイエスの血によってのみ救われる』という言葉を繰り返されました。それがわたしの心に届きました。ああついに、生ける事実を認識して、確信をもたらす活ける信仰がわたしの心の中から湧き上がってきました。初めて主イエスがわたしのために死んで下さったことがわかり、わたしの過去のいっさいが血によってぬぐい去られたことを知りました。そうです。愛する先生、今こそ神さまがわたしを受け入れて下さったことをはっきり知ることができました。この尊い真理を教えて下さったことに永遠の感謝をささげます。ただありがとうとくり返しくり返し申し上げるばかりです。今後もどうかお導き下さい。」

 最も重要なこの点において人々を導く場合、単純な例証を用いる必要がある。もちろん例証の選び方は、導かれる人々の知識の程度や意見の相違によってそれぞれ異なるのは自然である。或る者に対しては罪の汚れをぬぐい去るものとして血を示すことができるだろう。或る者に対しては、身代わりの死としての十字架を提示することができるだろう。また或る者には、わたしたちの罪を負う神の小羊としてのキリストを示すことができるだろう。また或る者には罪の毒を抜き取る銅の蛇として、また或る者には血による贖いとして、更に或る者にはわたしたちが聖霊を与えられる代償としての贖いの死を示すことができるだろう。
 わたしは、若い伝道者がこの点を強調力説するように熱心に勧めたい。ヨセフとマリアが主イエスが道連れの中にいるだろうと思ったように不確実な態度を取ってはならない。悔い改めた者が確実に贖いの血に依り頼んで平安を得るのを見届けるまでは安んじてはいけない。
 わたしは長い間のさまざまな経験から、罪や悩みの中に聖霊によって備えられた魂にとっては、神とその賜物、罪とその癒しとの四つの事実を、単純にかつ明快に示すことが、救いを与える者の光として必要ないっさいであることを確認してきた。
 終わりに臨んで特に強調しなければならない一点がある。まだ福音に接したことのない人々の中に、ほとんど罪の自覚を持たない者のあるのを見ても失望してはいけない。彼らがもし求めているとしても、神とその賜物という二つの真理だけしか認めておらない。このような者に対して「あす」と言ってはならない。恩寵と信仰は常に「きょう」と言う。聖霊も言う、「きょう」と。聖言も言う、「きょう」と。今は救いの日である。
 このように半ば備えられた人々のためにも道は開かれている。神はわたしたちにこのような人々を助けて天国に入らしめる特権を与えておられる。もしわたしたちが信仰の確信を持ってそれを用いるならば、「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイ十八・十八)という驚くべきみことばは、わたしたちのためでありその働き人たちのためであることがわかるであろう。
 わたしが、しばしば罪人の傍らにひざまずいて、彼らの受けた光の筋道にしたがって罪よりの解放を祈り求めるとき、わたしはキリストの血に訴え、そしてその咎よりの赦しを彼のために求めるのである。彼はおぼろげながら、賜物とその与え主とを認めている。しかしまだ、自分の罪とそれを負って下さるお方を見ていない。彼はただ釈放されればよいと思っている。しかし彼の必要は罪の赦しである。
 この筋道に従うことによって、この章の初めに紹介した若い婦人を救い主に導くことができた。三日後、彼女はわたしのもとに来て、いかにその心が神よりの平安に満たされているかを告げた。彼女はまだその喜びの原因と秘密について十分に知らないが、「わたしは‥‥‥ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」(ヨハネ九・二十五)と言うことができた。
 これらのことが目ざめた魂に提示すべき最小限の真理であると思う。これを示し適用するためには、多くの知恵と多くの祈りと多くの注意深い聖書研究と、多くの忍耐と、すべてにまさって多くの信仰とを必要とするであろう。失敗によって失望することのないようにしなさい。失望や意気阻喪するようなことはしばしばあるであろう。明確な理解と真実な願いと、救い主に対する真の信仰をもつ者に出会うかも知れない。或る者は一時よく走るが、中途で堕落して滅びに行くような者であるかも知れない。しかしまた、少なくない人たちがこのわずかの真理に導かれて信仰に進み、命と健康と喜びとを与えられる救い主としてキリストを証ししながら生活し、主が、暗黒に住む罪人の思うところ、願うところよりはるかにまさったことをなされるお方であることを、証明するであろう。

http://web.mac.com/biogeochemistry/sacellum/service/chapter_0.html



THE DYNAMICS OF SERVICE⑧~ALPHAEUS NELSON PAGET


救霊の動力~A・パジェット・ウィルクス


第八章 罪を知ること


 
 『すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。彼らは、こうしたことを行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている』(ローマ一・二十九~三十二)

 わたしたちは前章において、人類の憂いと痛みと悲惨について聖書の語るところを述べてきたが、本章は、人類の罪と愚かさと反逆に対する神のみことばをもって始めよう。
 主イエス・キリストの福音は二つのことを獲得する。すなわち、一方には人類の祝福と救い、他方には神の栄光である。したがって、前章で指摘したように、一方では憐れな飢えた男女に神の救いのすばらしさ、麗しさを示すとともに、一方きよい神に対する罪の恐ろしさと憎むべきことを知らせる必要がある。
 この両側面を提示することについては、いわゆるキリスト教国と異教諸国との間には違っている点のあることを注意しなければならない。チャールズ・フィニーのリバイバル講演集を読んで気がつくことは、いかに彼が福音の引きつける力について述べることが少なかったか、ということである。もちろん、それについて語らないわけではないが、説教の矛先は、主として神の憐れみ深いご提供を拒みさえぎり逆らう罪に対して向けられている。
 長い間キリスト教について教えられている人々は、神の恵みと祝福とについては十分承知しているはずであるから、神に対する罪こそ、最も力説しなければならない点である。しかし異教諸国ははるかに異なった事情の下にある。神の恵みを拒む罪を語る前に、その提供された恵みが何であるかを知らされなければならない。深い意味での罪の自覚を得る前に福音の恵みが提供され、彼らが必要を感ずるようにさせられなければならない。しかし、わたしは急いで付け加える。罪の自覚がなければ、永久的な救いの経験は得られるものではない、と。一般的に言えば、まず人を天に向けるものは必要を知ることというのが普通であるように思われるが、しかししばらくすればそれによって自他を傷つける罪、またきよい正しい神に対しての罪の自覚に変わって来なければならない。
 これなしに真の敬虔はあり得ない。この基礎的要素を缺くすべての回心は偽物である。それほど経たないうちに『犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、泥の中にころがって行く』ようになるであろう。
 この仕事は、単に必要を知らせることに比べれば、非常に困難である。それは、彼らが反逆しているお方のご存在とご性質とその義とについて全く無知だからである。したがって、「罪」と言ってもキリスト教の言うような意味と内容がないのである。
 わたしたちが罪の自覚を起させようと努める時、道徳的腐敗や放蕩や悪癖や罪悪など、強い言い方をすることはある程度は仕方がない。わたしたちはこれを詳しく説いて忠実に取り扱わなければならない。しかしそれはわたしたちの主眼点ではない。罪の当然の、しかも恐るべき性質は、神との関係を破った点にある。わたしたちはすでに述べたように、単なる悔改でなく、神に対する悔改を伝えるように任命されている。罪の真髄は、人の神に対する反逆と、神に遠ざかったこと、神を憎むことにある。これが「世の罪」である。そのほかのものは、この悪い木から出た実に過ぎない。わたしたちの仕事は聖霊によってこの「世の罪」を悟らせることにある。
 少しも光を持っていない異教徒の心を呼びさましてこの罪を悟らせることは容易でない仕事である。しかし、事実はそれほど困難でないことを知るようになることを希望したい。
 わたしは他の場所で、神の存在とその創造者であることの真理を説く方法に注意を要することを指摘した。人の頭脳に訴えるこのような説教が聴衆の心に何の反響も起さず、豆鉄砲で軍艦の横腹を撃つようなものであることを見せられて来た。単なる知識は人を動かすようにはならない。単なる教訓は人々を罪に目ざめさせることはできない。冷ややかな論理は霊の火を点ずることができない。理論は心を砕かない。こうしたことは何度繰り返してもなお足りないことを感ずる。
 わたしは極めて単純な二つのことを提案したいと思う。一つのことは、神について悟ることなしに、真実の深い罪の自覚は起こらないということである。したがって、異教徒に真理を説こうとする場合、神のご性質とそのご要求とについて知らせるということは極めて重要で、これ以上に大切な問題はないと言ってよいほどである。第二は、この真理を提唱する目的は罪の自覚を起させるためである、ということである。
 ローマ人への手紙一章において、パウロは回心していない心の被いを剥ぎ取って、四つの戦慄すべき姿を示している。すなわちくらまされた心、言うことの出来ない欲望、不自然な情欲、さまざまな罪の行為である。しかし使徒は、これらがただ結果であって、原因でないことを告げようとしてたいへん苦しんでいる。原因として彼の指摘していることは次のとおりである。
 一、神を知っていながら、神として崇めず、感謝もせず、二、神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せ、三、神の真理を変えて虚偽とし、四、神を認めることを正しいとしない、と。したがって、罪の自覚がどんなに恥ずかしいことであっても、それは結果ではなく、その原因の暴露である。
 放蕩息子のたとえ話の中にもちょうど同じことを見いだすことができる。彼が遠い国で犯した罪と不義とについて多くを語らない。それはただ一言で尽くされている。ただその原因と最大の罪とが描写されている。それは彼の父に対する罪である。彼は父の愛を蔑み、その権威を嘲り、その涙を顧みず、その名を汚し、その忍耐を嘲り、その持ち物を浪費した。これこそ彼の罪であった。そのため彼が恥じ砕けて家に帰ったとき叫んで言ったのである。『父よ、わたしは天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました』と。
 わたしは経験上から、このたとえ話の説明は人に罪を悟らせるために最も有効な道であることを発見した。ここに最も深い哲学がある。しかも幼児でもわかる単純な道で述べられている。
 聖書で罪を示すために用いられる一つの言葉は「不信仰」である。これは広くかついっさいを含む言葉である。これは神を拒むこと、すなわちその愛とその要求とその真理とを拒絶することを意味する。これは彼が、生き、愛し、顧み、求め、救い、祝し、守り、そしてわたしたちを喜びに満たして永遠の祝福に至らせようとなされるいっさいの恵みを全く拒絶することを意味する。これはその反逆の総計である。これからいろいろな悪が生じてくる。そしてこの罪こそ、わたしたちが聖書によって人々を呼びさまさせるために任命されたところのものである。
 回心してから数年を経た信者に、その最初の罪を知った経験を聞いてみると、彼らはその必要だけでなく、その罪を自覚して救いを求めるようになった場合でも、自分の心を分解することはできない。それは確かに神に対する罪ではなかった。また自分や他人に対する罪と言うこともできない。彼らはただ本能的に悪であると知っているところをなしたことを悟ったもののようである。神の律法は彼らの心に記されている。たとえ立法者についてまたく無知であるとは言え、しかもその誡めの痕跡を認めることができる。それはどんなに迷信のために抹殺されているとは言え、なおその良心の声に背いたことに対しあかしをなすものである。
 求道者がその初めにどんなに罪について幼稚な考えしか持っていないにしても、わたしたちは失望する必要がない。彼等がその心に記された神の律法を破ったということを悟っただけでも満足しなければならない。『父よ‥‥‥あなたにむかっても罪を犯しました』『ただあなたに罪を犯しました』ということは、あとに来るさらに深い経験であろう。神の律法を破ったという自覚は、彼らが救い主の足下に来て十字架の意味を悟るようになる時、神の破られた御心に対する自覚に所を譲るようになるであろう。マルティン・ルターはかつて言った。「わたしは、イエスの傷から学ぶまで、真の悔改を知らなかった」と。罪人であるとの自覚は、多くの場合、あとに来るものである。
 前に述べた若いユダヤ人の悔改は、この点を適切に例証すると思われるので、ここにそのあかしを紹介することにしよう。

 「この間、イエスはわたしの心には、単にユダヤのメシア、長く待っていたイスラエルの望みとだけ理解していた。しかしわたしは彼を個人的に信ずるようになった。わたしは彼を人類の偉大な医者、慰め主として見るようになり、わたしの乱れに乱れた心にとって、来なさいという彼の恵み深い招きは、なくてならない安息の港であると感ずるようになった。
 救われた初めの間は、キリストは安息のない者に安息を与え、悲しみの満ちているところに喜びを与えられる大いなる慰め主、また重荷を負って下さるお方としてわたしの魂に示されていた。しかし時の進むにつれて神のきよい言葉の光のもとに、神の御前における自らの罪の深いことときよくないこととが暴露され、こうして自己の姿が見えるとともに、主イエスの新しい方面が見えて来た。わたしはかつてないほど彼が世の罪を取り除く神の小羊にいますことを明らかに示され、カルバリの十字架の意義があざやかとなり、わたしをあがなったその価値がどんなに偉大であるかを悟るようになり、わたしの心はわたしを生かそうとして死んで下さったお方に対する讃美と感謝に溢れることを覚えた。主イエスの中に見いだしたこの罪のための身代わりは、単なる重荷を負い慰めを与えるお方として、無限に尊いものであった。それによってわたしをあがなって下さった血の真の値打ちを深く知るようになった。」

 彼の罪の自覚は、彼が必要を知ることとキリストに対する信仰とに追従して生じたものであった。異教諸国においては、多くの場合これが実際的経験の順序である。新生の力をもって聖霊が人の心に臨まれるとき、彼の臨在の安息と慰めとともに、また罪の深い自覚を与えるものである。しかしわたしたちは初歩から始めなければならない。まだ罪の自覚のない魂も懇切に取り扱わなければならない。
 それならばどうすれば、真実の悔改を人々に与えるような真理を提出することができるだろうか。わたしは全く無知な魂に四つの単純な方面を示すことが有効であることを経験して来た。一、自己を傷つけるものとして、二、他人を傷つけるものとして、三、神の律法を犯すものとして、四、神の御意を痛めるものとしての罪の真相がそれである。

 一 自己を傷つけるものとしての罪

 『わたしを失う者は自分の命をそこなう』(箴言八・三十六)

 一般的に言えば、人が罪を悟るのは自己に及ぼす結果を通してである。何度も何度も多くの男女が『罪の支払う報酬は死である』というようなみことばによって深く罪を知るのを見た。神について全く無知で、したがってその律法について何も知らない者が、このみことばを彼らの心に適用することによって聖霊による深い罪の自覚に至らせられる。これが長い年月の経験を一つにまとめた総括的な結論であるように思われる。すなわち人々はまず罪そのものよりも罪の悪い結果に目ざめさせられるのである。
 数年前、わたしが奉仕していた町に、ひとりのかわいそうな青年がやって来て、罪悪と放蕩に身を沈め、その持ち物を浪費し尽くし、ついには誰一人頼るべき友もない孤独の身となり、この上はただ自殺以外にその困難をのがれる道がないと思うようになった。そのため、彼は妻と三人の子供を殺し、自分もまた自殺しようと決心した。彼がその眠っている子供ののどに刃を突き刺そうとした時、その子供が眠りながら笑ったのを見て、思わず心おくれしてその決心を思いとどまり、今度はわずかの持ち物を売り払って、妻と子供のために切符を買って郷里に送り帰し、そして自分だけで死のうとして家を出た。ところが、思いがけなくわたしたちの天幕集会場の前を通り、何ということはなくその中に入り、入口の腰掛けの一つに腰を下ろした。彼の耳に最初に入った言葉は『罪の支払う報酬は死である』というのであった。彼はその顔を両手の中に沈めて説教の終わるまですわっていたが、一言も耳に入らなかった。神の武器庫から出た矢が彼の心を刺し通したのである。この神の鋭い矢によって聖霊は彼に罪を悟らせ、その自殺の道をとどめられた。しかしながら、彼はキリスト教の初歩の要素さえ全く知らないのである。説教者は彼が苦しんでいるのを見て、自分の説教が彼に光を与えたことを期待しながら近づいて行ったが、彼の心にも頭にもこの聖句のほかに何も入っていないのを見て、すっかり失望してしまった。深い忍耐と同情をもって説教者は彼の身の上話を聞き、そして真理を解き明かし、彼を救い主に導いた。彼は以来数週間、毎夜集会において多くの群衆の前に、彼が罪と死と地獄から救われたことをあかしすることを喜んでいた。しかし彼は、神とその律法とに対する罪の深い意義についてはわきまえていない。ただ彼は、罪が彼を滅亡の絶壁の先端にまで引きずって行ったことに気がついたのである。しかし、それは彼を神と救い主に来らせるのに十分であった。
 したがって人々に罪を知らせようと思う時、わたしたちはそのものすごい結果を強調する必要がある。『わたしを失う者は自分の命をそこなう』。ふつう何も知らない異教徒に対しては、こうした方法をまずなすべきであり、またその心に届くために非常に有効であることを見せられて来た。しかしながらここにも一つの重要な問題を付け加えることを急ぎたいと思う。求道者がここまで導かれて来たら、わたしたちは彼に罪の報酬がただ死であるということだけでなく、また神との永遠の離別であることも示さなければならない。罪は分離させるものである。わたしたちはここまで目ざめた者に、さらに深い意義を示す機会を取り逃さないように注意しなければならない。わたしたちはこの幼稚な概念を踏み石として、更に徹底した自覚へ導くように心がけなければならない。このような悔い改めた者をなかば照らされたままにして置くことは、非常に陥り易い過失である。わたしたちはそのような苦しみを利用して、罪が神に対する反逆であり、神とわたしたちを別つもの、贖いの犠牲を要するものであることのさらに深い意義を示す立場にあることを忘れてはならない。

 二 他人を傷つけるものとしての罪

 『わざわいなるかな、血をもって町を建て、悪をもって町を築く者よ。
  わざわいなるかな、おのれに属さないものを増し加える者よ。
  わざわいなるかな、その隣人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ‥‥‥』(ハバクク書二・十二、六、十五)

 わたしたちは罪人の心にある他人を利することなく、他の方法で罪を悟らせることができる。すなわち、わたしたちは彼らの罪が他に及ぼす結果を指摘するのである。多くの人々は、彼らの罪深い生涯が、妻子を悲惨な状態に陥れていることに気がついて救いを求めるようになった。聖書には、罪が他を傷つける力について多く記されている。事実、主な結果はその方面に現れてきた。悪い木はその実によって知られる。したがって、わたしたちは人々の悪がどんなに残酷な荒廃をその周囲にもたらすものであるか、鋭い言葉をもって描写し、彼らに罪を悟らせるように努めなければならない。
 数年前、ひとりの人が非常な苦しみをもってわたしたちの伝道館に来て、わたしたちの宗教が彼に助けを与えることができるかを尋ねた。質問しているうちに彼は非常な短気者であることがわかった。その前日、彼はほとんどその妻を殺すところであった。もし近所の人がこれを止めなかったら、彼は殺していただろう。その怒りが静まったとき、彼がどんなに危険なところまで行っていたかに心づき、急に恐れを感じて救世軍に行くつもりで出かけた。そこで助けを得られると思ったからである。そして、わたしたちの伝道館もその支部だぐらいに思って来たわけである。感謝なことに、たまたま居合わせた伝道者が、彼がもしキリスト教について何も知らなくてもすぐに徹底的に救うことのできる救い主に導くことができた。それは数年前のことであるが、今日もなお彼とその妻は、シオンの道に熱心に働いている。罪がわたしたちを救い主に導くことは真実である。
 ここにもわたしたちは更に高い真理への踏み石を持っている。ひとりの人が、罪の他人に及ぼす恐ろしい害悪に目ざめた場合、それが更に恐ろしい意義を持っていることを示すことは決して困難ではない。わたしたちは悔い改めた者がなかば照らされて止まってしまうのを許さず、その機会を失うことのないよう警戒を要する。このような好機はまたと到来しないかも知れない。このような機会は利用しなければならない。再び繰り返して言う。わたしたちに、罪の分離の力を示し、神と魂との間に永遠の障壁を築くものであることを示すことをなさせて下さい。これが取り去られるまで、神との和合も一致もないのである。

 三 律法を破るものとしての罪

 『父よ、わたしは天に対して‥‥‥罪を犯しました』(ルカ福音書十五・十八)

 前に述べた罪の二つの方面の研究は、更に高いまた完全な研究への飛び石に過ぎないことを見てきた。神のみことばに示された罪人とは、人類の心と良心に記された神の律法を犯すことである。この点が明らかにされるまでわたしたちは休んではならない。わたしたちはたちどころにこれを見ないでも失望する必要はない。しかしいかにすみやかに、聖霊は全く無知な異教徒の心にも、或いはくらまされていたとは言え、その心に記された神の律法を犯したことを悟らせて罪を認めさせられるかを見て、驚かされて来た。わたしはたびたび、罪が自分や他人に及ぼす結果について認めず、また神の律法を犯したことも悟らない魂でありながら、また彼自身十分に言い表すことができないとは言え、道徳的罪悪に対して強烈な認罪をしているものを見て来た。もちろんこのような魂に、聖書に従い神とその律法とに対する罪の真理を明らかにすることは極めて容易である。
 昨年、わたしは百五十人ほどの信者が一週間集まる一つの小さな修養会で話をした。会衆の中に、一人のキリスト者の兄弟で、非常に無知な農夫がいた。彼は書くことも読むこともできない。彼はキリスト教についてかつて聞いたことがない。そこで「聖霊のバプテスマ」「安息日の休みが神の民のために残されている」というような題名の話からは何の益も得られそうもない。しかし第二日の集会のあとで一同に祈らせたところ、彼は非常な苦しみをもって祈りだした。彼の祈りは次のようであった。「おお神よ、わたしは全くあなたを知りません。わたしは読むことも書くこともできません。わたしは今まで祈ったこともありません。しかしどうかわたしの叫びを聞いてください。わたしは公の席で告白することもできないような大きな罪を犯しています。しかしわたしを憐れんでください」と。
 次の日、わたしが「第二の安息」についての説教を終わったあと、彼は非常な心のもだえをもってわたしの立っていた所までやって来た。彼は霊に憑かれた者のように倒れ伏してもがき苦しんだ。玉のような汗が彼の額から滴り、その苦悶は見るに堪えないほどであった。三人の者がやっと彼を静めた。わたしは罪人が義なる審判者の前に出る審判の日もこのようであろうかと思った。彼は教会の別室に連れて行かれ、一時間半ののち、贖いの主の血によって安息を与えられた。彼はキリスト・イエスにある新しい被造物として家に帰った。彼の老父はその変化を見て驚き、自分の息子の神を自分も信ずると言った。村中の者も、キリスト教の神がえらいことをしたと評判をしないわけにいかなかった。
 わたしは聖霊のお働きの早いことに驚かされた。この人はその心に記された神の律法を犯したことについて強烈な認罪を持ったもののようであった。それは普通の必要を知ることによって救い主に来たものではなかった。キリスト教の真理について教えられた人々の間にだけ期待することのできる鋭い罪の自覚によるものであった。
 このような例が稀であることは知っている。しかし、上より聖霊が注がれた時、祈りの答えとしてあり得る栄光あることである。
 どんな場合においてもこれがわたしたちの目的である。深い満足のある経験が確かめられる前に、律法を犯す罪の真相についての理解がなければならない。ユニテリアンは、天の父はその子どもたちを赦すのに贖いを必要とせず、身代わりの犠牲がなくても罪を赦すことがおできになるという。もし罪が父の御心を傷めたというだけのものならばそうも言えるだろう。もちろん罪はそれに違いないが、またそれ以上である。それは正義の永遠の法の破壊であり、天の主権に対する侮辱である。したがって、贖いの真の価値を悟る前に、神の律法を破る罪の性質についての深く徹底した自覚がなければならない。

 四 父の愛に対する罪

 『父よ、わたしは‥‥‥あなたにむかっても、罪を犯しました』(ルカ福音書十五・十八)

 わたしたちはいま、最も深い、また心を探る罪の一側面を考えようとしている。わたしたちは、罪がただ神の律法を破るだけでなくまた神の御心を破るものであることを見いだすのである。放蕩息子のたとえ話には、驚くほどの簡潔さの中にこのことが例証されている。この話は、父の事実をもって始まっている。もし彼を取り去るならば、あとは抜け殻である。もし放蕩息子に立ち帰るべき父がなかったならこの話は成り立たないのである。立ち帰る目標がなかったら、誰に向かって悔い改めることができるであろう。この話の真髄は、父とその愛である。父の存在の証拠を求めるのは冒瀆に等しい。子があることは父がある証拠である。これは常識的に考えても明らかなことであるが、世の中には神の存在を拒否するか、または神の創造された世界の外にいるかのような、賢明そうな愚人の夢物語を喜ぶような者のいることも事実である。
 『神を知っていながら、神としてあがめず』(ローマ一・二十一)息子は父を知っていても、父としてあがめることをせず、ただその持ち物を求めて行ってしまった。人は神を求めない。しかしわたしがいつも繰り返しているように、もしこの天の父の美しい概念を真実とすることができなくても、とにかくそれを信じなければならない。ああしかし、事実はどうであろう。この放蕩息子のように、実際、人はこのようなことを信じようとはせず、かえってその持ち物だけを愛しているのである。
 人々は感謝することをせず、欲は深い。『民は座して食い飲みし、また立って戯れた』(出エジプト三十二・六)というのが異教の特質であるが、これはまた放蕩息子の特質でもある。彼らはただこのような考え方で生活する。彼らにとって神々は、自分の便宜のために使用しようとしているものに過ぎない。何かを与えるものを信ずるのである。礼拝者はただ物を得ようとして祈る。神々は自分のことを顧みなければならない。
 異教の事実は、この話の中の放蕩息子の罪と正確に符合する。もしそうでなければ単なる想像と言うこともできようが、しかし実に真理を表していることを知るとき、その半面の最も美しい側面、すなわち愛の父が天におられるということもまた事実でなければならない。
 踏みつけられた愛は、地上において、おそらく最も残酷なものになるだろう。これは赦すことのできない罪である。弱いということより悪く、欲よりも、虚偽よりも、その他のあらゆる罪より悪い。愛に反抗する罪、その涙を謗り、その心痛を嘲る。これはいっさいを越えて野獣的であると言える。拒絶された愛は、悪の絶頂である。そしてこれが放蕩息子の罪である、また人類の罪である。
 わたしはテトスへの手紙三章やヘブル人への手紙二章に記されたところにしたがって、神の愛の性質について、「親切」「愛」「憐れみ」「恵み」の四方面から学ぶことが有益であることを見いだして来た。
 一 忍耐の愛(ローマ二・四)。罰することをためらって、恵み深くあるよう待つ愛、望むことのできないところをなお望んで、正義の刃をしばしとどめるもの。
 二 犠牲的愛(ヨハネ三・十六)。最も悪く、最も忌まわしいもののために、最もよく、最も輝くものを与える愛。
 三 実行的愛(テトス三・五)。新生させきよめるために、新生の力を備え聖霊を与えられる愛。
 四 義とされる愛(テトス三・七)。義に悖ることがないように、苦しみ、血を流し、死し、そしてすべての約束をして、全能の神の御言葉として永遠に変わることがないようにした愛。
 わたしは放蕩息子が『天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました』と帰ってきた様子を見るとき、預言者の言葉を思い出す。

 『天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、
  主が次のように語られたから、
  「わたしは子を養い育てた、
  しかし彼らはわたしにそむいた。
  牛はその飼い主を知り、
  ろばはその主人のまぐさおけを知る。
  しかしイスラエルは知らず、
  わが民は悟らない」』。(イザヤ書一・二、三)

 『「天よ、このことを知って驚け、
  おののけ、いたく恐れよ」と主は言われる。
  「それは、わたしの民が、
  二つの悪しき事を行ったからである。
  すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、
  自分で水ためを掘った。
  それは、こわれた水ためで、
  水を入れておくことのできないものだ」』。(エレミヤ記二・十二、十三)

 以上二つの場合とも、神は父の愛を拒み侮る、すべての悪事の中で最も非人道的な罪のため、天を呼んであかしされる。放蕩息子が、「わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました」と叫んだことは、それほど不思議なことでもない。
 この最も霊的な深い罪の概念については、聖書の真理を多く教えられていない人々の間で見いだすことはほとんど稀である。しかし、そこには著しい事例もしばしば見いだされる。ここにその一つがある。
 数年前、わたしは田舎の未伝地を開こうとして一つの町に行った。ここではかつて福音が一度も語られたことがなかった。わたしはそこで十日間の集会を持ったが、初めの夜、放蕩息子の話をした。次の朝、十九歳くらいの娘がその叔母と一緒に面会を求めてきた。彼女が目ざめた熱心な求道者であることを知って、聖書を学ぶために二時間も費やした。そして最後にヨハネによる福音書三章十六節を開いたが、彼女はそのすばらしい真理の前に泣きくずれてしまった。わたしは後にも先にも、このような幼い魂がこれほど感動したのを見たことがない。彼女は美しく単純に主イエス・キリストによるこの神の賜物を受け入れ、神の約束に安心して家に帰った。主はたちまち彼女を用い始められた。集会が終わった翌朝五時頃、彼女の老父がわたしを訪ねて来た。わたしはたぶん別れのために来たものと思った。しかし、彼は娘の受けた喜びを得ようとして来たのであった。娘の話してくれたところに夜と、彼はその前夜一睡もせず、もう起きて喜びを得るために行った方がよいのではないかと聞いたそうである。感謝なことに、彼はその朝それを得た。そして数年間、主のために幸いな奉仕をなし、喜んで天の御国に昇ったのである。彼はこの少女によって導かれた最初の魂であった。彼女は今も主の豊かな愛を証しし、罪人を良き羊飼いのもとに導いている。
 私はここでこの章を終わりとしたい。今まで述べたように、かつて何も知らなかった異教徒が、キリスト教について一、二回聞いただけで、罪を自覚し理解し信ずるようになるということは、非常に不合理なありそうもないことと見えるかも知れない。しかし、聖霊によって備えられた魂にとっては、放蕩息子のような話によって真理を示すとき、生ける神に対する罪を真に悟るために決して多くの時を必要としないことを見いだして来た。
 もう一度繰り返して言わせてもらいたい。不信仰の罪は、すべての罪の中で最も恐るべきものである。『それ(聖霊)が来たら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである』(ヨハネ十六・八、九)。ほかのすべての罪は赦されることができるであろう。しかし不信仰の罪、すなわちキリストによる神の愛の拒絶、罪の唯一の癒しの道を軽んずることは最大の罪であって、もし拒み抜く場合は、もはや赦されることはない。
 人々は罪を犯したため、或いは十戒を破ったために、いま地獄にいるのではなく、唯一の罪の赦しの道を拒絶したためである。世の罪というのは、神を拒絶したことである。人々は、神が罪の子らを愛し、顧み、祝そうとして待っていて下さることを信じようとしない。彼はただ信ずる者に直ちに答えようとして待っておられるのである。
 「正義の人々は今日その罪のために苦しむことはない』とひとりの著名な科学者が語った。もしそれが真実なら感謝すべきことである。わたしたちは救い主に至る賢い者であるために、世の人の目に狂人と見え愚人と思われることに甘んずるものである。ああ、このようないわゆる正気の者こそ、善でも悪でも、自らなしたことに従って審判を受けるかの日に、全く狂人であり馬鹿者であることが明らかにされるであろう。
 


http://web.mac.com/biogeochemistry/sacellum/service/chapter_0.html



THE DYNAMICS OF SERVICE⑦~ALPHAEUS NELSON PAGET


救霊の動力~A・パジェット・ウィルクス


第七章 必要を知ること


 
 『貧しい人々‥‥‥囚人‥‥‥盲人‥‥‥打ちひしがれている者』(ルカ福音書四・十八)

 これまでの数章で、魂を覚醒し、照らし、回心させるために用いる方法について語ってきた。しかしこの仕事は異教の国にあっては非常に重要なことで、考えすぎるということはない。そこでさらに二章、この題目のために用いることにしよう。
 一章は必要を知ることの考察のために、次の一章は罪を知ることの考察のために費やすことにする。わたしはすでにこの両者の区別を指摘したが、これは極めて大切なことである。聖書は人間のこの二重の状態を示している。貧しい者、囚人、盲人、打ちひしがれている者と、一方で憐れむべき者として示す。他方には、罪人、反逆者、怒りの子、悪魔の子、神の限りない怒りと罰とにあずかるべき者というように取り扱っている。この二重の事実をわたしたちは強調しなければならない。それによって、わたしたちの胸中には、滅び行く魂に向かう愛と、主の栄えのために抱く怒りの熱情とが燃え上がって来る必要がある。
 働き人として成功するために、人心に近づく道を研究することは絶対の条件である。わたしたちがこのことを了解するまでは、魂に接近することができないであろう。わたしたちは、人々に近づくさまざまな方法とさまざまな道とを了解しなければならない。しかしわたしたちが神の啓示の書によって学ぶのでなければ、このことをなすことはできないであろう。もしわたしたちがこの点を理解していれば、一度の試みに失敗しても失望することはない。それは、一つの道がふさがった場合でも、なお神の御霊が入口として備えられている急所を思い出すまで、手を変えて試みることができることを心に留めているからである。
 さて罪の問題と全く離れて、必要を知ることの道によって魂に近づく四つの明らかな、また確実な道がある。神は人々の心に、四つの驚くべき本能を植え込んでおられる。それは毒され、乱されているに違いないが、福音はその毒を示して、これの癒しの道を備えている。
 第一の本能は、安息と幸福と喜びに対する願い、第二は、自らに害がありまた悪があると思われるすべてのものに打ち勝つ力を得たいという願い、第三は、光と確信に対する願い、第四は、生命の継続に対する願いである。
 これらの願いはすべて神によって植え付けられた本能である。したがって、魂を救いに導こうとするにあたっては、この本能が堕落しきっていることを示しながら、なお、これらの願いに完全に応ずるところのものを提供しなければならない。これは聖なる主ご自身の用いられた方法であった。主はこの四つの動機に向かって訴えられた。これは救いの四つの様式であって、救いは人の心のこの四つの要求に応ずるものである。これは、いずれの国でも、いつの時代でも、すべての魂に適用することができる。
 キリストはわたしたちのために、知恵となり、義と聖とあがないとになられた。別な表現をすれば、光と確信、神との平和、罪と悪よりの救い、永遠の生命、すなわちわたしたちの魂だけでなくまたからだの贖いとなられたのである。

 一 安息に対する願い

 『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。』(マタイ福音書十一・二十八)

 ある異教の祭礼の折、街で天幕の集会をして会場のおもてにこの聖句を記した立て看板を出した。するとちょうどその向こう側にあった芝居小屋がこれを真似して、向こうを張るつもりであったのか、次のような言葉を立て看板にて出した。
 「すべて心の浮かれた者はここに来なさい。わたしがあなたがたに楽しみをあげよう。」
 悲哀はただ偽りによって打ち消されるに過ぎない。この世の提供するいわゆる快楽の賜物には多くの価を払わせられる。
 キリストはまず第一に魂の安息を提供される。キリストはまず第一に魂の安息を提供される。罪人である婦人の心に届いたのはこのようなみことばであった(ルカ七章、マタイ十一章)。わたしは日本においてこのみことば以上に罪人を覚醒するために用いられた聖句をほかに知らない。何度かその実例を見せられた。このような実話を述べるならば、おそらく一章では足りないであろう。自殺寸前にある男女が、しばしばこの言葉に捕らえられるのを見た。罪の呵責より良心の安息、罪より心の安息、反逆より意志の安息、欲望より願望の安息、罪の結果より肉体の安息、心配より思いの安息、死の恐れより霊魂の安息、この一つひとつを取って例証をもって人々の心に当て嵌めることは有効である。安息のない真の理由は、依り頼むことのできる確たるもののないことである。ちょうど、疲れた人が椅子によりかかろうとすると、たちまちその椅子が取り去られるように、この世は永久的な何物をも与えない。若い役人に「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」と叫ばせたのもこれである。彼は富と地位と品性とをもっていた。しかし彼は、本能的にこれらのものの一つも永続しないものであることを知っていた。彼はその依り頼むことのできる、過ぎ去らない何ものかを求めていたのである。
 わたしは経験の上から、悩みや悲しみや心配などが人をキリストに導く守り役であることを認めてきた。罪の感覚ではなく、安息に対する願いが、しばしば人を天に向けさせるものである。わたしたちは人の心の中から罪と咎の悲しみを取り去るだけでなく、またこの必要にも応じてくださる救いと救い主をもつことは感謝の至りである。
 救いのこの方面を提供するためには、主の救いの事実とともに救い主ご自身について強調することが有益である。このことを発見した人々が知らないと言っても、彼らを愛し同情し助けて下さるおかたを求める心は、人心の深い本能の一つである。そしてこの本能を覚醒し、照らし、また満足させることが必要である。

 数年前、わたしが働いていた地方の一つのかけ離れた伝道地に著しい回心者が起こった。問題の人物は、今は熱心な伝道者となっているが、彼は憐れな酔っぱらいの漁夫で、読むことも書くこともできなかった。彼はすっかり堕落し果てていた。彼はその酒癖を宗教によったら止められるかと考えて、仏教の僧侶に助けを求めた。その僧侶はまじないのために頓服薬を与えた。ところがある日、たまたま寺に行ったら、その僧侶が酒を飲んでいた。その偽善を見破った彼はそれっきり宗教にもおさらばを告げた。しばらくして、ある寒い冬の夜、友人と一緒に隣村に行き、もう一人の友人を待っている間に、その隣の家から普通の会話よりは少し高い声で話す言葉が聞こえてきた。彼が門口に近づいた時、次のような言葉が耳に入った。『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう』と。
 このことばは二度繰り返して語られたが、それが彼の心を捕らえた。彼らはそれぞれの家に帰った。ところがその夜も、また来る日も来る日もこの言葉が彼につきまとってくる。『わたしのもとに来なさい』。誰だろう。どこに行ったらその人に会えるだろう。確かに生きている人に違いない。おおその人のもとに行って、この身も魂ものろいつつあるこの悪癖から救われ、そして休ませてもらいたい。感謝、彼は罪人の友であるお方に見いだされ、そしてイエス・キリストにあって新たに創造された者となるまで休むことができなかった。

 どうか若い伝道者が、どのように安息を魂に提供したらよいか、またどのようにこの聖なる安息の与え主を宣べ伝えたらよいかを知り、こうして魂を良き羊飼いのふところに休ませるだけでなく、救い主にそれらの魂のわずらいを癒していただくように。

 二 喜びに対する願い

 『わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう』(ヨハネ福音書四・十四)

 ここに主イエスは快楽と喜びに対する願いにちょうど当てはまるところのものを提出しておいでになる。
 神が人間に与えようとされているものは、このすぐれた幸福、永遠に続く完全な喜びと快楽である。これは最も幸いな本能であって、神はこれを満たしたいと願われる。人はこれを獲得するためにあらゆる悪いわざをめぐらした。わたしたちは永遠の命、天的喜びの強壮剤を彼らに差し出すことによって、そのくちびるから毒杯を奪い去ることができる。そこにはこれに代わるものがない。ピリピの獄屋において、傷ついたからだも血の滴る手足もこれには役に立たなかった。獣のような獄吏もこれを見ては驚き怪しんで、今まで苦しめた囚人の足下に悔い改めた。さらに主のための奉仕において、今まで心配のためにうなだれていた者の心の中に喜びの湧き出るのを見、また一度は石の偶像に接吻したそのくちびるから讃美と喜びの歌が破れ出るのを見ることにまさる喜びはないということを付け加えることができるであろう。
 わたしはここにこのような人々から受け取った多くの手紙を山のように持っている。その中から二、三の例を断片的にであるが記してみよう。

 「わたしは喜びで心がいっぱいで、何から書いてよいかわかりません。わたしは時にはこれ以上は堪えきれないと思うほど喜んでいます。」
 「わたしは喜びに満ちています。心の中には感謝と讃美のほか何もありません。」
 「このような喜びがこの世にまたとあろうとも思われない。何でわたしはもっと早くこの幸いな賜物を求めなかったのでしょう。」
 「わたしは主イエスのご臨在を認めて深い喜びを持っています。そして注意深く主の御前を歩もうと努めています。」
 「わたしは今までこのような喜びを経験したことがありません。わたしは聖書がはっきり開かれてくるのに驚いています。」
 「わたしは喜びのあまりじっとしていることができません。こんな賜物を受けられようとは思われませんでした。わたしはいつも主イエスの愛を胸に抱いています。」

 喜びに満たされている男女を見ることはどこにおいても幸いなことであるが、ことに異教の暗黒の中にいた人々が大きな喜びに輝く様子を見ることは言うことができない幸いである。この喜びの福音を有効に宣べ伝えるため、わたしたちはまず自ら心の衷に湧き出る喜びを持っていなければならない。
 数年前のことである。ある避暑地において宣教師の子どもたちのために開かれた一つの集会に、ひとりの賜物ある若い幼稚園の教師が出席した。彼女は英語がよくわかった。彼女はキリスト者とは言っていたが、その心には何の満足もなく、苦々しく謗りに満ちていた。教会の会員ではあったが神の救いの恵みについては何もわきまえていない。説教者はキリストの十字架の七重の目的について語っていた。彼女のあとで告白したことによると、説教そのものには大して感じなかったけれども、その説教者の顔に現れた喜びに非常に感動したと言う。
 それは矢のように彼女の心を刺した。彼女は満足の行くまで休むことができなかった。ほとんど二週間、涙の中に主を求めた。こうして主はその聖顔の輝きを彼女に示して、その説教者の顔に現れていたその喜びを満たされたのである。
 数週間前、わたしはある西洋風の立派な日本人の邸宅を訪問した。その家の同宿者のひとりが熱心なキリスト者であった。わたしはどのように彼女がキリストに導かれたかを質問した。彼女は次のように説明した。彼女はまだ十五歳で女学生であったころ、バックストン師が彼女の住んでいた町に来られた。彼女はその集会に出席したが、話は何も解らなかったが、その顔にある輝きと喜びとが深く彼女を感動させ、主の救いを見いだすまでは決してやめないと決心するようになった、と。
 したがってわたしたちは救霊者としてまず自ら深く飲むことを求め、渇く罪深い男女にこの満足の泉を心ゆくばかり飲ませなければならない。わたしたちは人々があまりに利己的になるからと言って、この賜物を自由に提供することを遠慮してはならない。彼はこれを知ってこそ、初めて空虚な罪の楽しみと世俗の悲惨なわがままから離れることができるのである。

 三 力に対する願い

 『また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。‥‥‥もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである』(ヨハネ福音書八・三十二、三十六)
 『自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない』(ガラテア五・一)

 世の中には安息や喜びなどに何の興味も感じない魂が少なくない。それらの人々の困難と必要とは、全く異なった方面に存在している。彼らにとっては罪の力がものすごい事実と感じられている。しかしそれは罪の自覚を意味するのではない。これは異教諸国にあっては特別にそうであって、十分教えられた魂でない限りは、罪の自覚のために圧倒されて赦しを求めるというような実例は極めて稀である。これは自然なことで、神の存在さえ知らなかった者が、神の律法を破ってその御心を傷めたというような感覚は持つことができそうに思われない。
 キリスト教国と称えられている国々では、この点は全く異なっている。数年前、わたしは神戸でひとりの英国人をキリストに導く喜びを経験したことがある。彼は深い罪の自覚のために悩んだ。彼のただ一つの叫びは「神に向かってこのような大罪を犯した者が、どうして赦されることができるか」ということであった。これは異教徒の場合と全然異なっている。彼らの叫びは『神様、罪人のわたしをおゆるしください』というよりも『だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか』ということである。
 罪人としての自覚はあとで起こることを記した。言わば魂はまず後ろに退くのである。彼は救いと生命と力と勝利とを与えられたあとで、神の国のことを教えられ、こうして初めて神の力だけでなく、彼の咎を赦して下さったその恩寵の大きさと深さとを悟るのである。あたかも昔の中風の病人のように、彼は力を求めて救い主のみもとに来た。主は『あなたの罪はゆるされる』と彼に仰せられた。
 わたしは誤解を招きたくない。わたしたちは初めから神に対する罪の大きさとその赦しの必要とを示そうと全力を傾倒する。この土台がなければすべては無駄なことになってしまう。これは主眼点である。ここを読んでおられる方の中には、わたしの言葉をさえぎって「それだからわたしたちが魂に信ずるように勧める前にまずキリスト教の真理について十分教え込む必要があるのだ」と言われる方があると想像する。それに対してわたしはいくらでも否と答える。主イエスは、良きサマリア人のようにそのままの状態で魂を救われるに違いない。
 罪の自覚の中には三つの段階があるように思われる。一、わたしたち自身に対する罪。二、他人に対する罪。三、神に対する罪。無知のために求道者の中にはただ最低の段階に達しただけの者もいるだろう。自分は憐れな酔っぱらいであり、肉欲の奴隷であることだけを知っているが、きよい神に対する罪については何もわからない。そしてたぶん自らが他の人々を地獄の悲惨に陥れていることについて、あまり気付いていないであろう。彼はただ自分が奴隷であることだけを知っている。わたしたちは、彼が霊魂の不滅と三位一体と神の聖と義と主の受肉降誕とそのご生涯と、死と甦りとの教理がわかるまで──すなわち神に対する罪についての理解を得るまで待たなければ、彼に救われるように勧めることができないのであろうか。そうではない。救いはどのように解釈してみても、それが真理の認識ではない。これは神の与えられる賜物であり、奇蹟であり、神のわざである。それは生命であって、これを受ける者のうちに働いて彼を上に向けさせるだけでなく、神の救いの力だけでなく、またその罪の赦しの恩寵の偉大さを示すほむべき光として導くようになるであろう。
 だれが神の御力を制限することができようか。神がご自身の賜物を、人が理解するまで与えられないとだれが言うことができようか。わたしたちはこのように言いたくない。神が求められることのすべては、憐れな罪人が信じ頼ることができるためにだけ必要な知識である。この知識を与えることはわたしたちの幸いな義務である。
 それなら、わたしたちがどうしたらキリストの与えてくださる自由がただ人々の慕うべきものであるだけでなく、また直ちに受けることのできるものだと信ずることのできるように提出できるかを学ばせてほしい。これを適切に提出するとき、眠っている囚人を呼びさますことができる。わたしはすでに何度かそれを見てきた。人々はそれができると信じないために求めないのである。わたしたちの仕事はその可能なこととその力とを示すことにある。
 トーレー博士のある集会に、無神論者の一群が邪魔するために入って来たことがある。集会の前にこのことを知らされたので、彼は開口一番まず聴衆に向かって質問を発した。すなわち、まずキリストを信じて罪と堕落の生涯から救い出された者は立つように、と言った。たくさんの人々がその声に応じて立った。そこで次に、無神論を信ずることによって、今まで放蕩無頼な生活を営んでいた者がたちまち生き返って有益な国民になったという者があれば立てと言った。ひとりも応ずる者がいない。ただ一人の黒人が立った。しかし彼は酔っぱらいで、よろめきながらそこから出て行ってしまった。
 わたしは幾度かこの例話を取って、この市の六十万の人々の中に、何かの宗教を信ずることによって色欲と酒の奴隷であった者、或いは絶望の中にあった者がたちどころに生まれ変わって救われたという者があるか、という風にチャレンジしたことがある。しかし二十三年にわたるわたしの経験で、偶像礼拝によって病気が治ったという者にはたびたび会ったが、罪から救われたという者はひとりとしていなかった。わたしのチャレンジに応ずるものがなかったのである。
 この自由はもちろん福音の真髄である。『その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである』。つまるところ、安息とか喜びとかいうものは、罪からの救いの結果にほかならない。わたしたちはすべてにまさって、傷つき縛られた者に、罪からの絶対的な即時の救いを提供することのできる者でなければならない。すでに示したように、その桎梏を愛している無数の魂がいる。しかし感謝すべきことには、その苦しさと痛さを悟り始めている魂もまた少なくない。このような者に対して、自由と力とに対する彼らの欲求に訴えることは、彼らを救いに至らせる効果があるのである。
 わたしたちがこの救いを提供する方法は、確実でまた力強くなければならない。わたしたちはこの救いが即座に得られるものであることを力説しなければならない。そして常に聖書の言葉を用いて押しつけなさい。これを説明し、これを例証して、最後にはまた聖句をもって迫り、これを握らせるようになすべきである。これだけが彼らに救いの知識を与えるものである。

 四 光と確信に対する願い

 『わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく‥‥‥』(ヨハネ福音書八・十二)

 主の御生涯を学んで、ことに聖ヨハネの福音書に記されたご教訓や奇蹟などを見るとき、主がいつもこの人心の本能に訴えられていることを知らされる。
 永遠の事実や死後の生命についての確信を得ようとして、多くの悩む魂が幽霊教や心霊術などの禁じられた領域に踏み込んで、永遠の破滅と恥との沼に迷い込むのである。この願いに対して、わたしたちは十分に訴えることができる。キリストは世のいのちであられるとともに、また光であられる。彼だけが未来の存在の果てしない暗黒の恐るべき不安を一掃してくださることができる。ただ彼だけがいのちと朽ちないこととに光を出された。もちろん、多くの者はこの道によって近づくことができないこともわたしは承知している。彼らは足下の糞土に没頭して光を受けようともしない。しかし感謝すべきことに、どこでも常に光と確信とを手探りしながら、魂の運命とその安全とを確かめてのみ与えられる平和を追い求めている魂がある。
 ここにもう一度あかしを持ち出したい。数年前、藤村操という優秀な学生が「人生は不可解なり」という一語を書き残して華厳の滝に飛び込んだために、日本中に衝動を起こしたことがある。世俗的な者は嘲った。しかし思慮ある人たちの間に尊敬と同情を起した。
 必要を知るようにさせるために、わたしたちはこの力ある武器を用いることができる。人の心の奥深く、永遠の生命に対する強い欲求がある。どのように仏教が涅槃と人格的消滅の教義を説いてこれを窒息させようとしても効果がない。
 ちょうど今日、わたしはひとりの同労者が三か月前にある福音未伝の町に天幕伝道を開いたときにキリストに導かれた仏僧から、次のような手紙を受け取った。彼はキリストのために非常な迫害を受けて、裸のまま家を追い出されてしまった。彼はその回心のあかしを述べて言う。

 「わたしは熱心なキリスト者である伯父伯母をもっていた。広島の学校に行っていたころ、その家にいたので、一年間日曜学校に行った。しかし仏僧の子であり自分も跡継ぎであったので、高等学校に通うようになってからは教会に行くことも許されなかった。住職になってからのちの有望な地位がわたしを喜ばせていた。わたしは哲学に深い興味を持った。そして他の青年同様、厭世観に捕らわれてしまった。仏教は実際は無神論であって、人格の消滅を教えるので、数年後、一つの事件のためにかかる極端な観念論に対する信仰が全く吹き払われるまではその教義に満足していた。
 わたしはこの世において、だれよりも愛するひとりの友人を持っていた。彼は突然病気に罹り、そしてわずか三時間のうちに死んでしまった。このできごとがわたしに非常な変化を与えた。わたしは哲学の研究に対する興味を失ってしまった。毎夜毎夜、友人のことを夢に見るのであった。昨日まで語り合った友人が、永遠に消え去ったということがあり得ることなのだろうか。彼はもはや生きていないのだろうか。彼の霊がどこかで生きていることを信じないではおられなくなった。考えれば考えるほどそう思われてくる。そしてこれを知ろうとする深い願いがわたしを捕らえた。インド哲学の研究はわたしの質問に何の答えも与えない。わたしはインド哲学こそどんな哲学にもまさって優秀なものと思っていたが、今はその信念がなくなってしまった。
 その時以来、わたしは疑惑の世界に生活した。そこでわたしは未来を教える真宗の教義を研究してみた。しかしそれも失敗であったので、次に法華経を学んでみた。この教義は、日本にある仏教各派の中でも最も奥ゆかしいものと言うことができよう。しかし一つもわたしの疑問に答え、わたしの心の欲求を満足させるものはなかった。人生の難問はついに永遠に解くことができず、ただ死だけがその解決の道であるように思われた。
 わたしは華厳の滝に飛び込んだ藤村操に深く同情した。幾度か彼のように自殺を思い立った。しかしその道からわたしを引き止めた唯一のことは、死後どうなるか、という思いであった。死は真に人生のすべての苦しみの終結であろうか。魂の死は肉体の死のように確実なものであろうか。霊魂が肉体を離れたとき、どこへ行くのだろうか。
 十年前、日曜学校でわたしの心に播かれた種がついに実を結ぶ時が来た。わたしが仏僧になろうとしてその生涯を選んだ時、すべての種はすでに全くふさがれてしまったと思っていたが、実はそうではなかった。雨と日光はついにこの芽を出させるようになった。わたしの仏教的訓練も哲学の研究も、春の前の冬のようなものであった。ついに春は来た。神がわたしの心に光を与えられたその無限のご恩寵のためにただ彼を讃美するのみである。彼は暗黒と罪より救い出してくださった。わたしの悲しみは逃げ去った。今年の三月二十一日、太陽はわたしの心にのぼった。再び没することはない。わたしは救われたのである。」

 知識は力であるとともにまた平和である。人々は自らの心の中には平和を得、一方ほかの人を導く力を得るために、神が自由に与えられるところのものを知る必要がある。
 であるから、わたしたちは早く、そのことが残酷な死の陰と暗黒にいる人々に確信と現実と知識の光を提供するものであることを学ばなければならない。

 五 永遠の生命に対する願い

 『神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである』(ヨハネ福音書三・十六)

 永遠の生命は、人の魂の最高の願いの一つであるが、なおそれに添えて、死と来るべき審判より救われたいという願いを含んでいる。
 わたしは今、この三つのものを一つにまとめて罪人に必要を知るようにさせる道としたが、実際にはそれぞれ異なった自覚として経験するものである。異教の国においては、来るべき審判についての概念は極めて漠然としている。仏教でいう地獄は、誇張された浅はかなもので、勧善懲悪のためにでっち上げられた方便と一般に考えられている。
 生ける神を知らない者には神に対する罪の感覚もなく、したがって、来るべき審判の教義に対して、合理的な反応を期待することは極めて困難なことである。もちろん求道者や回心者を教える場合に、神の怒りの恐るべき事実を強調することは極めて重要なことではあるが、しかしわたしは今、キリスト教の真理を未だかつて聞いたことのない者の中に、どのようにして必要を知ることを呼びさましたらよいかについて語っている。そこで、人を動かす方法として用いる他の二つの題目に移ることにしよう。
 人の心の奥底に、生命の永続に対する本能的執着がある。主イエスはしばしばこの条件の下に救いを提供し、この道を通して人々に届こうとされた。もちろんすべての人にこの道によって届き得るというのではないが、わたしたちの聴衆や求道者の中にはちょうどこの訴えに応ずる者が少なからずあるであろう。
 前に引用した若い仏僧のあかしは、この点にも当てはまるであろう。しかし、彼のように考え深い魂は極めて稀であって、永遠の生命に対する本能的欲求に対する訴えは、しばしば的をはずすことがある。
 一般的に言えば、死の恐れは、人々を覚醒する上においてより多くの場合に有効な、また都合の良い方法である。神は審判に至る道の道標としてこれを置かれた。『一度だけ死ぬことと、死んだのちさばきを受けることとが、人間に定まっている』。人々は知らなくても、死の恐れのとげは潜んでいる。わたしたちは死の事実を訴えの方法として用いることができる。死の恐れが異教徒の心にどんなに深く凄まじい事実であるか、もう一度あかしによって述べることにしよう。恐怖の王に対して、何の武装も用意もなく直面するということは、異教徒の心には実に戦慄すべき思想である。
 次のあかしは、のちに著名な聖徒となり、しばしば日本のフレッチャーと言われるようになった人の経験である。彼は確かに、世界中でわたしの会ったどの人よりもよく愛の使徒の霊を呼吸した聖徒であった。彼は次のように記している。

 「わたしは仏教の家庭に育った。わたしの母は熱心な仏教徒で、子どもたちを厳格な仏教の信仰によって教育した。母は、わたしが仏壇の前で偶像に礼拝し、香を焚き、念仏をとなえてこなければ、決して朝食を食べさせなかった。夕方には、もう一度家族の者が仏壇の前に集まって礼拝した。十八歳の時、わたしは大病に罹って死に瀕した。医師がもはや生きる望みがないといったので、母は、何か言い残すことはないかと尋ねた。わたしは死後にしてもらいたい二、三のことを遺言して、いっさいを運命と諦め、静かに横たわっていた。しかし、わたしはいざ死に直面という時にどうしても仏では満足できなかった。そこには現実性がない。この時まで、わたしは仏とその救いとで大丈夫だと思っていた。ああ、しかし、わたしには平安がない。
 極楽の幸福についてはよく説教を聞かされた。しかしわたしは少しも行きたくない。わたしにはその準備ができていない。そこにわたしの必要があった。わたしには満足ができない。もっと現実的なものがほしい。もっと心を満足させるものがほしい。わたしには死に対する勝利がない。しかしどうしてよいかわからないので、ただ静かにしていた。
 これが異教徒の今日の状態である。彼らは暗黒と死の陰とに座している。彼らは神なしに死んでいく。わたしは死を待った日のことを忘れることができない。このように死に直面することは恐ろしいことである。神が大きな憐れみをもってわたしの命を保ってくださり、ついに見いだして永遠の救いにあずからせてくださったことを、何と感謝してよいかわからない。」

 おお、このあかしがわたしたちの心を刺して、まだ福音を聞いたことのない人々の胸中にある悲惨が何であるかを理解させ、暗黒と死の陰にいる人々に生命の福音を提供するための励ましとなりますように。
 わたしは異教徒が死に直面する時、その心の中に抱く悲惨を示そうと努めてきた。しかし一方、わたしたちはキリスト者の死の床においての幸いな勝利をも示して、魂を覚醒するために更に力を尽くさなければならない。偶像教徒が死に臨んだ時に来る暗黒の大きな恐怖は、キリスト者が世を去る時に受ける光によって、更に恐るべき状態が曝露される。
 わたしはかつて十五歳の少女が結核のために死に瀕しているところを訪問したことがある。わたしはその光景を決して忘れることができない。彼女は残酷な病に苛まれて、見るかげもなくやせ衰えている。苦しそうな咳を続けたあと、わたしのほうに向き直って輝いた微笑を浮かべながら言った。「おおうれしい、うれしい、たまらないほどうれしい」と。「何でうれしいのか」と問えば、「主イエスさま、主イエスさま」と答え、そして苦しい中で「いえすのほかひとりもなし」と歌おうとするのである。しかし一句を歌ったあと、激しい咳が出るので続かない。未信者の医師が「少し気が違ったのでしょう」と言う。わたしは「いいえ、いいえ、気が違ったのではありませんよ。心が違ったのです」と答えた。近所の人たちは、この小さな聖徒が栄光に輝いて王の前に出る姿を見せられたのである。
 確かにキリスト者の勝利の死は、キリスト教弁証論の栄光ある一部であって、眠っている罪人を呼びさます力がある。これにより、自分を聖徒とする永遠の救いを渇き求めるようになるであろう。
 わたしはこの章において人の心を覚醒する四大方法を指摘し、主イエス・キリストの救いがこれらの人の心の大きな必要と本能を満足させることのできるものであることを述べて来た。
 これらは、すべての国、すべての場所、すべての時代において、きのうもきょうも、永遠までも変わりなく、時の続く限り、罪人のいる限り、すべての者の中にある必要である。何者もこの堕落した人性の恐るべき事実を変えることはできない。したがってわたしたちはこれに全力を傾倒し、これを生涯の重荷とすべきである。
 神はわたしたちを祝し、わたしたちの報いとして魂を与え、わたしたちの冠に星を与えられるであろう。こうして貧しい者、心の傷める者、囚人、盲人、圧迫される者は、恵まれ、包まれ、癒されて、主の救いを受けるようになるだろう。

http://web.mac.com/biogeochemistry/sacellum/service/chapter_0.html



THE DYNAMICS OF SERVICE⑥~ALPHAEUS NELSON PAGET


救霊の動力~A・パジェット・ウィルクス


第六章 任 命


 
 『わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである』(エペソ三・七~九)

 これまでの各章において、わたしたちの奉仕が宗教的な遊戯にならないように診察の必要なことを考えてきた。そして前章では、わたしたちの仕事の助けになると思われる四つの事柄を暗示しようと努めた。本章では、さらにこの題目を続けて、実際の働きにおいて最も重要な四つの原則を提示しようと思う。そのほかにも欠くことのできない研究があるが、できるだけ簡単明瞭にするために、次の四項目としたい。
 一、どのようにして魂を覚醒したらよいか。
 二、どのようにして理解させたらよいか。
 三、どのようにしてその意志をサタンから神に転向させたらよいか
 四、どのようにして、人々に永遠の生命の賜物を受けさせたらよいか。

 一、霊魂の覚醒

 わたしたちが人々に知能の光を与え、その意志を悪の力から救い出して神に向けることを求める前に、まず第一にしなければならないことは、その魂を目ざめさせることである。このことを成し遂げるために、二つの道から人の心に近づくことができるということは、ほとんど指摘の必要もないほど明白なことである。すなわち、一、必要な感覚を呼びさますこと。二、咎と罪との自覚を起させること。このことは非常に分かりきった真理ではあるが、しかしまた大切なことであるから、次の二章でさらに詳しく述べたいと思う。本章では、ただその要点を暗示するだけにとどめておく。
 この二つのことができなければ、満足な真の回心は望むことができない。しかし必要な質問は、どちらが先か、ということである。この点を誤るなら、大きな妨げとなるであろう。主イエスは憐れなサマリアの女の魂を呼びさまそうとした時に、まずその必要の自覚を訴えられた。主は彼女の心を満たす唯一のものに対する願いを喚起させられた。この事が成って、彼女が『主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてよいように、その水をわたしに下さい』と叫んだのち、たちまち題目を変えて彼女を罪の自覚に導かれた。こうしてその必要と罪とを悟ってこれを告白したことにより、御自身を救い主とし、神を父として啓示された。もしわたしたちが魂の必要について十分に悟らせないで、いきなりその罪を指摘するならば、或る場合は、わたしたちが捕らえようとする獲物を取り逃がしてしまうことになるだろう。
 わたしたちは、悔い改めない魂の願いがどれほど堕落しかつ反逆し、また悪くなっているかを知る必要がある。しかし、これから導こうとする魂に近づく場合、よりまさっている方法は反対引力を生じるようにすることであって、彼の心の前に生命の輝きを示して、真の満足に対する渇きと願いをそのうちに創造することである。こうしてわたしたちは容易に罪と不義とのさらに深い問題に移ることができるのである。
 わたしはいかに多くの魂が何ら罪に対する感覚がないままにキリストに来て、その信仰を全うしているかのようにしているのを見て全く驚かされる。この点で、最も著しい実例がある。この青年は、回心後数年にして、栄光に輝いて天の故郷に帰ったのであるが、彼は次のように書いている。

 「わたしは放蕩の生活に入って間もなく、その悪い道に何の幸福もないことを発見した。わたしは、人生に果たして生きる価値があるかどうかを真面目に考えるようになり、ついに今年の三月一日十時半に自殺を決心した。わたしは毒薬を用意して家を出て、簡単に見つけられない場所で死のうと考え、山へ登り始めた。そして墓地のそばを通っている時、マタイ福音書十一章二十八節が突然わたしの心にひらめいて来た。それは神戸の伝道館の壁に掲げられていたのをただ一度見たものであった。わたしはその伝道館に入って腰を掛け、『僕は重荷を負っていなければ疲れてもいない。こんな宗教に何の用事もない』と自らに語ったことをはっきり記憶している。そして今、自殺しようとしている時、その言葉が心に食い込んでくる。わたしの心は呼びさまされた。そこで自殺を思いとどまり、伝道館に訪ねて行った。そこでHさんがわたしを歓迎していろいろ話を聞かせてくれたので、その夜の集会にも残ることにした。その時の説教の一言一句はただわたしにだけ語られているように感じた。集会のあとで、HさんとKさんがわたしの祈りを助けて救い主に導いてくださった。そこでわたしは神との和らぎを得た。」

 彼はまず自分の必要のみを悟って、キリストに来たのである。そしてその後に、罪と、神に赦しの恵みの大きさと、その救いの力とを学んだのである。
 主イエスが罪人に近づいて(パリサイ人ではない)、福音を提示された方法を学ぶ時、この点を例証することができると思う。主は回心していない魂に対しては、彼らの利他心に訴えないで、その利己的本能に訴えられているようである。近代の神学者は、利他心が生まれつきの人の心にもあるものとして、それを訴えの唯一の土台とするのである。しかし、主キリストが利他心に訴えられた場合は、神の霊がすでに働きを始められている者に対してか、或いはまた主と青年の場合のように、その自己欺瞞を曝露しても回心しない者には、きよい利他心というものが最善の状態でもその心に全くないということを知らしめられた時である。
 日本でわたしの会った回心者のすべての中で、だれひとり利己的動機によらないでキリストに来た者を見たことがない。感謝なことではないか。このようにキリストに来る時、彼はこれを改造し、神の利他心をその心に植え付けられるのである。そのゆえに、新生している者に対して、きよめられた品性の最高の特質に対するような訴えをなすことができるのである。
 しかしわたしはここで少し細かな点を考えてみたい。この利他心に対する訴えも、もし正しく用いるなら、魂を呼びさますことができる。主イエスはこれを用いられた。したがってわたしたちもまた彼のなされたようにするならば、用いることができるはずである。
 ウェスレーは言う。自然宗教と天啓宗教との著しい相違は、人に関する教理である、と。自然宗教は言う。人の中にはある程度、善の性質がありまた悪の性質がある。だから大切なことは、その善性を磨いて悪性に打ち勝つことなのだ、と。天啓宗教は言う。人は全く堕落している、利他心のように見えるものも、実は飾られている利己心に過ぎないのだ、と。
 もしわたしたちがこのことを心に留めておくなら、利他的訴えの武器でも、魂の覚醒のために用いることができるのである。
 だれでも、自分自身だけで生活することはできない。彼らはその後ろに、悲惨と恥の足跡を残すか、祝福と平安との感化を残すものである。このようなことを人々に徹底させるとき、しばしば覚醒することがある。夢のような自己満足の道を歩みながらも格別な罪についての自覚がないという人々が、たびたびこのような訴えによって呼びさまされるのである。あなたの生涯はどうか。あなたの感化はどうか。あなたは誰かの祝福を与えているか。だれかを幸福にしたか。世はあなたの存在によってよくなったか。だれがあなたを喜んでいるか、と。しかし、異教の国において、人が聖霊によって新生するまで、このような訴えが功を奏することは、悲しいことであるが実に稀なことであることを告白しないわけにいかない。もちろん自己満足、自己義認に脹れ上がったパリサイ人に対して、その裸の恥を曝露して、その真の必要を悟らせるためには有効であるとも考えられる。
 この重要な題目を終わる前に、他の種類の求道者のことを述べてみよう。この場合、求道者と呼ぶのはふさわしくないが、それは少しばかり学問をして頭のふくれ上がった青年のことである。彼は、神の存在ということすら知ることはできないことだ、と決め込んでいる。彼は自分の満足のために議論をすることを好む。伝道者など眼中にないが、真面目な求道者のように偽装するのである。彼は真面目な疑惑をもって真理を探究する者のようである。このような者を警戒しなければいけない。若い伝道者は、このような者に引きずられて不必要な論議に時を無駄に費やすことがある。このような求道者に有効な即効薬はローマ人への手紙一章である。これを突きつけることを恐れてはならない。神を拒むことの効果はたいへんなことである。神の存在について議論してはならない。罪について語らなければならない。罪の門にその戦いの矛先を向けるのだ。神についての問題を、頭によらないで、心と良心によって語るのだ。その道から光が入らなければ、他のどんな道によっても決して届くことはできないのである。

 二 理解させること

 魂を覚醒させるために、その堕落の状態を教え諭そうと努めるより、その願いをそそるような目的物を提示するほうがよい、ということを見てきた。
 わたしたちの第二の仕事は、覚醒している者を照らすことである。どうしてこの仕事を進めたらよいか。どのように教えたらよいか。どのように、神の御存在やそのご要求、その御力などを悟らせたらよいか。この場合でも、わたしたちはわたしたちの模範であるかたに行くのである。主は多くの場合、たとえ話によって教えられるのであるが、いつでも心の管を通して、その理解へ届いておられることを見るのである。たとえば、放蕩息子の話のように、実に深遠な哲学を含んでいる。すなわち、生きておられる神のご存在、御愛、ご要求、御力などが極めて平易な言葉によって語られている。そこには弁証的な言葉はない。最も強い訴えは、良心と意志と心の愛情に向かってなされているが、それが有無を言わさないでその理解を照らし、人々を十分納得させる力をもっているのである。
 単なる知識と教訓とは、人々に実行をさせる力がない。人々に実行をさせる原動力は四つのことに限られている。恐れと望みと信仰と愛である。日常生活のすべての行動は、これらのもののいずれかに源を発している。貧窮、苦難、失敗、恥などを恐れるためか、成功、富、知恵、安楽を望んでいるためか、自己、友人、事情、環境を信じてか、またはより高尚な動機として、満足や同情を愛してか、である。これらは人々を刺戟して行動をさせる隠れた力である。宗教上のさらに重要なことに関してもまた同様である。
 「理性が何も知らないことに対しても、心は理論を持っている」とは、パスカルの不朽の言葉である。
 神の存在についての論議や、三位一体や、その創造者であることについての形而上の理論などは、暗くなっている理解を照らすのに有効な道ではない。これによって認罪と回心に至らせることはできない。
 キリスト信仰の大問題について魂に光を与えようとするならば、それはいつも同時に良心と意志と愛情とに届く言葉と思想によらなければならない。ああ、しかしこの点において多くの失敗が繰り返されている。
 エデンの園の例を取ることを許されるなら、神学的田園(むしろ砂漠か)より知識の木の実を持って来て、ちょうど生命の木の実であるかのように、飢えた魂に与えているのである。しかしそれはいなご豆であり(ルカ十五・十六)、風であり(ホセア十二・一)、灰であって(イザヤ四十四・二十)、そうして覚醒した魂がもう一度眠りに陥るのである。その題目が何であっても、神の存在、霊魂不滅、または主イエスの受肉降誕、死、復活、昇天などについても、求道者の良心と意志と愛情とに対する訴えと密接に結び付けて提出しなければならない。
 単に人を教え、また興味を持たせるような説教は、ただ人の理解をくらますだけである。わたしは長い間、異教徒に語られるいわゆる伝道説教と称する回りくどい話を見聞きしてきた悲しい経験から語っているのである。このことについて聖書を学ぶことを若い働き人に熱心に勧めたい。
 一例を挙げれば、神の創造者であることを語った箇所として、聖書を学ぶ者はただちにイザヤ書四十章に帰るであろう。この章の書かれた目的は何であろうか。ただ喜ばせたり、教えたり、興味を持たせたりするためであろうか。そうではない。その目的は、一方では偶像礼拝の罪と愚かさを示すと同時に、祈りにこたえて下さる神の確かさとその力を知らせるところにある。全章の結論は、神を待ち望むことについての最も力強い訴えである。これは極めて実際的であって、魂に激励と確信とを与えるところのものである。
 わたしは、学校の教室で学んだ説教学に当てはまったような説教の憂鬱な結果をたびたび見せつけられる。いまわたしたちの中の有力な伝道者となっているひとりが、このような種類の説教を何年間も聞いていたのである。彼はこれを聞いている間は、ただ議論したくなるばかりで、神に立ち帰ろうという願いも決心も起こらなかった。しかしふとしたことから、或る晩わたしたちの伝道館に来て、彼の言葉のように心に届く話を聞いた。彼は直ちに悔い改め、主に立ち帰って救いを得た。またこのことによって、どのようにして他の人に届き得るかも学んだ。しばらく後に、彼は次のように語った。
 「神戸ではわたしは造船所に勤めていて、毎日同労者にあかしをしている。昼食の時はトラクトを配布する。彼らはわたしを『ヤソ』と言って嘲るのであるが、わたしは決して議論をしない。ただ受けた救いを証しするだけである。信仰は議論ではない。これは実際的経験である。ひとりの青年が『聖書は神からの黙示か』と尋ねた。わたしは『そうです。そしてこれはわたしたちにいのちの道を教えます』と答えた。彼は『それこそ全くの迷信だ』と言って行ってしまった。しかし数週間後、彼は熱心な求道者になった。」
 確かに彼は、人は決して三段論法や冷たい論理学によって救われるものでなく、またそれによって死んだ魂が覚醒し照らされ新生するものでないことを学んだのである。
 もう一つの著しい例証がわたしの心に浮かんでくる。ひとりの熱心な伝道者であり、また謙遜な救霊者であった人のあかしをここに紹介しよう。
 彼は回心するまでは全く無学な造船所の職工であった。ジョン・ウェスレーは神の恵みはよく人を紳士にすると言ったが、この人こそ、不作法な廃物同然な望みのない者が立派な聖徒と変わった著しい実例である。彼はあかしして言う。

 「わたしの父は、わたしをある大きな製造所に入れた。わたしはそこで大人になるまで働いた。父はわたしを真面目な人間にしようと願っていたにかかわらず、わたしはその工場の悪い友達に感化されて全くの放蕩者となってしまった。父は明治三十八年の六月に死んだ。それからのわたしはいよいよ悪くなるばかり、ついに母や弟も置き去りにしてしまった。その夏、わたしは恐ろしい罪を犯して大阪にいるのが恐ろしくなったため、神戸に逃げてきて川崎造船所に入った。わたしは母と弟とを捨てて居所さえ知らせずに、不義の縁を結んだ女といっしょに生活していた。
 翌年五月二十日、わたしは伝道隊の伝道館の前を通りかかり、勧められるままに中に入って話を聞いた。その話の題は『放蕩息子のたとえ話』であった。わたしは非常に感動した。その一言一句何かわたしに当てはまった。わたしは確かに放蕩息子である。説教者は二つの点を強調した。一つは放蕩息子の心、一つは父の心である。わたしに最も深い感動を与えたのは、神が真の父であるということであった。わたしは今までこのようなことを少しも知らなかった。わたしは父を恐れていつも逃げ回っていた。しかしここに理想的な父の姿が現れている。これこそ真の父のあるべき当然の状態であろうと考えた。放蕩息子の状態は手袋のようにぴったりわたしに当てはまった。しかしここにはそれ以上に、わたしの必要に応ずるものがあることを知った。これはほんとうのことだろう。そうだ、ほんとうでなければならない。そこでわたしは信じる決心をしたのである。
 わたしはあとに残り、罪を悔い改め、イエス・キリストによる赦しの恵みを受けた。神はすぐにわたしを救ってくださった。」

 多くを語る必要はない。このあかしはわたしの言おうとするところをよく説明している。ここにキリスト教についてイロハさえ知らない者がいる。それが救い主のたとえ話によって自らの姿を見て、その必要に目ざめ、議論でなく理屈でなく、天啓教の原則を学ぶことによってでなく、ただ心の管によって、神の存在と力と愛とを悟るようになったのである。彼の理解は彼の愛情に従ったのである。彼はキリスト教弁証論を学ぶ必要がなかった。

 三 意志の解放

 使徒パウロに与えられた大いなる任命の第三の仕事は、人々をしてサタンの力を離れて神に帰らせること、すなわち換言すれば、人の意志を捕らえてこれを奴隷としている、悪魔から解放することである。
 すでに述べたように、魂を診察する場合、それが悪い欲や肉情の奴隷となっているのか、それともさらに恐るべき高慢の束縛のもとにあるのかを確かめることが必要である。もちろんいずれにせよ、解放の道は唯一であって、キリストご自身によるほかない。
 わたしたちの仕事は、彼らに罪を捨てさせようと努めるのでなく、ただそのままのありさまで神に携えて来ることである。わたしはかつて著名なキリスト教青年会の指導者によって導かれて、集会に出席したことがある。毎夜の説教は実に立派なもので、また感動を与えるものであった。いよいよ最後の夜となって、多くの青年がキリスト者となる願いを告白してあとに残った。説教者は単純な三つの勧告を彼らに与えた。一、罪を捨てよ。二、日々に聖書を読め。三、日曜ごとに聖書研究のクラスに出席せよ、と。それで彼は彼らを残して去った。わたしはこの第一項を聞いて心のうなだれることを感じた。それこそ多くの青年が、自分でなすことができないでもだえている点である。彼らは牢獄にいたペテロのように、手も足も全く汚辱の鎖に縛られている。確かにわたしたちの福音は、桎梏のままキリストに来て、その束縛を砕いていただくことである。その祝福は放蕩息子のように襤褸のまま父の所に帰るところにある。その意志が肉情と悪欲の奴隷になっている魂に接するときは、いつもこのことを心に留めておく必要がある。
 数年前、ひとりの青年がキリスト者になることを求めてわたしのところに来た。しかし彼の頭はいろいろな難問題でいっぱいである。彼は断ちがたい束縛の中にあって自由になることができない。わたしたちの間に次のような問答が繰り返された。

 「どうしてひとり静かに主イエスのもとに行って、いまわたしに話したことを告げないのですか。」
 「しかしたぶんわたしは偽善者です。」
 「そうです。そのことを彼に告げるのです。」
 「わたしは自分がほんとうに熱心なのかはっきりわかりません。」
 「何でそれをその通りに告げませんか。」
 「しかしわたしは意志が薄弱で、とても長く保つことができそうに思えません。」
 「それも彼にその通り告げたらよいことです。」
 「しかし‥‥‥たぶん‥‥‥あの‥‥‥」
 「そうです。それもそのまま話せばよいのです。」
 「主イエスに何でも告げさえすればよいと言われるのですか。」
 「そうです。それが今さしあたりあなたのなすべきことです。そのままのありさまで、あなたの知っているだけの悪いことも弱いことも罪もすっかり事実をお告げなさい。」

 彼はいささか疑っているというありさまで立ち去った。たぶんあまり簡単な解放の道に驚いたのであろう。数週間後、一通の手紙が届いた。

 「わたしはあなたが命じられたとおりにしました。そしてそのことが真実であることを知りました。わたしの持っていた質問はまだ答えられません。それはまだそのまま残っています。しかしもはや何の心掛かりにもなりません。それはとげがなくなりました。きばを抜かれたへびのようです。どうしてあなたに感謝してよいかわかりません。その後も二つの試練に遭いました。以前ならば、ひとたまりもなくこれに負けたのです。そのほかまだあなたにさえ言わなかった重要な事柄もあったのですが、しかしわたしどもが真を告げさえするならば、いっさいを解決してわたしどもの卑劣を癒して下さるおかたがあるということは何と幸いなことでしょう。
 わたしを彼に紹介して下さったことについて、何と感謝してよいかわかりません。」

 これは実に重要な題目であるから、煩わしさを厭わないで他の方面から述べることにしよう。意志の解放とは悔改の別名にほかならない。
 普通に考えられていることは、罪の赦しと永生の賜物とは神より賜わるものであるが、悔改は罪人自らなすべきわざであるということである。もちろんそれはある程度まで真実であるが、全部そうではない。罪の赦しと永遠の生命との場合のように悔改も、挙げられたキリストの賜物である(使徒行伝五・三十一)。敬虔なひとりのキリストのはしためのあかしはそれと全く反対である。今ここにしるしてみよう。彼女は次のようにしるす。

 「罪の赦しだけでなく、悔改もまた神の右にある。わたしはそこにこれを見いだした。わたしたちは、罪に赦しは神から賜わるものであるが、悔改は自分で作り出さなければならないと考えやすい。わたしが回心した時に、わたしのうちに悔改はなかった。わたしはただ一人わたしの部屋にひざまずいたその日をよく記憶している。わたしは救われようとは思っていなかった。わたしはこの世を心いっぱい求めていた。わたしはまだ若かったので、この世が実に美しく見えた。神はわたしを、いずれかを選ばなければならないところに導かれたが、わたしはその時、世を選んだ。わたしは年老いてのちか、または臨終の床において救われようと願った。わたしはひざまずいて、だれもささげたことがないというような貧弱な祈りをした。すなわち『わたしは救われたくありません』と神に告げた。しかし立ち上がる前にわたしのために十字架の上に死んで下さった救い主はわたしに悔改の心を与えられた。」

 ここに単純なしかも驚くべき救霊の秘訣がある。わたしたちは彼らがそのままキリストに来ることを言い張らなければならない。ここに旧約と新約との相違点がある。旧約は「こうしなさい」または「こうしてはいけない」であった。罪人の意志がいっさいをしなければならない。新約においてはわたしたちの意志の努力の代わりに「信仰によって受けたキリスト」である。キリストはわたしたちのなすことのできないところをなされる。彼は「わたしがなす」と言われて、「あなたがたがなせ」とは言われない。わたしたちはただ信じたいと願うだけである。
 富める若い青年は、救い主の厳格な条件を聞いて次のように叫び出すはずではなかったろうか。「主よ、わたしは永遠の生命を得るためにもう少し教えられる必要があると思いながらみもとに来ました。ああしかし、わたしは主の命じられることをすることができません。今は知っています。わたしに必要なのは神である救い主であることを。わたしの意志は奴隷になってお従いする力もありません。わたしはただ叫びます。わたしを救ってください。そうしなければ死んでしまいます」と。その瞬間ほむべき救い主は、いのちに至る悔い改めを与え、そのうちに働いて志を立て、事を行わしめ、そのよい御心に従わしめられたであろう。数時間後、同じ財布の奴隷であったザアカイは、前者と異なって自ら罪人であることを悟ったために、すぐに救われることができた。

 四 霊魂の救い

 わたしたちの任命のこの最後の項目については、なお語らなければならない多くのことがあるので、あとの章でさらに述べたい。わたしたちが伝えるために任命された主キリストの救いは二重である。それは罪の罰と力とからの救いである。すなわち、罪よりの救いの恩寵ときよめられた者の中にある嗣業とである。しかしそれについては後で述べることにする。
 この章では、わたしたちがこの任務を果たすために必要な唯一のことを語りたいと思う。わたしたちは魂を覚醒し回心させるために召された者であって、ただキリストにある救いを人々に語るだけでなく、またこれを受け入れさせるために召されたのである。これは実に驚くべきことであって、以下この一点に集中して記したいと思う。
 まず心をこめて考えてみることにしよう。わたしたちはこの驚くべき任命の達成のために、一方において魂の実状を奥深く詳細に調べなければならない。また一方、神の御霊の導きのもとに、その求道に適確に当てはまる真理を聖書の中から探り出すことができなければならない。しかしそれだけではまだ足らない。神はわたしたちが他の魂に信じさせることを助ける特権を与えた下さった。信仰の手をもって彼らを支え、これを助けて天国へと携え入れるのである。このことについて、前世紀における著名な神のしもべジョン・スミスの言葉を引用することは最善の方法であろう。彼の伝記の著者は言う。

 「罪は誰かによって悔い改められなければならないというのが、彼の堅い自覚であった。もし罪人が自ら悔い改めることをしないなら、神の民はその代わりに悔い改めなければならない。したがって、人々の罪を自分の罪として告白することは、彼にとっては定まった原則で、もし説教者が日々にその重荷を負わないなら、彼は罪人が多く神に立ち帰るのを見ることはできないだろう、と言っていた。彼はまた、信仰についても同様な原則を携えていた。彼は言った。悔い改める者のために信ずることはできると。そしてその意見を確証するために、彼が悔い改めた者のために信仰を働かせている間に真の信仰が罪人の心に生じて来て、救いの喜びがその中に湧き上がり、二人ともに喜んだという実例を多く述べている。更に言う。わたしたちは他の人のために働くことができる。神の感化力はすべてのキリスト者に連結されている。神とキリストはわたしたちにこれを要求される。わたしたちは神とともに彼らに対して能力がある。彼らの状態はできるだけ詳細にこれを見なければならない。贖いは彼らのために信じられなければならない。聖霊の感化の約束は彼らのために懇願され、また獲得されなければならない。そうすれば、彼らの頑固と汚れと高慢と無頓着とは逃げ去るであろう」と。

 この真理は極めて重要であって、これを失うならわたしたちにとっても他の人にとっても永遠の損失となる。わたしはここにもうひとりの驚くべき救霊者ウィリアム・カーバッソーの生涯から一つの例を取ろう。彼の伝記の著者は言う。

 「彼はキリストが徹底的に救いのわざをされるという真理に対して強い信仰を持っていた。『信じなさい』ということばが、誰に語られたものより力強く響くのを覚えた。他の人が悔い改める者に対して『信じなさい』と言っても格別何の反響も起さないが、ひとたび彼がこれを言うと、神の知恵がそこに現れ、簡単な言葉で語られた福音の真理がしばしば全世界を動かす梃子のように働くのを見た。こうして彼の手にかかって、束縛されていた魂がたちどころに自由を得たのである。」

 おお、このような力ある神の人に学びたいものである。人に託された任命の中にこのような栄えある、また驚くべき結果を生ずるものは他にないであろう。
 もし余白があるならば、偉大な救霊者の生涯から、非常に有益な、しかも反省を与える実例を紹介して、どのように彼らが魂を恋したってそれを得たか、また最も栄えあるは名の冠は常に涙によって潤っているものであることを例証することができるであろう。聖パウロは、魂をキリストに導くことを出産の苦しみに比えた。聖霊は確かに、デイビッド・ブレイナード、ウィリアム・ブラムウェル、ジョン・スミス、ジェイムズ・ターナーやそのほかの多くの神のしもべの中に働いて、魂を再び産み出すために、言葉に表せない切なるうめきをもってとりなしてくださったのである。
 数年前、わたしはこの国で有名になった犯人のひとりに接する機会を与えられた。その犯人は三つの犯罪のために死刑の宣告を受けていた。殺人罪(そのうちのひとりは子供)は最大の罪状であった。彼はミッションスクールで教育を受け、両親ともキリスト者であり監督教会の会員であった。
 彼は獄中で聖書や信仰書を熱心に読んでいた。わたしは三十分間、三人の看守の立ち会いの上で面会を許可された。看守の一人がわたしの言うことをみな筆記していた。その後一度も会わないので、果たして彼がキリストの救いを受けたかどうかは知ることができない。彼が父親に会ってくれと言うので会うことにした。このような、言うことのできない憂いと苦痛とを覚えたことはかつてなかった。処刑の日、彼はわたしに聖書を贈ってくれた。今もそれを持っている。
 わたしはその訪問について、ひとりの敬虔な祈りの人である同労の婦人宣教師に詳しく話した。その後数日間、犯人の処刑の日まで、彼女が祈りの中でもがき苦しんだことをいつまでも忘れることができない。彼女は悲しみ叫び、涙を流して神の前に訴え祈った。もし彼に天国で会うことができるとすれば、それはあの聖徒の苦禱によるものであろう。
 終わりに、この章で述べた四つの項目を繰り返してみよう。
  わたしたちはまず魂の眠っている本能を覚醒させ、これを満足させる唯一のものを求める願いを起させるために、どのように、力のある生き生きとした言葉と思想とをもって、この題目を人々に提出したらよいかを知らなければならない。
  わたしたちの第二の仕事である彼らの心を照らすことも、また同様に困難な働きである。わたしたちは彼らに罪の自覚を起させ、なおこれを実行させるために真理を提出する必要がある。魂はただ真の救いに対する願いを起させられただけでなく、またそれが理解されて実行されることが可能であることを納得させられてから、わたしたちと別れなければならない。
  意志を解放する第三の仕事においては、最も望みのない魂の中にも希望が燃え上がるようにキリストを示さなければならない。意志のもだえと努力の代わりに、ただ彼らがありのままで主のみもとに来さえすれば、その内に働いてその御旨をなして下さるという、いつも近くにおられる十全の救い主を提供しなければならない。
  わたしたちの第四の仕事は、たぶん最も困難な働きであって、不信仰を砕き、信仰の霊を創造し、人々に神の賜物を受けさせることである。こうするためにわたしたちのなさなければならない分は、一般に考えられているより、はるかに重要かつ厳粛なものであることを示そうと努めてきた。
 これが任命である。これが主より与えられたものであることを知る者にとっては真に動力である。聖パウロのように、どうしてこのような栄誉が託されたのかと驚きいぶかることであろう。これは我らを駆り立てて密室に入らせ、塵灰に伏してへりくだり、力と柔和と上よりの知恵を受けるために神を求めて彼を待ち望ませるようになる力である。
 わたしたちは自ら生ける水を飲み、約束の安息に住まい、キリストの賜う自由に中に立ち、来るべき永遠の望みと現れようとする生命とを待ち望んでいなければ、魂の深い渇きを満たすに足る神の救いをほかの人々に提供することはできない。
 キリストの救いとその臨在の光とがわたしたちにとって生ける輝ける事実でなければ、わたしたちは暗い魂を照らすことができない。
 わたしたち自らが解放されていないなら、すべての悪の束縛から解き放つ完全な救い主としてキリストを示すことはできない。
 すべてにまさってわたしたちの心が彼らを慰め、これに同情し、イエスの名による信仰をもって彼らの弱さを助けることのできる余裕と力を持っていないなら、他の魂を信仰の手をもってたぐり寄せることはできない。
 このような任命を果たす上で、わたしたちの失敗が涙とともにわたしたちを密室に退かせ、そして切に主に訴え祈り求めるのでなければ、成功ある人間の漁師として、いと高き神の大使として、人々を神に和らがしめるこの職務を果たすことはできないのではないだろうか。

http://web.mac.com/biogeochemistry/sacellum/service/chapter_0.html



THE DYNAMICS OF SERVICE⑤~ALPHAEUS NELSON PAGET


救霊の動力~A・パジェット・ウィルクス


第五章 職 務 と 証 言


 
 『智恵ある者は人を捕らう』(箴言十一・三十=文語訳)
 『あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない練達した働き人になって、神に自分をささげるようにはげみなさい』(第二テモテ二・十五)

 救世軍創立者ブース大将を知っている人はみな、大将の生涯の最大の熱望は魂を救うことであり、機会をうかがって一言でも語る時を決して失わなかったことを思い出すであろう。これはしばらく前、アスキス婦人がコーニル雑誌に掲載した一つの逸話であるが、彼女はある時大将と同じ汽車に乗り合わせた。大将は率直に魂の最大問題について彼女に語り、あとで共に祈った。そして、同じ汽車に乗っている乗客に向かってロッテンロー駅で下車して、そこの救世軍小隊に出席するように勧めた。もちろん旅行の途中なので、だれも降りる者はなかった。別れに臨んで、大将はアスキス婦人の本に次のように記した。
 「人生とは、天においての喜びと職務と交わりにふさわしい性質と品性を得るために神との調和の中を歩み、かつ悩む人々に真の幸福を与えるために働き抜くことにほかならない。──ウィリアム・ブース」
 ここに大将の人格が躍如としている。大将はいつも主のわざを努め、あらゆる機会に主のご要求をもって人々の心に迫らなければならないと考えていた。続く章において、異教国においての職務とあかしとに必要な資格についてさらに詳細に述べたいと思うが、今はただ大将のように忠実な神のしもべとしての心を持たなければ、だれも成功することはできないということを告げるだけで十分であろう。大将はその主の霊を深く知っていたのである。しかしわたしたちの任命の主要な責任について考える前に、二、三の予備的な考察を示すことは助けとなるであろう。
 この書をしるした主な目的の一つは、既に述べて来たように、神がわたしたちを召されたのは、ただ耕し、播くだけでなく、また刈り入れるためであることを示そうとすることにある。さらに異教国で魂を導くことは、今まで考えられていたよりもさらに早くできるものであることを示すこととしたい。この目的を覚えながら、四つの大切なことを暗示することにする。

 一 ただちに救われることをほんとうに信ずること

 『あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。‥‥‥わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである。』(ヨハネ福音書四・三十五、三十八)
 多くの若い宣教師は、故国ではすぐに悔い改める魂を得るが、異教国ではなかなか容易に得ることはできない、長い期間教えなければ、暗黒から光の中へ携え出すことはできないというようなことを聞かされる。それによって宣教師たちの燃える心は冷たく鈍くされ、即座の救いを期待しない霊がたちまちその心に入ってくるのである。これは実に不幸なことである。もし彼が聖霊によって備えられ、その心が苦難と悲痛と罪のるつぼの中を通過した経験を持つならば、福音について何の知るところのない魂でもただ一度の話によって数時間のうちに救われることができるものだということを、堅く心に自覚していなければならない。
 これについての実例は数限りなくあって、その選択に迷うほどである。しかし彼ら自身に聞くためにその経験について書いた一、二の実例を挙げるのが最善であろう。次にしるすのは、多年熱心に伝道者として働いているひとりの兄弟のあかしである。

 「わたしはかつてキリストのことを聞いたことがなかった。ちょうど今年の六月五日の夜、多聞通の伝道館の前を通っていた時に、そこに幾人かの人が讃美歌を歌っているのを聞いた。わたしはそれほどの考えもなく、ただうっかりその中にはいってしまった。その時、生まれて初めて、イエス・キリストの救いについて聞いた。わたしは説教者の語る放蕩息子といちじくの二つのたとえ話を聞いて深く示され、その場で悔い改めて神に立ち帰った‥‥‥。」

 その時以来彼は一歩も退かなかった。そして献身したのはそれからまもなくのことであった。さらに著しい実例がある。

 「あかしを書こうとしてまず思い起すことは、どんなにわたしが無益な罪人であったかということである。わたしは両親の愛の中に何不自由なく育てられたのに、若い時から罪の生活を送っていた。
 わたしは家にいることもできなくなったので家を飛び出してしまった。両親の監督のもとを離れたわたしは、悪い仲間といっしょになって、飲む、打つ、買うのあらゆる罪を犯した。しかし主はなお憐れみをかけて下さった。
 十二月二日の夜であった。わたしは遊びからの帰途、伝道館で歌の声を聞いた。その音楽に誘われて中に入った。わたしは歌の調子に引きずられて行くうちに次のような文句に至った。
 罪を犯す人々よ、怒りと審判の恐ろしき日いま降り来らん、
 憐れな罪人、そはながこと、そはながことぞ
 その一瞬、わたしの心は底まで突き刺さるように感じた。わたしのすべての罪は目の前に幻のように浮かんで来た。説教を聞いている間も、恐ろしくて顔を上げることもできない。説教者がわたしひとりを目がけて話しているように感じた。やっとのことで首をあげてみたが、ちょうどそこの壁に掲げられた一つの言葉が目に止まった。
 『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう』
 そうだ、それはわたしのことだ。わたしはちょうどそこで、神さまがわたしの心の目を開いて下さってその夜救われ、罪に打ち勝つ新しい生命を与えられた。喜びがわたしの心にあふれてきた。わたしは酒や煙草や悪遊びを嫌うようになった。私は古い悪友に近づくのが恐ろしくなった。今は主イエスが最善の友となられたのである。以来何者もわたしの心を覆すことはできない。ただ一つの歌と説教とを聞いただけで、一瞬間にこのように変化を受けるとは不思議なことであろう。感謝! これはわたしの決心ではない。わたしの中に働いて下さった神の力によって救われたのである。」

 ここにもなお驚くべき実例がある。これは現在聖霊に満たされて大いに用いられているひとりの伝道者のあかしである。

 「わたしの救われたのは六年前の九月二十一日であった。いま伝道館が立てられている湊川新開地の空き地に張られていた日本伝道隊の天幕に入ったが、ひとりの宣教師は『何を信じ、なぜ信ずるか』ということについて語っていた。それをわたしは昨日のことのように覚えている。一、生きている愛にして全能の神の存在、二、生きている恐るべきほとんど全能に近い悪魔の存在、三、この神が人を愛しその祈りを聞かれること、四、人はその心に罪を愛しその生涯に罪を犯すこと、五、来るべき審判のあること、六、神はイエス・キリストによって救いの道を備えられたことについてであった。
 わたしは深く自己の必要について覚醒された。わたしは今悟っているようには神に対する罪について分からなかった。わたしがどんな具合に罪を悟ったか、はっきり言うことはできない。自分に対してか、他人に対してか、神に対してか分からないが、とにかく一つの妙な罪の感覚があった。それはおぼろであり、不確実でもあったが、しかし極めて現実的であった。わたしはその夜、神がわたしを助けて下さることを信ずることができた。わたしは第二の集会に残り、今のようなはっきりしたものではなかったけれども、イエス・キリストとその贖いのわざとを聞かせられるままに信じて、キリストによってわたしを受け入れ、また救って下さるように神に祈った。
 わたしの中に来た変化は急激であり、また驚くべきものであった。わたしは今これを思いだして、驚きと愛と讃美とに圧倒されるばかりである。次の朝、わたしは全く別人となっていた。古い罪の桎梏はみな砕かれて自由になった。」

 これは多くの実例の中の二、三の見本に過ぎない。イエス・キリストは昨日も今日も永遠に変わりたまわない。スカルの井戸の傍らの、憐れな文盲の、偏見に捕らわれていた淫婦は三十分いのちの言葉を聞くことによって、その心の中からいのちの泉が湧き出た。十字架上の瀕死の盗人はそれよりなお短い時間に覚醒され、赦され新生した。ピリピの獄吏は数時間の短い間に永遠の生命を獲得した。わたしを信ずる者は『わたしよりもっと大きいわざをするであろう』(ヨハネ十四・十二)と約束されたキリストは、今もなお変わりない大能の愛に満ちた救い主であられるのである。わたしたちはこれを信ずるであろうか。このような恵みの奇蹟の可能なことを確信することができたであろうか。神はなして下さるという信仰によって即時の救いをもって見ることは極めて大切である。これがなければ、人々を神に立ち帰らせることに成功する働きをなすことは困難であろう。
 このごろ帰国中に一つの小さな宣教師の会合において、即時の救いを異教国でも期待しなければならないと力説した。ところがその中に中国に遣わされていた敬虔なひとりの有名な婦人宣教師がいた。
 その婦人宣教師は、そのころ、リバプールにほど近いところの洗濯屋で働いている中国人のために聖書研究会を開いて、福音について教えていた。そして一度即時の救いをためしてみようと思って、さっそく次の集会で信仰と祈りとをもってしてみた。そして多数ではなかったが、ひとりを確かにキリストに導くことができた。彼女はその喜びをわたしのところに書いて来た。それは数年前のことであったが、ついに二、三日前、中国に帰る途中、彼女はわたしを訪問してこの物語を繰り返し、その中国人の洗濯屋が今もなおいかに輝いたキリスト者であるかを告げてくれた。
 もちろん誰も彼もこの調子で導かれるとは限らない。多くの者はさらにゆっくり動くであろう。しかしもしわたしたちの信仰と期待と祈りとまた使命の言葉とがさらに確実で力強いものであるならば、多くの魂は死のまぎわの盗人のように、ピリピの獄吏のように、すみやかに平和の道を見いだして、主の救いにあずかることができるであろう。

 二 魂をキリストに導くために要する真理の極めてわずかであることについて

 『真理の言葉を正しく教え』(第二テモテ二・十五)

 だれでも。救われるためにはある程度の真理を理解することがなければならない。もしそうしなければ正しく信ずることができないことは明らかである。大切なのはそれがどれだけの分量かということである。すでに述べたように異教の国で成功している説教者の特長は、その人が心と意志と良心とを動かすための梃子としてどれだけの真理が心にはいるべきかを認識していることである。これは極めて大切なことで、もしそうでなければ、不必要な講義をして、霊の糧の代わりに神学的な石を与えて求道者を困惑させ、失望させることになるであろう。
 よくその状態を診察し、現在取り扱っている魂が救いの真理を受け入れるまで覚醒されて、光を与えられ、また悔い改めているかどうか、或いは単に覚醒されたのみであるか、悔い改めてはいないが覚醒されているかどうか、確実にその実情を探り、どんな真理をこれに適用したらよいかを知らなければならない。
 そしてその真理は、できるだけ簡潔で確実でしかも了解しやすいものでなければならない。事実、もし聖霊が救いの必要を感じさせておられるならば、その救いのために必要な真理はごくわずかである。
 私はひとりの青年のことを覚えている。彼はそのころ銀行員であったが、今は大きな教会の牧師をしている。彼は毎夜おずおずと福音を聞きに来て、集会の終わらないうちにそっと帰るのであった。ある夜、わたしは彼を呼び止めて自宅に来るように案内した。彼は覚醒しまた十分に照らされた魂であることを見たので、すぐに救いに導こうとした。わたしは彼が「それがわたしのなすべき全部ですか」と尋ねたのをはっきり覚えている。「そうです。それが今なすべきことのすべてです」とわたしは答えた。彼はキリスト者になる前にキリスト教のすべての真理を理解しなくてもよいということに驚いたように見えた。彼はその場で救い主に頼り、そして新生の恵みを受けた。彼はその後、主の道を歩み、ついに召命を受けて伝道者となった。
 後章で、目ざめた魂に提供しなければならないわずかの真理とは何かについてさらに詳しく指摘をしたいと思う。現在はもしわたしたちが人間を捕る漁師となり、魂を救う者になろうと欲する場合、欠くことができないものは何であるかを知らせる。わたしたちの必要とは、一言で言うなら、目ざめた魂に生命の光を与えるために、ぜひ必要な真理が何であるかをわきまえる能力である。
 この真理は救いの真理でなければならない。今日は奇妙な雑種の福音が宣伝されていて、それを社会教化の福音と称えている。その目的の一つは、ある宣教師の言うように、下層階級の民にその不満を自覚させ、これによってその社会的環境を改善し、キリスト教を受け入れるために備えさせることであるという。若い宣教師たちの中に主の任命と調和しないこの種の変な考え方をする者が少なからずあることを、しばしば発見することは悲しいことである。
 彼らの目的とするところは全くの空想である。彼らの或る者は間もなく失望し、躓いて国に帰るのである。郷里の人々も、福音が何をなすかを知らないのでがっかりする。彼らは、帰ってきた宣教師たちがひとりとして福音の宣伝によって全世界を改革したり、その国がキリスト教化されたという報告を聞かないことを残念がるのである。バプテスマのヨハネもこのような躓きに陥ろうとした。彼は弟子を送って、主イエスに真に来るべきメシアであるかを尋ねさせた。ヨハネはキリストが少数の盲人を癒し、憐れな癩病人をきよめることをもって満足しておられることに不審を抱いたのである。彼はなぜユダヤ人をローマの桎梏より解放して下さらないのか、すべての圧政を踏み砕いて全世界を改造されないのであろうか、と。キリストは答えて、『行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい』と言われ、そして意味の深い次の言葉を付け加えなさった。『わたしにつまずかない者は、さいわいである』と。
 これを要約するなら、わたしたちの仕事は火を消すことではない。主イエスは再びおいでになるとき、不義と罪との猛火を消し、永遠の義を携え、鉄の杖をもって支配されるであろう。今の時代において、彼はわたしたちに任命して、その諸国諸族の中からその名の下に民を集められるのである。こうして栄光の主の現れなさるとき、彼は町々を治め、世をさばき、天使をさばき、彼とともに地上を支配するだれも数え尽くすことのできないほどの栄えある友を持たれるようになるであろう。このような福音による神の経綸の順序を明らかに悟ること以上に、救霊者にとって大切なことはほかに多くないのである。
 ここで繰り返して言う。わたしたちが知って宣べ伝えなければならない真理は救いの真理であって、いわゆる旧式の、罪から救う福音である。これこそこの世が要する唯一のものであることを深く知るまで、わたしたちは救霊者となることはできないであろう。

 三 神のことばをどう用いるかについて

 『心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある』(ヤコブ一・二十一)

 帰国してのち再びアフリカへ行ったひとりの宣教師によって次のような話が伝えられている。彼はわずかばかりの品物を現地の人々に対する土産物にした。その中にいくつかの小さな鏡があった。彼はその中の一つをひとりの老婆に与えた。老婆はそれが自分の顔をそのまま反映するものであることを知るまでは、この新しい宝を非常に喜んでいた。老婆はもちろんそれまで鏡など見たこともなかった。老婆は鏡が自分のしわくちゃな醜い顔を映すことを知って、激怒して打ち砕いてしまった。自分の真相を知ることを好まなかったのである。ちょうど寓話にある駝鳥のように顔を砂に隠すことを願ったのである。
 この寓話の意義は明白である。神の言葉は、鏡のように、神の愛と恵みだけでなく、またわたしたちの心の実情についての真理をわたしたちに示すのである。救霊者のために最も大切なことはみことばを学ぶことであろう。
 多くの宣教師は自分で罪についての経験を持っている。そのため、どのように悩める良心を取り扱ったらよいかを知っている。しかしおそらく迷信の暗黒についての経験は持たないであろう。異教徒の自覚に立ち入ってその経験を味わうことはできないであろう。したがってもし彼が異教徒の心の迷宮に立ち入ろうと欲するなら、単なる推測や学校で学んだ自然宗教の研究以上の、診察と認識とのまさった道を知っていなければならない。
 もしわたしたちが誤りのない光を持っているのでなければ、導いている魂に簡単に欺かれてしまうのである。しかし人の心を探り、その思いを知っておられる神は、人の魂を覚醒し、傷つけ、包み、癒し、照らし、救うために知らなければならないすべての心理学を、その聖なる書の中に示しておられるのである。
 第一に、そこには聖書の完全な霊感についての信仰がなければならない。わたしたち自身の経験から言えば、聖書の完全な霊感を信じない人で、成功ある救霊者だという人に出会ったことがない。実に卓越した人格を持ち、強い意志を備え、豊かな素養を有する人々を知っているが、彼らはその働きにおいて人を感化して引きつけることはできる。しかし彼らの去ったあとには、人々は世に迷い、または無頓着になってしまうのである。
 感化は力ではない。感化は人を自らに引きつける。神の力は人々を神に引きつける。しばらく前に、呪いと誓いとをもって主を拒んだペテロは、神の力に満たされることがなければ、ペンテコステの日に何の感化も与えることができなかったであろう。
 このように、満たされた救霊者は、神の言葉によって示された人間の失われた状態とその必要についての誤りない診察と、またこれが提供する、悲惨と罪とに対する万能薬とをためらうことなく信ずることができるであろう。
 すべてにまさってわたしたちは聖書を学び、聖書が示す確実な言明と診察とを受け入れる必要がある。学校で聞かされるいっさいの誇張された空論に反対して、わたしたちは人が有罪であり(ローマ三・十九)、死んだ者であり(エペソ二・一)、神の敵であり(ローマ八・七)、暗く無知であり(エペソ四・十八)、弱い者であり(ローマ五・六)、不義を喜ぶ者であり(第二テサロニケ二・十二)、悪魔に捕らえられた者であり(第二テモテ二・二十五、二十六)、生まれつき不従順な者であり(ローマ五・十九)、主の前より永遠の滅びに至る刑罰を受ける者である(第二テサロニケ一・八、九)ことを信ずるであろうか。もしわたしたちがこれらのことを知りまた感じないならば、どのようにして人を救いに導くことができるであろうか。
 第二に、救霊者はこの特別な関係において聖書を学ぶ必要がある。人と物についての知識や、人の心について知ることも大切には違いないが、聖書の忠実な研究こそ人を導くために成功させるものである。
 単に聖書に記された診断を真実であると信じるだけではたいして益がない。罪のために悩む魂を癒すために備えられたところを学ぶために、労を厭わず、心を傾け、身を打ち込んで研究しなければならない。こうすることによってのみわたしたちは目ざめさせ、傷つけ、包み、癒すためにこれを用いることができる。ひとりの雄弁な説教家が放蕩息子の話をした。次の日、魂を救われたいひとりの悩む求道者が訪ねて来たとき、当惑したその牧師は「あなたの感情を損ねてお気の毒なことをしました」と言ったという話がある。彼の知恵を傾け尽くしても、ひとりの魂を救う知恵が出なかったのである。この目的のために、格別ほかの一切の問題を離れて聖書を学ぶ必要がある。多くの人は、ほかの問題について聖書を知っているが、最も大切なこの題目について学んだことがないのである。
 第三に、救霊者はまた神の言葉を用いることができなければならない。聖書に対する単なる信仰と知識だけでは不十分である。
 たぶん一つの例証がこの意味を明らかにするであろう。数年前、極東の地においてひとりの若いユダヤ人の救いのために尽くしたことがある。彼はキリスト教については全く知らなかった。彼はキリスト教の真理の一つも心得ていない。彼はその心の満足を求めてついに降神術に引っかかってしまった。彼はこれより逃れ出た経験を次のように語っている。

 「わたしはふとしたことからU氏と知り合いになり、福音についても話を聞かされ、おぼろげながら福音の真理の大略を知ることができた。ところがその後わたしは数歳年上の青年と知り合った。その青年は心理学に興味を持っていたが、私もそれに対して少なからぬ興味を感じたので、その結果深い友情を結ぶことになり、互いに意見を交換した。彼は降神術を信ずる青年だったので、わたしもあらゆる降神術の書を熱心に読みあさった。その結果、キリストの福音と全然反対の方向に進んで行った。
 わたしが次にU氏を訪問したときには、さかんに降神術の議論を持ち出した。その議論は表面はまことしやかなものであって、全然福音の真理と相容れないものである。U氏は一言もさえぎらずに、かなりの時間わたしひとりにしゃべらせた。そしてその後で何も語らず、ただいつも傍らに置いている聖書を取り上げ、微笑しながらそれを開いた。そして驚いたことには、その中からわたしの語った議論にはっきり当てはまった言葉を次から次へ読み上げた。そして最後に末の日になって『信心深い様子をしながらその実を捨てる』者の来ることを読んだ。それは道徳的正義を称えながら神を否定する降神術に、いかにもよく当てはまっていると感じた。
 わたしは座って聖書の言葉を聞いているうちに、二千年も前に書かれたこの聖書が現代のことまではっきり言っていることを考え、これは軽々しく捨て去ることのできる書物ではない、もし真理を知りたいと思えばこの書を重んじなければならないと深く感じた。(彼はこの時まで聖書を持つことさえ堅く拒んでいた。)わたしは降神術の書を読むことをためらわなかった。それなら神の言葉だという聖書を読むことで、何でためらう必要があろうか。わたしはこの気持ちをありのままU氏に告げて、しかし聖書が神の書であるとは思えない、やはり人の手によってできたものであると考えると付け加えた。
 彼のそれに対する返答はまた極めて簡単でまた有益なものであった。彼はヘブル人への手紙四章十二節『神の言葉は‥‥‥もろ刃のつるぎよりも鋭くて』との言葉を読んで次のような例題を語った。
 わたしがここに抜き身の剣を提げてきて、これは非常に鋭いものであるからためしてみるようにと言ったとする。しかしあなたは、いやそれは杖に過ぎないと言う。そしてどんなに説明しても、なかなかその考えを変えないと仮定するとしよう。そこでわたしはあなたに、それではこれを握ってみるようにと言う。あなたはそれを握って傷を受けたらその考えを変えるであろうと。その適用は難しくない。わたしはそのときから聖書を読み始めた。そしてそれが確かに剣であって、わたし自身深く傷つけられ、わたしの魂は夜昼安息できないまでになった。」

 この点について一つの警告を付け加えることは的外れとはならないであろう。伝道地において出会う最大の敵の一つは高等批評と称するものである。その害毒はただ牧師たちの間に見られるだけでなく、一般信者にも及んでいる。わたしは若い伝道者たちに熱誠をもって懇請する。もしあなたが救霊者となることを願うなら、これに触れてはいけない。このことについては多くの実例を持ち出すことができる。しかし今はその代表的な実例として、金森氏の自ら語るところを聞くことにしよう。

 「忘れもしない一八七六年一月三十日、美しい安息日の朝、有名な熊本バンドは生まれた。その朝花岡山に登ったのはちょうど四十名であった。『北の果てなる氷の山』(英文)の讃美歌を歌い、聖書を読んだ後、当時十八歳のわたしは献身の祈りをささげ、それによって一同、神への奉仕に身を献げた。我らの最後の歌は『われ十字架を取りすべてを捨ててイエスに従う』というのであった。それはわれらにとっては文字通りの告白であった。その時まで一同かなり野心を抱いていた。わたし自身も島国なる日本の将来の必要を思い大造船家となることを期していた。他の者もその家柄の手づるによって高位高官になろうと志していた。ゆえに我らは事実上いっさいを捨てたのである。
 このことを聞き知った家族からはさっそく激しい迫害が起こってきた。ひとりの青年のごときは百日間家に閉じ込められ、その他の者もそれぞれさまざまな方法で迫害された。わたし自身も多くの迫害の末に家督の権を奪われ、着の身着のまま、ただ二冊の本を手にして家を追い出されてしまった。二冊の書とは聖書と天路歴程であった。そのころ笑いながら、いっさいを失ってもなお悪魔と戦うために大小の剣を携えていると言ったものである。
 しかし神は我らの知らない間に避け所を備えて下さった。有名な新島氏はアメリカより帰られ、京都で学校を開かれたばかりのところで、その学校に入学することができた。十三名の者は神学部に入った。三年の後、学校を出て岡山で教会を開き、そこで七年間牧師をした。その間に恩師新島博士が病気となられたので、わたしはその補助者として呼び帰され、恩師をいたわりつつ校長代理を務めた。
 その後わたしの流浪の生涯は始まったのである。その当時、新神学と高等批評というものに接触するようになった。その書の中には翻訳を通して多くの人々を毒したようなものもある。日本の高等批評についてはわたしに大きな責任がある。初めのほどはかなり手ひどい反対もあった。中には握手もしないと言った友人もいた。しかしわたしは何も構わず、むしろ誇りをもって進み、ついに信仰は全く覆されてしまったのである。徹底的な批評はわたしから聖書を奪い去り、わたしの救い主に対しても新しい見方をするようになった。もはや心には信仰なく、くちびるには使命の言葉がなくなってしまった。ほどなく新島師は亡くなり、わたしもまた学校を去り世俗のわざに携わることとなった。
 時は政界改革の時であり、国家多事の際であったので、その中に飛び込み社会改革者のひとりになった。以来十五年間、わたしは政界の嘱託として一般民衆に勤倹貯蓄の道を教えて歩いた。このためにわたしは日本国中を幾度となく旅行し、毎日幾千の人々に語った。会衆はどんな大きな建物でもなお入りきれぬほどであった。群衆は非常な興味をもってわたしの言葉を聞いた。この世の側から言えば、それは大いなる成功であった。大きな収入、その地位、その名声、その人気は大したもので、強いて贈り物を押しつけられるほどであった。しかし精神的に言えば、わたしにとって最暗黒の時代であった。心に平安なく、何をしても少しの満足もなかった。この成功の絶頂において神の御手はわたしの上に加えられ、突然愛する妻を奪われた。わたしはどこに慰めを求めてよいか当惑した。そのうちにたちまちのようにわたしの家庭に光が照り出した。それは、子どもたちが単純に『ママは神さまのところに行った』と信じて語り合っている言葉であった。その子供らしい、しかも確かな子どもたちの信仰の言葉を用いて、神はもう一度真理に引き返して下さったのである。帰ってみれば、それは救い主と神の言葉とに対する最初の信仰にほかならなかった。聖書はもはや疑うことができない。キリストは神に満てる人と言わず、トマスとともに『わが主よ、わが神よ』と言うようになった。こうしてもう一度、人の心を満足させる神の子の栄光ある福音に使命をもつようになった‥‥‥。」

 四 人心の研究

 『神はまた人の心に世界を置かれた。』(伝道の書三・十一=欽定訳)

 かつてマレーシャ(ブース大将の長女)がひとりの大学教授とともに大きなパリの図書館の中を歩いていた時に言った。こんなにたくさんの書を学ばなければならない学生が気の毒だ。私はただ二冊さえ学べばよいのに、と。教授がそれがどんな書であるかと尋ねた時に、彼女は「聖書と人の心です。だから私は決してさびしくありません」と答えたという。このようにわたしたちもまた聖書と共に人の心を深く学ぶのでなければ成功者となることはできない。若い伝道者にたいしてこの真理をどれほど強調してもなお足りないことを覚えるのである。
 私は信者や回心者に、注意深くその経験を聞くことを心がけている。何が最初に彼らに感動を与えたのか、初めてキリストに信じ頼った時の経験はどうであったか、神が最初に語ってくださったのは何であったのか、なおまたできる限り彼らの以前の偏見、迷信、無知、罪悪についても明らかにしようと努めている。
 チャールズ・フィニーによって語られた以下の言葉はこの場合聞く価値があると思う。

 「どのように罪人を扱ってその回心を確かにするかを、不断の研究、日々の熟慮と祈りの題目とせよ。魂を救うことは地上においてキリスト者のなすべき大事業である。人はしばしば、どのようにして魂を導いたらよいか分からないと言うが、その理由は極めて明白である。すなわちそれについて研究しないからである。彼らはこの奉仕にかなう者となるために骨折らない。この世の仕事においても、自らその資格をつくるために努力しないならば、どうして成功者となることができようか。このように人生最大の仕事を怠って、何のために生きているのか。どうしたらキリストの御国の建設のためによい働きができるか、励み努めないなら、あなたは益のない悪いしもべである。どの点で神の霊は罪人に迫られるかを注意深く見いだすことを努めなければならない。もしあなたがその点から心を移すなら、罪人の覚醒を破壊する大きな危険に貧するであろう。何を考えているか、どう感じているか、何について最も深く感動しているか、人の心の状態を学ぶために骨折り、その大切な点を徹底的に打ち込んでいかなければならない。他のことに注意を散らしてはならない。」

 このように問いただすやり方は回心者のためにも有益である。これは彼らの思いを集中させ、何が今まで彼らの光を曇らせて光を見えなくさせていたかを悟り、また悔改の奇蹟を了解するためにも助けを与え、彼らの心の罪深い様子と共に、神の恵みと慈しみをも知らせることのできるものであり、進んでその霊的生涯とその経験において陥りやすい点をも啓示するものである。
 それだけでなく、既に述べたように、これはわたしたちの働きに欠くことのできない条件である。このような探求の結果、どのようにして人の心に届くことができるかを知ることができる。わたしたちは片手には聖書を持ち、片手には人の心の地図を広げる。こうしてこの真理をどのように人の救いのために用いたらよいかを知るようになる。またそれによってわたしの語ったどの説教が人の心に届いたか、またどの例話と聖句とが最も有効であったかを知ることができるのである。
 しかしそれだけではない。そこには大きな必要がある。このような観察と質問の結果得たものは、他の人の良心に届くための最も貴重な材料となるのである。どのような言葉でやっても効果のないとき、個人的なあかしを告げることによってこれを覚醒することができる。これこそ聖書のやり方である。聖書には個人的なあかしが詳細に載せられていて、聖書の大きな部分を占めている。わたしはかつてグラスゴーに行って、宣教運動についての集会を持ったことがある。わたしはその話の中で、一人の憐れな酔っぱらいの悔改の物語をした。その話をかなり詳細に述べて、罪人はありのまま、正直にへりくだって、直ちに救い主に来なければならないことを強調した。このような酒飲みの回心の話にどれだけの効果があるかは疑問であったが、とにかく落ちぶれた魂の何かの役に立つかと思い、この実話をかなり詳しく書き留めておいたのである。六週間ばかりのち、ウィスキーの奴隷となっている憐れな行商人から手紙を受け取った。彼はあの集会の時、なかば酔ったままで出席していたのである。しかし、わたしの前述の物語に至ったころには、少しは酔いも覚めかけていた。彼は考えた。もし神がそんな外国の酔いどれを簡単に救うことができるなら自分だって救われるに違いないと。彼はその場所で心を神に向け、砕けた告白と信仰の祈りをもって叫んだ。神の御手は短くはない。その場で彼の桎梏は砕かれて救われた。彼の手紙は今もわたしの前に置かれているのであるが、あまりに長くて全部を書くことはできない。ただ感謝献金が同封してあり、次に出会う酒飲みの救いのために用いてくれるようにと書き添えてあった。
 わたしはその後も彼と交わってきたが、神はただちに他の酒飲みを救うために用い始められた。数週間も経たないうちに、彼は十二名の禁酒誓約者を起し、そのうち二人を救い主に導くことができた。彼の悔改から一年ばかりのち、英国を去ろうとする間際、バーケンヘッドで集会をしていた時、その行商人が微笑みながら、ハレルヤと言って自ら名のって出て来た。彼はその後も、自分のあかしによって他の人々を十字架に導いたと語っていた。遠く日本で起こった小さな話が、それほどの考えもなく蒔かれたことによって、聖霊の風で海を越えて運ばれ、スコットランドの憐れな酔いどれの心の畑に蒔かれて、そこで豊かな収穫を生ずるようになったのである。これは神が魂の救いのために用いられる、単純であるが不思議な方法の一つである。栄光を主に帰するように。再びわたしは繰り返したい。人の心を研究せよ。そしてその研究を活用せよ。観察せよ、そしてその観察を利用せよ、と。
 わたしたちは即座の救いの可能性を信じているだろうか。わたしたちは無知な魂をキリストに導くために必要な真理の中心を握っているだろうか。わたしたちは心が光と火に満たされるまで聖書を深く学んだであろうか。わたしたちの目と耳は、人の心の呻きと叫びと祈りと、また救い主を見いだしたその勝利の叫びとに対して開かれているだろうか。もしそうでないなら、おそらく成功ある救霊者となることはできないであろう。どうか聖霊がわたしたちの心を励ましてわたしたちの仕事の重大さを悟らしめ、そして魂の救いは神の奇蹟であってそのほかのものではないこと、悔い改めた者の意志の努力の結果でもないこと、また有名な宣教師たちの言うように、自らの人格を他の人格に印象づけることでもないことを知らせてくださるように。

http://web.mac.com/biogeochemistry/sacellum/service/chapter_0.html



THE DYNAMICS OF SERVICE④~ALPHAEUS NELSON PAGET


救霊の動力~A・パジェット・ウィルクス


第四章 人間の診察──その意志


 
 暗黒の中から救われた人々の生涯のあかしを聞く時、それが罪と失敗と絶望の長い目録であることがわかる。そしてその最初の部分は、ほとんどとりこにされた悩める意志の記録である。しばしば罪については特別な自覚を持っていない場合でも、狂った欲望の残酷な結果として来る悲惨や、憎しみと情欲と邪悪とを播いた結果として得た刈り入れとに悩まされて、『だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか』と悲鳴を上げるようになるのである。彼らは敗北した魂のもがき苦しむ経験をしているのである。
 これには想像も及ばない過酷さをもって自らを打ち叩く仏僧がいる。あるいはまた、断食と苦行をもって寺院を参詣して歩く者もいる。そこには仏典と儒書をむさぼるように学ぶ人がいれば、またその悲惨からのがれようとして自殺を企てる者もいる。中には自殺だけが欲情の鎖から解き放つものと信じている者がいる。
 この章においては、とりこにされた意志について学びたい。更に詳細に言えば、その四重の束縛、すなわち偏見と欲情と高慢と恐れについて学ぶのである。
 その前に、そこには第一原因があることを力説しておきたい。これらの束縛の背後には大いなる悪の原因であるサタンがいる。聖書は明らかに、人々がその意志においてサタンに捕らわれていることを示している。どんな方法によってとりことして束縛するにせよ、サタンこそわたしたちの桎梏の創造者である。このことを悟るとき、わたしたちは祈りと願いとに自らを託すようになる。すなわち神のみがこの力に対抗でき、勝つことができることを悟るからである。
 数年前、ひとりの仏僧がわたしたちの集会に来たことがある。彼は数回の話を聞いて救いを求めるようになり、ついに救われた。その変化には著しいものがあった。(彼はいま救世軍士官である)。彼はその老母を連れて集会に来るようになった。わたしはその老母ほど暗黒の偏見と迷信に捕らわれた魂に今まで会ったことがない。数ヶ月間福音を聞いたあとでも、極めて単純な教えの一つでも握ることができない。彼女に対しては誰も匙を投げるほかはなかった。全くサタンのとりこにされていたのである。ちょうどその時、英国からひとりの熱心な神のしもべがわたしたちのところに遣わされて来ていた。彼女はこのことを聞いて、本国へ祈りを乞う手紙を書き送ったのである。このように祈り始めてから一ヶ月も経たないうちに、この老母は不思議にも驚くべき方法によって解き放たれたのである。ちょうど閃光のように彼女の暗黒の心の理解は照らされ、幼子のようになってゆるしと救いとを求めた。かくて迷信の牢獄から解き放たれ、強敵はその餌食を手放したのである。六か月ののち、彼女はガンのために死に、今は主のみもとにあって、祈りをもって彼女を悪い者から解き放った人々を待っているのである。
 わたしたちは、人の意志をとりこにするサタンの力を悟ってのみ、祈りをもって人々を救うという断乎とした信仰を持たなければならない。しかし、今は人をとりこにする第二原因について詳しく学ぶことにしよう。

 一 偏見の束縛

 『もし‥‥‥知ってさえいたら‥‥‥しかし、それは今おまえの目に隠されている』(ルカ福音書十九・四十二)
 『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』(ヨハネ福音書十五・二十五)

 偏見は無知以上のものである。もし無知が刑務所の壁にたとえられるならば、偏見は鉄筋コンクリートのようである。ひとりひとりの魂がもしこの偏見から解放されるなら容易に救われるのである。しかし彼らは堅くこの鉄の鎖に縛られている。多くの悔い改めた者のあかしを聞いて驚くことは、ほとんど何も知らないのに、ただ盲目的なわけもわからぬ偏見によってキリスト教を嫌っていたということである。その偏見は出口も入口もない刑務所の壁のようなものであった。牢に監禁されたペテロでも「その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ」、無知な偏見にとりこにされた魂ほど近づきにくいものはなかったのである。
 わたしたちがこの仕事に成功しようとするならまず魂の実状を診察することを学ばなければならないということは、何度繰り返してもなお足りないことを感ずるのである。もしそうでなければわたしたちは霊的な藪医者となってしまうことは確かである。さまざまなことをやってみても、それはちょうどドン・キホーテのように神学的風車に向かって槍の仕合を挑むようなものである。
 この無知と偏見とをどう取り扱うかについて更に一章を加える余裕がないので、ここに一、二の観測を述べることにする。わたしは彼らが偏見を棄てて神に帰る前に、さらに深い悩みに沈み込む必要をしばしば認めた。数年前、今は天国にいるひとりの青年が伝道館にやって来て、初めて救いの福音を聞いた。
 それは、彼には何の興味もなく、また何の感動も与えなかった。数か月後、彼は大きな悩みと難問題にぶつかった。彼は一度聞いた話を思い起して宗教的慰めを求めることを決意した。しかし何ということもなくただキリスト教が嫌いで、その偏見のために仏教に行った。しかしそれが頼りにならない傷ついた葦であることを知り、再び絶望に沈み、ついにせっぱ詰まって自殺を企てた。ここまで行き詰まったとき、彼は初めてその偏見を投げ棄てて、一度は侮り憎んだナザレ人に助けを求めに来て、ついに救いを受けたのである。一般的に言って、偏見の桎梏から解き放つものは、訓練や教育ではないことを記憶する必要がある。クリスチャン・ジャーナルの記者エリスは言った。「驚くべき現代の技術も機械も、人々に新しい心を与えるためには全く無能である。近代的洋式教育を受けた日本の貴族たちが、シルクハットをかぶりフロックコートを着て外国製の靴をはいて神社にひざまずいているのを見た‥‥‥」と。迷信と偏見とは容易には死なない。ただ神の御霊により新生命が入って来る時にのみ、致命傷を与えることができるのである。
 憐れな無知な偏見に捕らわれていたサマリアの女に、主イエスはいのちの賜物を提供された。安息と満足のないパリサイ人のニコデモは、更に知ることができれば自由を得られると考えて救い主のみもとに来た。彼は、『先生、わたしは‥‥‥知っています』と言ったが、主はその言葉をさえぎって、『だれでも新しく生まれなければ』と言われた。解き放たれる道は「知る」ことではなく、「ある」ことであり、「知恵」ではなくて「いのち」であり、「真理」ではなくて「力」があなたには必要だと言われたのである。
 わたしは長い間の経験によって、偏見の牢獄の扉を開く最も有効な手段は「きよい心から出る愛」であることを認めて来た。謙遜なキリスト者の心から流れ出る聖霊による愛の喜びの流れは、長い間監禁されていた偏見の牢獄の壁の下を掘り穿つのに十分な力があることが証明された。
 メソジスト教会のテーラー監督は、インドにおいて、彼が新約聖書を読むように勧めたひとりの金持ちのペルシャ人のことについてたびたび語った。そのペルシャ人は深く感動して言った。もしこの書の説くように生活を営むキリスト者を見いだすなら、自分はこれに帰依する、と。彼はまず白人の間にこのようなキリスト者を捜したが、ひとりもいなかったと告げた。そこで彼は更にインド人の間にこのような信者がいないか捜した。しばらく経って、彼は感激に溢れて、この書にふさわしい生活を営む男女を見いだしたことを告げた。そして彼自身キリスト者になり、そのため財産も御名のために失ってしまった。そしてボンベイにおいて虐殺される時、「イエスのために死ぬことは嬉しいことだ」という最後の言葉を遺して死んだ。
 数年前、ひとりの悔い改めた人の貧しい家を訪問したことがある。その家では老母が危篤状態になっていた。そこでミッションの病院に交渉したところ、夜具と着るものさえ用意できれば入院させてもよいと言うので、いろいろ準備し始めた。ところが、それを隣家の、無知で迷信に捕らわれ、大酒飲みでばくち打ちの車夫が煙管を加えながら見ていた。わたしたちはその車夫を雇って老母と寝具とを病院に送り届けた。その男は、日本の伝道者たちが何の縁もないのに、また何の利益にもならないのに一生懸命に尽くすのを見て驚いた。嫌っていたキリスト教に対する偏見は打ち破られた。そして彼自らこの愛の神に対して悔い改めるまで安んずることができなくなった。彼はその後、熱心な伝道者となって、罪人の救いのためによい働きをした。
 おそらくユダヤ人ほど偏見に捕らわれた民族はあるまい。しかしキリストの子とされたひとりによって現された愛に対する感受性もまた顕著である。わたしが以前働いていた町で、ひとりの若いユダヤ人が悔い改めたが、彼のキリスト教に対する偏見と憎悪は並大抵のものではなかった。彼は霊的な話や聖書にかかわることを拒んでいた。彼の著しい悔改は、彼が会ったキリスト者を通して与えられたキリストの幻によったのであった。彼はその経験を次のように記している。
 「旅行を始めてしばらくあと、わたしの注意は数名の宣教師たちに引きつけられた。彼らの様子を見、彼らと語り合って感じたことは、彼らがまだわたしの知らないものを持っているということであった。それが何だと言うことはできないが、接してみて何とも言えない良い気持ちのするものがある。彼らはその品性において堅実であり、その言語動作が落ち着いて平静である。もちろんわたしは聖書も読まず、またきリストについても知らなかったので、彼らとキリストを結び付けて考えることはできなかったが、何となく慕わしいものがあった。そこでとうとうそのうちのひとりの婦人に、平和な生活の秘密はどこにあるかと尋ねないわけにはいかなかった。すると彼女は次のように答えた。
 『それは、わたしたちが心配事や悩みに閉ざされてしまう場合にも、打ち明けて慰めをいただくことのできる友があるためですよ。彼はわたしたちの痛む心に喜びを与えて下さるのです。同時にまた、わたしたちの心が喜びに満たされたときは、その幸福を共にすることができるのです』と。
 この答えが、どのようにわたしの魂に響いたか、わたしはよく覚えている。それならそのような友を持てば、どんな問題に出会っても落ち着いていることができると見える。どうにかしてそんな助けの友を知りたいという願いが心にいっぱいになって来た‥‥‥。」
 ある人が言ったように、どんな不信の者でも読む聖書は、からだを持つ生きた人である。この生きた聖書を熟読することによってのみ、偏見の鎖は粉砕され、とりこはそこから解き放たれるのである。

 二 肉欲の奴隷

 『あなたがたは自分でしようと思うことを、することができない』(ガラテア五・十七)
 『だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』(ヨハネ福音書十四・六)

 もし偏見と無知が魂の牢獄であるなら、悪い肉欲はその鎖である。至るところに悪慾の桎梏に繋がれている人々を見る。やがてその束縛からのがれようと欲するときは、すでに完全な奴隷となりきっていることに気付くのである。このような人々を取り扱う場合は、ほかの更に望みのない場合の者とを区別する必要がある。肉欲の奴隷となっている者は、これをそのままにしてキリストに連れて来ることさえできるなら、他の場合より、比較的たやすく解き放つことができるのである。一つの著しい実例がこれを証明する。
 英国のある軍隊の駐屯地の兵士のために設けられた宿舎で集会をしていた時であった。ある日曜の夜、ひとりの指導者のあかしを聞いた。そのあかしが最もよくこの真理を証明しているのである。
 そのあかしというのはこうである。彼は酒飲みの両親の間に生まれ、自らも二十二歳までは大酒飲みでしばしば留置され、読むことも書くこともできず、都会の荒波に漂う寄る辺のない浮き草に過ぎなかった。しかし憐れな妻の懇ろな助けによってようやく誘惑の潮流をのがれ出て、路傍説教を聞いたのである。説教者のひとりが彼の後ろに来て親切に肩をたたいて救い主を求めるように勧めた。しかし、半ば絶望していた彼は憤って、「いつも酔っぱらっている俺に信仰なんかできるか。ウィスキーは俺ののどに流れ込み続いているんだ。悪いとは知っててもやめることなんかできないよ。こんな俺がクリスチャンになれるもんか」とはね返した。説教者はローマ人への手紙五章六節を引いて、この文盲の憐れな奴隷に『わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである』というところを読んで聞かせ、弱いことと不信心との関係を指摘して言った。「あなたが弱く、酒の奴隷となっているのは、あなたが神のない生活を送っているからだ。あなたが神に立ち帰るなら、神は悪習慣をやめさせて下さる。あなたが罪から離れてキリストに来るのではない。そのままでお頼りするのだ。キリストはちょうどあなたのような人のために死んで下さったのだ」と。憐れな彼は驚いてしまって、福音をそのまま受け入れることができず、急いで家に帰り、夜更けまで神に叫び、やっと覚えたローマ人への手紙五章六節を訴えて、ありのままの姿で祈った。このことばは彼にとっては勝利の切符のようであり、天国への約束のようであった。彼の鎖は落ちた。彼はその時から自由になり、以来多くの酔っぱらいをキリストに導くために用いられたのである。
 束縛されている魂を導く場合は、彼の中に解放されたいという願いがあるかどうかを正しく判断し、そしてその悪欲をそのままキリストによって神のもとに携えて来さえするなら、その意志はたちまち解き放たれて、『狩人のわなと、恐ろしい疫病』(詩篇九十一・三)より救い出されることを心得ていなければならない。いかにしばしば天国のことを教えられていない学者先生が、欲と罪の奴隷となっている魂に対して、まずキリストに来る前にその罪を捨て去るように勧めることが多いことだろうか。彼らはヨブの友人のように、無情な慰め人である。

 三 高慢の奴隷

 『心を入れかえて幼子のようにならなければ、天国に入ることはできないであろう』(マタイ十八・三)

 偏見や肉欲の束縛よりも更に絶望的なのは、高慢の奴隷である。ここにも救霊者として心に留めなければならない大切なことがある。それによってのみ、彼らの桎梏を砕くことができる。決心することや、意志を働かすことによって助けは来ない。それはただより深く束縛の中に追い込むだけである。『だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』と主は言われた。ただキリストだけが救うことができるのである。わたしたちのなすべきことは、ただ人々をキリストのみもとに連れて来ることである。
 忍耐深い診察ののちに、導こうとする魂の束縛が、肉欲や偏見でなく心の高慢であることを発見し、また彼が救いの必要を自覚していることを見いだしたら、わたしたちのなすべき唯一の仕事は、彼が幼子のようにへりくだってその心の高慢を救い主に携えてくるように主張することである。こうすることによって、わたしたちは強い者の武装にもなお弱点があることを見いだすであろう。わたしたちが攻撃を集中しなければならない所は、その点である。
 熱心な祈りとこの一点を常に強調することは成功に必ずつながる。ここに一人の実例がある。彼は強い高慢な皮肉屋で、自己満足している人であった。しかし彼にも一つの弱点があった。彼は時々酒のとりことなった。彼は勝利を得ようと決心した。彼は、ミッションスクールで学んだこと、また彼の妻の友人に熱心な信者が多くいたことから、キリスト教についてはよく知っていた。しかし彼の意志は高慢のために束縛されていた。どうしても彼は救いを要する罪人として、キリストによって神に来ることができない。彼の解放の物語をわたしの日記の中から抜粋することにしよう。
 「この夜、最も喜ばしいことは、高慢なパリサイ人であって、今はキリスト・イエスにあって全く改造された謙遜な主のしもべに会ったことであった。
 彼は優れた機械技術者であって、一ヶ年ほど英国に滞在していたのであるが、そこではキリスト教について何の印象も受けず、また少しの求道心も起さずに帰ってきた。彼の回心は実に目覚ましく、全く聖霊のお働きによるものである。祈りに答えられる神が今もなお天にいますことを信ずる人々の励ましのために、ここにあかししておくことにする。
 彼の英国滞在中、彼の妻は神戸伝道館でキリストの救いを受けた。彼女もまたわたしたちも彼の救いのために祈っていたのである。その後、東京に引っ越すことになった。彼は誰にも打ち明けなかったのであるが、はなはだしく悩みを覚え、瞑想によって救い出されることを努めた。一日彼が無念無想の境地に入っていると。『信ぜよ、信ぜよ、信ぜよ』という声が聞こえる。驚かされた彼は、『何を信ずるのです』と叫んだ。声は答えて『主イエス・キリストを信ぜよ』と言った。深く動かされた彼は、『信じます、信じると決心します』と言った。彼はその決心を誰にも告げなかった。しかしある日、彼の放蕩な甥が来て、生涯を改めることについて相談を持ちかけた。彼はイエス・キリストを信ずるように願った。甥は驚いて『なんですと、あなたからそんな勧めを聞くとは案外です。あなたは自分では信じていないくせに人に信仰を勧めるのですか』と言った。彼はすぐに答えて『いや、わたしは信じているのだ』と言った。甥はなおも疑問が解けず、『あなたは一度も人の前に信仰のことを言ったこともないのにそれでキリスト者と言えますか』と言う。もっともなことなので、『それでは近くの教会に一緒に行こう』ということになり、さっそく二人で出かけた。そして集会のすきを見計らって、少しも知らない人々の前に立ち上がって、何の申し訳もしないで、イエス・キリストを信ずることを告白した。その瞬間、彼の心は言うことのできない、そして栄えある喜びによって満たされた。聖霊は、彼の霊と共に彼が神の子であることを証して下さったのである。彼はいたるところで救い主をあかししている。」
 彼はこのように高慢な心を携えて、ありのままの状態でキリストに来ることに応じた時、驚くほどあざやかに解き放たれたのである。

 四 恐怖の奴隷

 『自分の十字架を負うてわたしについて来る者でなければ、わたしの弟子となることはできない』(ルカ十四・二十七)

 ここにも主イエスの厳粛な「‥‥‥することはできない」の一つがある。わたしはしばしば、人が偏見と高慢とより救い出されても、「恐怖」というもう一つの鎖のために縛られているためになお罪の力からのがれられないでいるのを見る。悪魔はもうこれ以外にそのとりこを繋いでおく方法を持たないのである。恐怖は苦しみを持つ。天国には恐怖というようなものはない。これはただ地獄の鉄床においてのみ鍛えられるものである。
 わたしは、人々が偶像に対する何の信仰も持たなくなったときにおいてさえ、これが人々の心を捕らえる不思議な力を見て驚かされるのである。
 恐怖は二つの異なった形において現れる。
 (一)迷信。或いは信仰を変えることからの悪い結果を怖れること。(二)人を恐れること。この二つの間には区別がある。
 第一のものは驚くほど深い位置を占めていて、キリスト者の心の中にさえ、なお痕跡をとどめているものである。事業の失敗、病気、生別、死別等は、異教徒によって祖先からの神を捨てた祟りであると考えられている。たびたび教えと導きにおいて誤った場合には、キリスト者の中にすら、心の中にそのような疑惑を持つ者がある。異教徒の心の中にはこれが実に金城鉄壁のようにかまえている。意志の力をもってこの不思議な迷信を破壊してしまうことはほとんど不可能である。このような困難に遭遇するとき、ただ祈りと神の言葉によってのみ、そのみじめな桎梏を砕くことができることを発見する。わたしたちは、これが地獄において鍛え上げられたもので、人の心をとりこにする最も力強い悪魔の武器であることを覚えておく必要がある。
 先頃信仰に入ったばかりのひとりのキリスト者が自分のいっさいの事業で失敗をした。神がすべてを破壊されてしまうかに見えた。わたしは彼の妻に、その失敗の理由は明白で、『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう』(マタイ六・三十三)とのみことばに従わないためだと説明した。彼女は答えた。それは「ほんとうだと思います。わたしもそう話したのですが、主人はやはり親戚の人の言うように、先祖の神を捨てた祟りだと考えているようなのです」と。「異教徒は物質を先に求めて成功するかも知れない。しかし神は、キリスト者に神を辱めることを許されない。神は彼らが『まず神の国』という幸いな原則を学ぶようになるまで、すべての企てをいつもさえぎってしまわれるのだ』ということを語った。しかし彼は容易に承服しなかった。
 第二の恐怖も、同様に麻痺的である。これはキリスト教国においてもありがちな、人を恐れることである。『人を恐れると、わなに陥る』(箴言二十九・二十五)。これは中国やアフリカや日本においてのようにロンドンでも同様である。これは魂の最も恐るべき敵の一つである。多くの魂が、恐れるものであるために今も地獄に行っている。彼らは『臆病な者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者』で、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである(黙示録二十一・八)。
 この点の診察を誤ってはならない。十中の九までは求道者はこの事実を隠している。これが彼らの承認する最後の点である。わたしたちはしばしば回心した魂の進歩の遅々としていることを驚くのであるが、多くは人を恐れて、人々の前でキリストを告白しないためであることを見いだすのである。西洋でも東洋でも『口で告白して救われる』との根本条件を主張する絶対の必要を痛感する。しかし異教徒は道徳的にはさらに臆病のようである。彼らは面目を失うことを嫌う。人を恐れることは彼らを束縛する大きな力である。個人主義は彼らには新しいことで、家族や両親を離れてその宗教を変えるというようなことは、社会とその民族的習慣に対して重大な躓きとなっているのである。わたしたちがもしこの点に着目しないならば、ただむやみに脇道にそれて、ありもしない影を取り扱うこととなり、なぜ魂の進歩が鈍いのか訝りながら空しく過ごすことになるであろう。
 結論として一言注意しておきたい。それは、人々の意志を取り扱う場合に、決して議論をしないように警戒することである。あの偉大な救霊者チャールズ・フィニーは、困難は人々の頭ではなく意志にあると主張し続けてきた。わたしたちは種々雑多な状態の人々に出会うであろう。全く世的で、霊的なことに無関心な者(ルカ十二・十七~二十一)、自分を正しいとする者(ルカ十八・十八~三十)、自分を正しいとする求道者(ヨハネ三章)、悪く不敬虔な者(ルカ十九・一~十)、詭弁を弄する者(マタイ二十二・二十三~三十三)、政治的宗教家(マタイ二十二・十五~二十二)、自己欺瞞の熱心家(ルカ九・五十七~六十二)、渇いているが覚醒していない罪人(ヨハネ四章)、覚醒した罪人(ヨハネ八・一~十)、臨終の回心者(ルカ二十三・三十九~四十三)など、数えることができないほどである。
 もちろん、これらの者に対しては、それぞれ異なった取り扱いを要する。しかしそれが誰であり、また何であるにしても、その問題は主として服従しない意志にかかわっていることを心に留めなければならない。それゆえ、議論と争論とは常に効果がなく、かつ不幸な結果を生む。真の疑いはいつも耐えることのできない苦痛を伴う。このような真剣な懐疑者(極めて稀であるが)に対しては、注意深く懇切にその疑いを解いてやらなければならない。しかし多くの場合は、疑いとはただ罪の申し訳に過ぎず、少なくとも救い主に委ねたくないところから来ている。
 数日前、二人の青年が神のことについて教えを受けようとしてやって来た。彼らは難しい問題を提出してそれで困っているということだった。もしこうした問題が満足に解決されるなら、信ずるというのである。わたしは彼らがキリスト教についてすでに知っていることを見いだした。また彼らの質問は、虚飾された詭弁に過ぎないことを発見した。わたしは彼らに告げた。もう聖書を知っているのだから、必要なのは人の教えでなく上よりの光であり、そのためには神の前にへりくだり、罪を告白して上よりの助けを祈り求めることである、と。これは彼らの舌にはあまりに苦すぎるように思われた。
 もう一度繰り返したい、いっさいの論争を警戒することを。インドにおいて著名な宣教師が、導こうとしていた人々から公開の論議をする一つの集会を開くように要求された。彼はそれを承諾し、その議論に勝った。しかしそれ以来、魂が来なくなった。言葉の争いで勝っても、魂を失うなら何の益があるだろう。
 わたしたちの唯一の目的として、ただ人々をキリストのもとに携えて来ることをしなければならない。もし彼らがありのままの姿でキリストによって神に立ち帰りさえするならば、どんなに迷ったかたくなな偏見に捕らわれた意志であっても、たちまち新たにされ全くされることを、回心者の心に繰り返し繰り返し刻みつけるように努めなければならない。キリストだけが唯一の癒し主である。確かに、キリストお一人だけである。
 さらに深く、さらに肝要な、人々の良心と愛情とを取り扱う仕事については、別章に述べることにし、本章では混乱している願望、くらまされた理解力に続いて捕らわれた意志について述べた。
 わたしたちの前に置かれたこの仕事は実にすばらしいものである。ジョン・バニヤンの不朽の作である『聖戦』は、この仕事がどんなに荘厳で、また困難であるかを教えている。わたしたちはこの譬えに示されるように、人々の願望も理解力も意志も全く敵の手に縛られ、全能の王とその王の子インマヌエル将軍に対して反逆していることを深く悟るのでなければ、十字架の使者となることはできない。
 人道をまつりあげてわたしたちの贖い主の栄光を地に堕とすような近代神学者の気の抜けた議論やドイツ神学者の物語は、ひとりの酒飲みでもその酒癖から、街の女をその醜業から、自殺者をその絶望から、皮肉屋をその高慢から、さらに異教徒をその堕落と迷信の暗黒から救い出すことは断じてできないのである。

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THE DYNAMICS OF SERVICE③~ALPHAEUS NELSON PAGET


救霊の動力~A・パジェット・ウィルクス


第三章 人間の診察──その理解力


 
 『その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり』(ローマ一・二十一、二十二)
 『主は人の悪が地にはびこり、すべてその思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのを見られた』(創世記六・五)

 魂の願いが、今までの沈み込んでいた沼の中から幾分救い出され、その渇望を満たすものがかすかに見え始めたとしても、それは仕事の手始めである。その魂が救い主に対して信仰を働かすようになる前に、その理解力が啓発されなければならない。
 前章では人の願望の堕落について全般に渡っての考究が不可能なので、ただその神に向かう態度についてだけ学んできたが、本章においても、人の心を蔽う暗黒のすべてを記す余地がない。今はただ、生まれつきの心が全く無知である宗教上の四つの大きな事柄について述べたいと思う。すなわち、神の存在、神の賜物、神の前における状態、神に立ち帰る道についてである。わたしたちはこれらの根本原理に関して全く無知である事実を十分に認めなければならない。そして常に研究と祈りと質問と、そのほか可能な限りの方法をもって、どうしたら人の理解力を啓発できるかを知ろうと努めなければならない。ではこの四つの問題に注意力を集中して考えることにしよう。

 一 神を認めない

 『この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった』(第一コリント一・二十一)

 キリスト教国と呼ばれる国においては、だれでも神の存在を知的には認めている。したがって、一度覚醒すればすぐに神に向かうようになる。良心はすでに働く材料をもっているのである。良心はすぐに人々の心と意志とを動かす梃子として用いることができる。しかし異教の諸国においては全く異なる。魂がその危険と必要とに目ざめたときにおいても、そこは全く暗黒であって何の光もない。かつて暗黒の中にあり今は敬虔な伝道者となっているひとりの人の証言は、この事実を例証するものとして非常に興味深い。彼は言う。
 「わたしは十歳の時、初めて死ということについて考え始めた。忘れもしないが、ある夜、床の上に起きあがって死について考え出した。わたしは自分が死骸になって棺に入れられている状態を想像した。そうして葬られたのである。そこは実に暗い。わたしの心は耐えられないほど苦しいが叫ぶこともできない。こんな疑問を解いてくれるのは人間ではなく神のほかにあるまいと思って、さまざまな神について考え始めた。一つひとつ数えてみれば数限りないほどたくさんある。その中の一番偉い神でなければならないと考えた。わたしにはそれが誰であるかわからない。またどうすればよいかもわからない。ただむやみに熱心に『おお神よ、助けたまえ』と叫んでみたが何の手応えもない。ついに疲れて寝てしまった。翌日学校に行って先生に尋ねてみた。先生は、神というのは昔の英雄で今は死んだ人の魂だと教えてくれた。何という失望であったことか。助けを求めた神もまた死んで葬られた人に過ぎないというのだ。わたしには、死んだ人よりまさった者の助けが必要であったのである。月日は流れた。しかしわたしは暗黒の中に悶えた。ひとりにさえなれば、しきりに考え込むのであった。しかし暗黒は増すばかりで望みはなかった。わたしの父は孔子の教えを学んでいたので、『天』についてよく語っていた。そこでわたしは庭先に出て、天を仰いで叫んでみた。求めるなら、天が助けてくれると考えたからである。しかし、それはただ空虚な青空に過ぎなかった。」
 これが幾世紀の間、自然宗教が霊魂のためになしてきたことである。覚醒した魂に対して、天にいます生ける神の存在という、真の宗教の初歩の真理をさえ悟らせることができないのである。
 異教徒は神を知らない。その精神には霊的内容がない。キリスト教国において「神」といえば、驚きと畏れと美しさの連想を伴うものであるが、彼らには空虚な音響に過ぎない。日本では、偉人を祭り上げたに過ぎない場合が多い。唯一の神の知識は霊魂の中から抹消されてしまったのである。もし神の存在が没却されたとすれば、宗教の力は失われたのである。もし神がなければ、そこには罪もなければゆるしもなく、救いもなければ人生の目標もない。ただ「わたしたちは飲み食いしようではないか。明日もわからぬ命なのだ」(第一コリント十五・三十三)となっていっさいは空しくなるのである。
 異教諸国における霊魂の暗黒は実に甚だしい。ほとんど絶望状態である。しかしまたそこに光のひらめきを見ることもある。わたしは救われた魂に、異教徒であったころどのような神観念を持っていたかを尋ねることにしているが、励まされるような実例は非常に少ない。時には神についての極めてかすかな漠然とした考えが影のようにその心にとどまっている魂に出会うこともある。その思いは極めてかすかで、彼らも自覚していないほどであるが、何か危険があったときか、福音に接したときに喚起されてくるのである。それはアテネの町に設けられた「知られざる神に」の祭壇のようである。暗黒と迷信の中でも、時にはこれを見いだすことができる。しかしそれも極めて稀であることを付け加えておかなければならない。しかしまた、時には神がその絶対の恵みをもって、人の手を借りることなく異教徒の心を照らされることを見て驚かされることもある。これはわたしには実に悲しいことと思われる。なぜなら、神はその救いを与えられるのに人を用いられるということが、しばしば聖書の中に明記されているからである。それなのに、教会はこの光栄ある責任を負うのにあまりにも怠慢であるから、神はしばしばそのみことばによって、夢を通し幻を通して異教徒の魂に御自身を啓示されるのである。
 私はここに一つの実例を挙げよう。その人は、殺人罪を犯して終身懲役に処せられ、二十五年間獄窓にあって、いま福音を伝えている。彼は恐るべき刑務所の状態を述べ、更に話を続けて次のように言っている。
 「私はこのような状況下にあって、心もからだも全く打ち伏せられていた。ある時ふとしたことで、何も自分に知らない一つの出来事のために非常な辱めを受けた。わたしは烈火のように怒り、気も狂わんばかりになった。その夜は激しい怒りのために眠ることもできない。告げ口をした者に対する憤りはますます強くなった。その時、不思議なことにわたしの心に一つの思いが浮かんで来た。それは、もしこの世の中に全知全能の神があるとするなら、昨日のこともすっかり知っておられて正しい審判をされるに違いない。自分は別に悪事をやったわけではないのだから。よし、いっさいを神の手に任せよう。その思いは、夢か幻のようにしてわたしの心に入ってきたが、しかしはっきりしていた。そこでわたしの心は静められて、ぐっすり眠り込んでしまった。翌朝、目がさめてみると昨夜の恐ろしい思いは雲のように消えている。神はいっさいを知っておられる、自分は神に任せるのだという思いがいっぱいになっていた。次に考えたことは、この神をもっと知りたいということであった。それから新約聖書を読み始めた。このようにして、初めてわたしに宗教心が起こったのである。マタイ福音書を一ページずつ読んで、山上の垂訓の箇所に来たとき、一言一句が心に触れて来た。そして十一章二十八節の『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう』との言葉に接したときには、飛び上がって喜んで叫んだ。『これこそ信頼のできる神だ』と。わたしは今まで多くの書物を読んだが、何の助けも得られなかった。しかし三十三歳のこの年になって、初めて真の信仰を見いだしたのである。『健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである』(ルカ五・三十一、三十二)とのことばも強く心に響いた。これらのことばによってはっきり悔い改め、へりくだってキリストに来て罪のゆるしを求めるようになったのである。」
 このように神は時には直接に魂に語って下さることもあるが、その御旨は、人のくちびると生涯とを用いることにある。したがってわたしたちはわたしたちの果たさなければならない仕事に帰って考えることにしよう。

 二 神の賜物を知らない

 『もしあなたが神の賜物のことを知り、また「水を飲ませてくれ」と言った者が、だれであるかを知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう』(ヨハネ福音書四・十)

 神を知らない当然の結果として神の賜物も知らない。神が在すことを知らないで、どうして神が偉大な与え主であることを知ることが出来ようか。ここに福音の大いなる根本原理の一つがある。太陽が照らさずにおられないように、神は与えずにはおられない。もしわたしたちが最善の賜物、すなわち霊の賜物を与えられることを妨げたとしても、神は物質上の祝福を良い者にも悪い者にも与えて下さるのである。
 わたしたちの生まれつきの心がいつも誤りやすい、ある宗教上の原則がある。人の心は不思議にも、極めてわかりきったありふれたことにすら、全く盲目なものである。聖霊は常に「間違ってはいけない」という前提のもとにこのような事実を述べておられる。たとえば『まちがってはいけない。神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる』(ガラテア六・七)のようなみことばであるが、最もはっきりした例の一つは、神が与え主であることについてのみことばである。『愛する兄弟よ。思い違いをしてはいけない。あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない』(ヤコブ一・十七)。
 もし人が、このようなわかりやすい日常のことにおいてもこのように無知であるとするなら、神の霊の賜物について知ることがないのは当然である。神の造物主であることや、その正義と力とは認めることができても、悪い者、いや反逆する者にさえ与える賜物を持っておられるというに至っては、これを理解することも信ずることもできない。このように人の心は眩まされたのである。どうかわたしたちにこのことを悟らせて下さい。そうしてわたしたちはこの大切な題目について、人の心を照らすことができるようになる。しかもこれは頭脳の問題でなく、心の無知の問題であることを承知してかからなければならない。神が、恩知らずの値打ちのない愛する価値のない悪者にまで与えることを願われるということは、人の性質ではほとんど認識することができないことである。人の性質は堕落しているために、自分の愛する者とか、恩義のある者とか、良い者とか、関係のある人の繋がりによって求める者とかに与えるという以外は考えることができないようになっている。この考えは極めて深く心に根ざしていて、醜いものである。悪い者、恩を忘れる者に対する神の慈悲と憐れみとは、わたしたちの生まれつきの理解には全く縁がないことなのである。わたしたちが抜き取らなければならないのは、この害毒である。これこそ追い出さなければならない暗黒である。わたしたちは神の恵みによって、神が与えて下さるという栄えある福音の光を人々の心に照らす働きをしなければならない。わたしたちは人の心の真の状態と、真の必要と、またわたしたちの果たさなければならない仕事の性質とを深く悟るようにならなければ、これをなすことはできないであろう。
 このことについての心の無知は、新生していない魂にとっては普通のことである。人の心の暗さには、実に甚だしいものがある。神については、その初歩の真理に対してすら全く無知である。この実状を深く悟って魂に接しないならば、わたしたちの伝道は空を打つように、人の心に入らないであろう。

 三 人は自分の真相を知らない

 『あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない』(ヨハネ黙示録三・十七)

 新生していない魂は、神の前における自己の真の状態を悟ることができない。人は哲学や神学や経済学などの難しい問題を考えることができるとしても、自らの神の前における霊的状態については、神の助けなくしては診察できない。わたしたちの第三の仕事は、このことについて人の心を照らすことである。
 わたしが初めて日本に来たとき住んでいた町に、ひとりの愛すべき乞食がいた。きたない襤褸を纏いながら物乞いをしているが、非常に朗らかである。聞いてみれば、彼は憐れな狂人であって、自ら天皇陛下だと思い込んでいる。彼は悩める貧しいけがれた狂人であるが、その実状を少しも悟っていない。わたしは、人の心の道徳的に暗黒なことを考え、黙示録三章十七節の『あなた自身、気がついていない』とのみことばを思い起した。確かに人の思いと理解とは全くの暗黒状態にある。
 異教徒の間にあっては、最も熱心な信心と甚だしい不道徳とが平気で同時に行われる。さまざまの神々に熱心に祈願を立てながら、同時にさまざまの罪悪を犯して不思議とも思わない者が極めて多い。
 仏教の僧侶が遊郭を訪れて読経をやり、その商売の祝福を祈る。それをだれも不思議と思わない。人の心は全く思い違いをしているのである。救霊者は、そのような暗黒に坐する者の救いのために熱心に祈る前に、まずこのような恐るべき事実に直面し、その実情について知らなければならない。
 人々を救いに導こうとするときに、その人々が、自分たちの真の状態を知らないということほど、難しく面倒なことはない。彼らは国の法律を破るということ以上に何の罪の意識もない。わたしは彼らに全く罪の自覚のないのを見て、心を痛めて立ち去ることがしばしばである。一般的に言えば、罪が患難と悲惨と恥辱との結果を生み出したときだけ、罪の恐ろしさを悟るものであって、それも聖なる神に対する罪として悟るのではない。
 この罪に対する無知は神を知らないことの当然の結果であるが、更にその必要についての無知は神の賜物と慈愛とを知らないためである。『もしあなたが神の賜物を知ったならば』と、救い主は憐れなサマリアの女に言われる。人々は『約束の安息』『生ける水』『神の力』『永遠の生命』などについてかつて聞いたことはない。そのため、疲れた者、渇く者、無力で滅びてしまう者であることをただぼんやり了解するに過ぎない。彼らに、心の安息とは何か、キリストの与えられる生ける水とは何か、真の自由とは何か、来らんとする怒りからの救いとは何かを悟らせなければならない。もしそうするなら、強い必要の感覚がたちまち呼びさまされるようになるであろう。
 わたしがここで最も強く主張したい要点はこれである。すなわち功利的見地から判断して、いかに罪の悪い結果と道徳的邪悪とに対する感覚が強烈であっても、きよい神の前における罪の感覚は全く欠乏しているということである。この点において、彼らは望みのないままに暗黒に座しているのである。
 彼らをこのことで覚醒させるのはただ聖霊のみのお働きで、わたしたちはその道具に使われるに過ぎない。
 どうかわたしたちがこの事実に直面し、それを深く感ずることができるように。そしてこの仕事の困難さを見させてください。それによってのみ、わたしたちは人々をやみから光に立ち帰らせるこの仕事のために武装されるため、祈りと研究に携わることができるようになるであろう。

 四 道を知らない

 『彼らは平和の道を知らない』(ローマ三・十七)
 『もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたなら‥‥‥しかし、それは今おまえの目に隠されている』(ルカ十九・四十二)

 すべての無知の中で最も不幸なものは、この憐れみと恵みと平和とを、魂から蔽い隠す暗黒である。人々を導くとき、すでに救いの必要と、自分の罪と、神から遠ざかっていることとを知っている者であっても、どうしたら救われるかを尋ねるときに、その返答に驚かされることが多い。中には神のみことばを読んだり、学んだりしている者もあるが、その答えは、「悔い改めること」「最善を尽くすこと」「祈ること」「キリスト教を研究すること」「教会に加わること」「洗礼を受けること」等である。これも「わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」という大切な問題に対する答えである。馬車に乗っていた宦官のように、熱心に神を信じ聖書を学びながら、ことにいのちの道について記したイザヤ書五十三章を読みながらなお悟ることができない。生まれつきのままの人は、あがないの道や、身代わりの死や、神の御子の流された血による罪のゆるしの恩寵について知ることができない。この霊的盲目についての最も顕著な実例は、日本にある敬虔なひとりの宣教師の経験であろう。ここに、彼女の働きについて記した小冊子がある。ここから彼女自身のあかしを抜粋しよう。
 「わたしはアメリカで一つの学校を教えているとき深く自分の罪を悟りました。時には重荷に耐えかねて、放課後ひとり教室に残って、この恐ろしい重荷を取り去ってくださるように祈り求めました。どうしたらこれからのがれることができるか知りません。わたしは全く無知で、ただ罪を告白してそのゆるしを求める以上のことを知りませんでした。時は移りました。しかし心の重荷は依然として去りません。友人はキリストを信じることを告白して教会に加わります。わたしも志願して試験を受けることになりました。わたしは自分が真に罪人であること、キリストを世の救い主として信じ、またわたしの主として受け、聖書を自分の指導書とすることを告白することができました。それは受け入れられ、洗礼を授けられました。しかし罪の恐ろしい自覚はなおわたしの上にあります。わたしは牧師や長老たちにこれを話したのですが、彼らはそれはだれでも同じことで、死ぬまで続くもので、それこそ罪に対する識別力のできたしるしで、恵みに進んだためであると言いました。
 わたしは熱心に働きました。捨てるべき罪はいっさい捨て、すべての悪に対して断乎として立ち向かいました。わたしは聖なる働きに携わり、教師であり指導者である立場に置かれたのです。これは、今思い出しても戦慄を覚えます。神は実にわたしのような罪人に対して憐れみ深い方であられたのです。
 学校や教会では、女子青年会や日曜学校や時には特別集会などに携わり、ついには日本に遣わされることになったのです。この間非常に多忙で、話をしたり教えたりするためにいろいろのものを読みあさり、さまざまな材料を集めて間に合わせていました。
 この間にも罪の自覚はなお去りません。全く無知で、死んだらのがれるものだろうと、覚束ない望みを持っていましたが、いよいよ働くことにも嫌気がして来ました。
 日本に来ても、説教をつくることに骨が折れ、一生懸命やってみても聞きに来る者に何の変化も起こりません。ただ計画ばかり先行して心は焦るばかりでした。そればかりでなく、聖書はわたしにとって閉じられた書で何の味もありません。太平洋を越えて帰国の途中、バックストン氏が出エジプト記二十八章を開いて祭司の衣について話されるのを聞きました。わたしには何のことかさっぱりわかりません。しかしこの神の人がわたしの持っていないものを持っているということだけは分かりました。
 なお幾年か、このような失敗の年が続いて、この重荷はいよいよ重くなるばかりでした。そこで今度の休暇を延長してもらって、もっと神学や科学を学び、聖書の光も与えられ、人を導く力を得たいと考えました。しかし休暇の前にわたしは健康を害してしまい、帰国してからはその回復のために時を費やさなければなりませんでした。
 やがて時が来て再び日本に向かいました。罪の恐るべき重荷は依然として取り去られません。日本に到着してからは、旧に倍する熱心をもって聖書を教え、教会を形成するために懸命に働きました。
 ほむべきかな。神はそこでわたしを捕らえて下さいました。神はひとりの日本伝道隊の教師を遣わし、わたしの病み疲れた魂に信仰による救いの道を知らせて下さったのです。カルバリの十字架の贖いはわたしのためであり、そこでわたしの悲惨な罪の重荷は処置されている。イザヤ書五十三章六節をわたしのゆるしのために受け入れたとき、忘れもしません、今このあかしを書いているこの部屋で、午後四時、聖霊はわたしに臨み、罪を知らない方がわたしのために罪となって、わたしを神の義とさせるために死んで下さったという真理を、手に取るようにはっきり示して下さったのです。主イエスをこのように信ずると、すぐ、長い間背負ってきた罪の重荷がたちどころに取り去られました。ハレルヤ。
 更に一年が過ぎました。古い重荷は取り去られました。しかしまだわたしの試みが終わったわけではありません。罪はなおわたしの肢体を支配していて、これに対する勝利がありません。わたしにはなお世俗的なところが残っていました。神は憐れみをもって、その使者を通して古き人が処置されなければならないことを示して下さいました。これはわたしにとって実に新しい教えでした。それまでわたしは、人の性は本来善なるもので、適当に教育されれば、そのままキリストを主として認めることによってすぐに教会に加わることができるもので、そこには罪の遺伝性もなく、贖いの必要もない。ただ主の御足の跡に従いさえすればよいとだけ信じていました。罪の存在する理由は、幼少のころに十分な、そして適当な訓練を施さないためであると考えてきましたので、わたしが生まれつき罪のかたまりだということを聞かされたとき、その驚きはたいへんなものでした。しかしわたしは二十一年の長い年月の間、罪のために悩まされて来ました。自ら罪人であることは十分承知しています。この罪がわたしの全存在、すなわち思いにも、ことばにも、感情にも、全部に浸透しているという事実を拒むことができません。ことに聖書がそれを語っているのですから、もはやのがれることはできません。恐ろしい暗黒の力はわたしを圧迫します。何とかひとりで祈りたいという願いでいっぱいになりました。心の反逆と、世のものに対する執着と、さまざまの大小の偶像とが一つになり、ただ一つの『自我』として示されました。
 このような罪人のかしらに授けられる恵みがなおあるだろうかと考えました。しかし神の約束のことばはわたしを励まします。一日、朝早くから夜遅くまでひとり神とともに過ごし、聖言を学び、信仰と告白と祈りとをもって神に語りました。こうしてわたしは死に、神とともによみがえったのです。聖霊は来たりてわたしの全存在に臨み、罪の身が滅んで内住の罪から解放され、御手の中に生きる者であることを明らかに自覚させてくださいました。
 以来、主の食卓にあって、いつもふるまいにあずかっています。わからなかった出エジプト記二十八章もしばしば開かれ、常に新しい光を与えられています。肢体の中に働く誘惑にもみごとに勝っています。おお、神を頌めよ。神は勝利者です。神とともに歩むことは勝利です。わたしは自分の険しい働きを休みました。今は神が働いてくださいます。永遠の安息はわたしのものです。」
 これは実に厳粛なことである。わたしたち自身の経験に当てはまらなくても、わたしたちの奉仕において深く探られる必要がある。聖書によって教えられて来たキリスト教国に生まれた者ですらこのようであるとすれば、異教国の民がこの点においていかに誤りやすいかを知ることができるだろう。
 わたしたちはこのような明白な事実を多少は心得ているし、人の心の暗黒がいかに甚だしいかを、救霊者になろうとする人々に更に深く悟らせたいのである。再び繰り返して言う。わたしたちはこれらのことを感じなければ、この戦いにおいて必要な力も決心も、また天的な知恵も奪われてしまうであろう。このことをわたしたちが悟るときにおいてのみ、この働きのために武装され、人々に救われるべき光を与えることのできる神のことばと人の道を学ぶことを求めるようになるだろう。
 人々は神を知らない。また神が与え主であられることも、神の前においての自分の真相も、また神に立ち帰るべき道をも知らない。
 『彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ』(エペソ四・十八)

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救霊の動力~A・パジェット・ウィルクス


第二章 人間の診察──その願い


 
 『悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために、人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている』(伝道の書八・十一)

 十九世紀のある偉大な救霊者について次のように記されている。
 「彼は本に書いてあることより、人間の性質そのものを学ぶことを始めた。彼は人間一般の性情、すなわちその弱さやその堕落の深さ、またその能力について知ることの必要を発見した。ことに罪人の心の傷つけられた点、また、どのようにして最も強い人間の熱情と偏見を捕らえることができるかについて熟知することを求めた。こうして彼は成功した救霊者となり、霊を救うというところまで行かない説教や牧会を顧みないようになった」。
 以下、章を追って人の心の診察について学びたい。多くの人は、すべての方面の研究において、注意深くかつ念入りな研究が成功の要素であることを心得ている。しかし、こと救霊の学問となると、ただ神学上の知識や、行き当たりばったりの散漫な研究によって習得できるかのように考えているようである。このような考え方では、もちろん失敗に終わるほかはない。
 しかし、これはきわめて難しい仕事である。ことに異邦人の中にあっては、どれほど罪についての経験があっても、底知れない堕落の深みに届くことはできない。これはほとんど不可能なことだと言ってよい。しかし神は、魂の完全な診断書を聖書の中に与えておいでになる。したがってわたしたちの職務は、人そのものの心について学ぶとともに、この偉大なる医者が診断されたところを勤勉に学ぶのである。
 ここにわたしたちは奉仕の材料を得ることができる。わたしたちの捕らえなければならない根拠地はどこにあるのか、わたしたちのしなければならない働きはどんな働きか、どこをどのようにして攻撃したらよいか。人々の思いと心と意志と良心の真の状態はどうだろうか。これはわたしたちの知らなければならないことである。わたしたちの働きが空を打つようなものでなく、手応えのあるようなものとなるためには、ぜひこのことをしなければならない。
 パウロの任命の第一の仕事は、人々の願いを覚醒させ、真実な朽ちることのない神的なものに向けさせることにあった。わたしたちがこの仕事を始める前に、生まれ変わらない魂の自然の状態、ことに彼らの神に向かう態度について考えたい。こうすることによって、これが悪の要塞であって、まずきよめられなければならないごみためであることを発見するであろう。
 人間について聖書に記された教理は、きわめて広い範囲に渡っている。わたしはただ読者がさらに学ぶための原則を暗示するに過ぎない。行き届いた研究を、この章でなす余地がない。伝道者がこの大切な題目について、さらに注意深く研究することをお勧めしたい。
 神のことばは、人間の生まれつきの願いと愛情の状態を、ものすごい描写をもってしている。「やみの方を愛し」(ヨハネ三・十九)、「快楽を愛する者」(第二テモテ三・四)、「自分を愛する者」(第二テモテ三・二)、「金銭を愛する」(第一テモテ六・十)、「人のほまれを好んだ」(ヨハネ十二・四十三)。また人の心については次のように言っている。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」(エレミヤ十七・九)、「‥‥‥変えることができようか」(エレミヤ十三・二十三)、「自分の心を頼む者は愚かである」(箴言二十八・二十六)、「もっぱら悪を行う」(伝道の書八・十一)、「悪い思いが出て来る」(マルコ七・二十一、二十二)。
 わたしたちはこのようなことを信ずればこそ、人々を炎の中から取り出して、救いの奇蹟を行うことのできる神に立ち帰らせようと懸命になるのである。
 この章では、人の神に向かう曲がった態度についてただその根底となる四大項目を述べることにする。
 さて聖霊は「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか」と言われる。したがって生まれ変わっていない人の心は、正しい判断をなすことができない。新生してキリストのかたちに化せられた者の判断だけが、人の心の生まれつきの状態について公平な評価をなすことができるのである。しかし最も有益なことは、わたしたちの教科書である聖書に行くことである。これによって、人の心の願いの真の状態について、誤ることのない知識を得ることができる。

 一 人は神を好まない

 『神を認めることを正しいとしなかった‥‥‥』(ローマ一・二十八)

 人々をキリストに立ち帰らせようとするとき、わたしたちはこの恐るべき事実から出発しなければならない。人々は、善悪のどちらであっても、ほかのことは求めるが、神を求めることはしない。近代の神学者が、この事実を否定することは知っている。しかし、わたしたちはすべての神学者を偽り者としても、神を真としなければならない。かしこで求めているのは牧羊者であって、羊が牧羊者を求めているのではない。もし人が神を求めているのに、なお見いだし得ないとすれば、その過失はどこにあるのであろうか。ただ神が悪いと言わなければならない。このような説は、神学と称えていても、実は不可知論の変形であって愚かな冒瀆にほかならない。フィッチェット博士は言う。
 「不可知論は宇宙の玉座に雲霧に包まれて座しているものを見ることを命ずる。その密雲を通して一条の光でも漏れては来ない。その暗黒の中心に隠れている何者かが、わたしたちの霊の父であると言うのだ。その彼が、彼を知ることを欲する願いをわたしたちの性質の一つとしてつくった、しかもそれはこれをもてあそぶために過ぎない。彼は自己を隠している。彼を拝そうとする本能など、一つのお笑いぐさに過ぎない。本能はそこにある、しかしそれは満たされることのない願いと本能に過ぎないのだ」。
 確かに、神はわたしたちの内に神を知る能力を植え付けられた。神を見いだすために、神を探求する本能はある。ああ、しかし人は神を求めない。その本能は麻痺しているのである。人の心の願望は、その根源において毒せられている。単なる教えや理解によって救済ができると考えてはならない。人の心の奥底には、神に対する反逆心と嫌悪がある。人は神を求めない。人は神を心に留めることを好まない。「神を求める人はいない‥‥‥ひとりもいない」。
 救われた者は、生まれ変わる前の自らの恥ずかしい状態を記憶しているので、この診断の誤りのないことを証明することができるであろう。人々は、平和を、救いを、その他さまざまな良いことを願うに違いない。しかし真実で忠信な証人の判断によれば『悟りのある人はいない。神を求める人はいない‥‥‥ひとりもいない」のである(ローマ三・十一、十二)。
 わたしは自分の同労者に、だれか他人に益を与えるという動機で救いを求めた者があったか、と質問したが、だれもなかった。それなら、その同労者たちの扱った求道者の中にそのような者を見いだしたであろうか。否、だれもそのような人はいなかったのである。
 神に対する嫌悪以上に、人間の性質の堕落の明白な証拠はない。日本のある大学の学生を導こうとして働いている宣教師は言った。「彼らが神の存在を否定するドイツ哲学を学んでこれを消化しようとする熱心は並大抵のことではない」と。
 この著しい人間の性質の事実には、何か恐るべき原因がなければならない。或る者は、神を父とする美しい思想を喜ぶのではないか、と想像する。ああしかし、事実はそうではない。人の心には神に対する苦きほえたける反抗心がある。そしてこの思いは、教育を受ければ受けるほど激しくなってくるのである。
 もちろん、中にはいかにも神を求めているように見える実例がないではない。ひとりの姉妹は次のようにあかししている。
 「わたしは十三歳のとき、兄が真の神について話すのを聞きました。兄は自分で信じていたのではなく、何かの書物を読んで、一つの理屈として話したに過ぎません。わたしはそのとき格別に気にも留めませんでした。しかし十五歳のとき、わたしの心を変えることのできる真の神を知りたいという願いが心に起こってまいりました。わたしは両親に連れられてお寺に行きましたが、それは本物でないと直感しました。どうしても祈りに答えて心を変えることのできる真の神がなければならないと考えて、熱心に求めました。しかし、だれも教えてくれる人がありません。このような時、あなたがこの町に来て、ただ神について教えて下さったばかりでなく、主イエスの十字架によって神を知る道を教えて下さったのです。そのときの喜びを想像して下さい。もちろん、わたしは平和も喜びも力も求めてはいましたが、最大の願いは神を知りたいということでした」。
 これは、いかにもわたしの述べていることと矛盾するように思われる。しかしその矛盾はただ表面だけのことであって、聖霊が、いかにどこの国においても魂を救うために働きかけておられるかを証明するものなのである。生まれつきのままの人は聖霊の働きなしに決して神を求めるものではない、という真理を覆すものではない。しかも、これはきわめて珍しい例で、それ以来このような魂には、ただのひとりも会ったことはない。

 二 人は聖潔を好まない

 『彼らは神に言う、「われわれを離れよ、われわれはあなたの道を知ることを好まない。全能者は何者なので、われわれはこれに仕えねばならないのか。われわれはこれに祈っても、何の益があるか」と』。(ヨブ記二十一・十四、十五)

 人は罪を愛する。ここにもう一つの恐るべき事実がある。人は神の道を知ることを好まない。彼らはすべての罪を愛するのではないだろう。だれもが捨てたいと思う不愉快な罪も少なくはない。しかし、人は生まれつき心の純潔を愛し、願うものではないことは事実である。彼らはある罪の奴隷とされている。しかし彼らはそれを願ったのである。ローマ人への手紙七章に「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが」とあるのは、新生していない魂の状態ではない。ここでもわたしたちの経験はこれを裏書きする。わたし自身の経験において最も悲しい、最も恐ろしい事実は、わたしが心の底から罪を愛したということである。わたしは神の道を知ることを願わなかった。わたしの願いも愛情も全く毒せられ、腐敗しきっていたのである。
 何度かわたしは聴衆に訴えた。人々はこれが事実であることを知っている。すなわち酔いどれは酒が好きである。放蕩者は情欲が好きである。世俗の子は金が好きである。虚栄の女は虚栄が好きである。生意気な者は高慢が好きである。これらのことは、新生していない魂にとって楽しくまた甘美なことなのである。
 日本においてしばしば社寺から社寺へと参拝してまわる無数の巡礼に会うが、その人たちは、一見非常に熱心な信心者のように思われる。しかし事実そこには道徳的意義もなければ霊的要素もない。その願うところは、ただ息災延命、家内安全、商売繁盛であり、彼らの行列は迷信をもって味付けられた一つの遊山というべきものである。
 彼らの職業が何であろうと問題ではない。高利貸しであろうと女郎屋であろうと、その商売の繁盛を願うのである。ある説教者が二人の祈願者の例をとって話すのを聞いた。一人は憐れな婦人で、その子の放蕩がやんで芸者狂いをしないように願っている。しかし一方には太った男がいて、「陰府へ去って行く」淫婦の商売の繁盛を祈っている。いったい神はどちらの祈りに答えればよいのか。聴衆はそのうがった話に大笑いした。
 異教徒が、罪の感覚に圧倒されているもののように考えるのは、とんでもない考え違いである。インドの行者は、後生に功徳を積むために身を傷つけたり、或いは恐るべき苦行を敢えてする。仏教ともまた同じ動機により、時には習慣や刺戟を求める心も手伝って苦行や巡礼をなし、念仏や題目を繰り返す。しかしそれさえも、罪の自覚から出発したものではない。この点について、悔い改めた教養人に質問したら、真の罪の自覚はイエスの弟子となって初めて来たのだと答えた。
 人々はキリスト者になろうとしてわたしのもとに来た。その理由を問えば、「罪から救われたい」と言う。私はこのように申し出たひとりの熱心な求道者を記憶している。彼は非常な短気者で、そのためにたびたび失敗をしていたので、それから救われたかったのである。しかしさらに質問して見れば、実はそのほかの楽しい罪は捨てたくなかった、つまりただ神を利用したかったのである。それから数週間してのち、また一人の求道者が来た。彼は体裁の悪い酔いどれから救われて、もっと見かけの良い罪人になりたかったのである。いっさいの罪を捨てることは好まなかったので、彼は空しく立ち去ったのである。
 「キリストを日本へ」とは、この国のキリスト者の多くが標榜する標語であると言ってよい。しかし決して「日本をキリストへ」ではない。国民も個人も同じように自分の便利のために神を信じ、その律法の幾分かを受ける必要があるように見える場合があろう。しかし真に罪を憎み聖を愛することは、東陽でも西洋でも、新生していない魂には全くないことなのである。
 確かに人は罪を愛する。多くの場合、上品にきれいに見えるかも知れない。しかし罪であることには変わりない。その現れ方は、必ずしも下品で露骨であるとは限らない。かえって美しく好ましく見えるかも知れない。しかしそのとげは更に鋭く、その苦さは更に甚だしく、死の値は更に確実である。

 三 人は神の支配を好まない

 『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』(ルカ福音書十九・十四)

 人は神の権威を憎む。彼らはきよい神を主人とすることを嫌う。ある田舎の町において、ひとりの最も熱心な偶像信者がわたしに会いに来た。長時間の会話のあと、私はこの事実を彼に突きつけた。彼ははばかることなく言った。「わたしは自分の造った神を愛する。あなたが説くようなそんな正しいきよい神はいやだ。わたしの神はわたしの好きにさせてくれる。しかしあなたの神は窮屈でいけない」と。つまり彼は神の支配を好まないのである。神の啓示の書である聖書は、今日よく言われるような「人間の尊厳」については一言も語らない。かえって人は反逆者であり、悪しきわざを行うことによって神の命に遠ざかったものであること、心でその敵となり、その願いも愛情も堕落し汚れ果てたものであることを大胆に宣言している。もしそうでないならば福音はない。神を求める善良な民だけが神を愛する、と告げても、それは何も福音ではない。福音とは、神が罪人を愛して下さるということである。神は反逆者のために死なれた。神は罪人のかしらのために愛を示そうとして待ちわびておられるのである。これこそすべてにまさる真の喜びのおとずれである。
 ただ異教諸国においてだけでなく、キリスト教国で十分の教育を受けた人の中から一つの実例を取ることは、この真理を確かめる助けとなるであろう。有名な聖徒で救霊者で、『われらの模範キリスト』の著者カロリン・フライは、解除の悔い改めの経験をあかしして、心の真の状態が神の前にどんなものであったかを語っている。彼女の献げた最初の祈り、その魂に天の門を開いた最初の求めは実に興味があり、また極めて正直なものである。美貌であり身分もあり、富もあり友人もあって、なおいっさいが空虚であることを語り、悲惨な心の状態をもって神を求めた。これが彼女の祈り方であり、またこの祈りが勝利を与えたのである。
 「おお神よ、あなたがもし神ならば、わたしはあなたを愛しません。またあなたを求めません。私の求めないものを与え、わたしの願わないものを与えて下さい。もしできることなら、わたしを幸いにならせて下さい。わたしは悲惨な状態にあります。この世に疲れ果ててしまいました。もし何かよりよいものがあるなら、それを与えて下さい」。
 これは神に対する人の心の態度の正直な告白である。その祈りが聞かれた。なんとなれば、求める者が神の前にありのままの姿で立ったからである。彼女は神に真を告げた。それが神の求められるものなのである。

 四 人は救い主キリストを好まない

 『あなたがたは、命を得るためにわたしのもとに来ようともしない』(ヨハネ福音書五・四十)

 性質として、人はキリストを好まない。「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」。ここにもう一つの驚くべき事実がある。そしてこれはおそらく最も異とすべき事実であろう。もし道徳的美の化身のようなお方がこの地上に現れなさったとするなら、人々はその傍らに集まり、悔い改め、信じ、従い、礼拝するもののように考えるのが普通である。しかし、事実はいかに異なっていることだろう。愛と憐れみと柔和と真において完全であったお方が、ただ受け入れられなかったというだけでなく、全く顧みられなかったというだけでなく、嘲られたというだけでない、愛し奉らなければならない神なる世の救い主、神の子イエスはのろわれ、十字架にくぎづけられたのである。
 人の心は今も少しも変わっていない。時は罪人の心を変化させない。人は命を得るためにキリストに来ることを好まない。かえって遠ざかって行き過ぎようとする。口先だけでも相手をしてくれれば、それで上出来である。もし彼のご要求である全き服従と奉仕とをもって迫れば、恐ろしく残忍な反抗心は炎のように燃え上がって、ただ彼に対してだけでなく、その使命とご要求とを携える者に立ち向かうのである。「あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。そしてわたしを拒む者は、わたしをおつかわしになったかたを拒むのである」(ルカ十・十六)。
 数年前英国にいた時、わたしは著名な文学者と共に夕食をとっていた。たまたま同席の二人の婦人が退席したあとで、二人だけになった。そこで会話は宗教のことに及んだ。いろいろの語り合いのあと、その文学者は言った。「そうです。私は新約聖書を真のものとして受け入れ、それに記されているキリストの生涯の真実を信ずることもできるでしょう。しかしわたしにとって、キリストの生涯も教訓も死も一つのおとぎ話としか思われません。演劇を見たほうがはるかに感動を覚えます。しかしもしわたしが神の愛をほんとうに信じ、キリストの苦しみと死の事実とが、ただ歴史上の事実であったという以上の真の感動を与えるとするなら、わたしは自分の生涯を献げて、キリストのために懸命に奉仕する」と。そこでわたしは次のように答えた。
 「あなたの話には非常に興味があります。しかしそれがキリストのみ言葉の真実性を立証するものではないでしょうか。『だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない』とあります。すなわち新しく生まれなければ、義と平和と聖霊による喜びである神の国を経験し味わい悟ることができないということです。もしあなたに神の愛が深く感じられ、キリストの苦難の力があなたの生まれつきのままの心に味わわれるなら、あなたには新生の必要はないのです。あなたの言われるようにあなたがこれを感じることができないとすれば、それはあなたがまだ新生していないし、断罪されなければならない立場にあられるという何よりの証拠ではありませんか。神があなたに求められることは、そのままの状態で、幼子のようにあなたの必要と無力と不信仰とを告白して彼のもとに来られることです。彼は確かにあなたの要求に答えて下さいます。あなたは新生するまで、これらのことについて感じたり悟ったりすることはできません。彼は、あなたではなく彼がこの石の心を取り去ると約束されました。こうしてあなたは彼の愛と憐れみと恵みを味わい経験することができるようになるのです。非常に簡単ではっきりしたことではないでしょうか。」
 半ば困惑し半ば失望してその人は会話を他の題目に逸らせた。わたしの心には、「あなたがたは命を得るためにわたしのもとに来ようともしない」とのみことばが響いていた。人は、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と叫ぶようになる道にだけは降りて来ることを喜ばないのである。人の心は神を好まず、罪を愛して権威を憎み、キリストを拒むものであって、人の心の堕落は、神学的想像や宗教的仮定ではない。この事実は、わたしたちをひざまずかせて聖書に導き、滅ぶる者を救うために町に出て行かせるであろう。
 ぜひこのことをいつも記憶していたい。どれほど人情の愛や上品な社会的温和さや、頭脳と態度の洗練が幻惑のにせ工事を施していても、人の心の根底には、神とその愛と律法に対する反逆心が伏在しており、ひとたび神の至上要求がわがままな心に押しつけられると、すぐに炎のように爆発しようとしていることを忘れてはならない。これは人間性に対する恐るべき告訴である。わたしはあまりに露骨に描写しすぎたであろうか。この描写はあまりに酷であろうか。そうではないと思う。黒白を明白に描かなければものにならない。もちろんこのような描写が、受け入れやすいものではないことを十分承知している。
 限りない罪の深さを伝えることのできる者だけが、また限りない神の恵みを力強く語ることができる。人間性の破壊を涙をもって見たことのない者には、救い主を宣べ伝えることができない。霧や霞でおぼろになった黒白不明瞭な描写は、芸術や詩としてなら興味があるだろう。しかしわたしたちは死の谷に住んでいるので、その陰に住んでいるのではない。罪と悲惨とが地獄のように暗黒なところ、その恐ろしい背景のある所にだけキリストと十字架の力とは覚醒を与え、救う力を現すのである。
 わたしたちは、今これらのことを攻撃の材料として学んでいるのではない。これを心におさめて、救霊のわざを励ます刺戟としようとしているのである。わたしたちがこの事実を深く信ずるのでなければ、どうして地上の汚れに中に沈み堕落し果てた人の願いを引き上げて、輝く不朽の冠と永遠の幸いに導くこの仕事に着手することができようか。
 このことを悟ることのもう一つの理由は、魂の救いがいかに奇蹟的な超自然的な力に待たなければならないかを悟るようになるためである。人がもし救われようとするなら、それは生ける神のお働きに待つよりほかない。このことを深く自覚しない者は、人々を暗黒から、妙なる光の中に立ち帰らせる働きにおいて、成功することはできない。