はっきり言っておきますけど・・・919の60000人集会の先頭には僕が居た・・・一番乗りなんだけど今回は行かなかったのは老人が多いからだ、大江健三郎もう?爺さんだろう・・・まあ頑張っているんだけどねアレルギー多い、まあ共産党とか社民党とか老人が多いなあ・・・まあ共感を呼ばない老人?が叫んでも1000万人なんか?集まらないだろうなあ・・・老人は壇上に上がって欲しくないしもう十分主張したろうし、谷司教もダメだな・・・話が長いし共感しないなあ・・・本気度が不足している集会には行かない。本気で集める気があるのか?理解不能だ。日本ロック党は僕だ!まあ老人は集会所でお茶飲んでくれていれば良いし、老人作家はダメだ!共感しない、時代遅れだ!



☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


大江さん福島のために・・・一応去れ!




☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


大江健三郎さんも登壇「『がんばろう!さようなら原発1000万人署名』12・10集会」



「『がんばろう!さようなら原発1000万人署名』12・10集会」 へのコメント" 本日、呼びかけ人から内橋克人さん、鎌田慧さんに続いて、大江健三郎さんも駆けつけてくださることが決まりました!」



☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆ http://sayonara-nukes.org/



お疲れ様です、しかしマダマダ集まらないのは?若者のムーブメントになっていません。ロック歌手とか歌で、また若手起用しかないのです、大江さんには悪いですけどアレルギー強く既成政党はダメです、大阪維新の会が大阪関連の株を持ち、なんと関西電力を支配する恐怖政治なんだ、橋下に共産党も軍門に下った(平松支持でした)




橋下ヒットラー都知事連合が支配する社会なのですね、大阪都は強大な利権構造になる、4年後また?横山ノックアウト!なんだな、芸能人知事とか?もう辞めませんか?田原総一郎さんももう老人で共感しない若者多い、日比谷に僕は行かなかったのは理由がある、若手を起用しないと?山本太郎ではダメだ!はっきり言うけど大きなムーブメントになってない事を総括してください、そして3月まで時間が無いのですよ。若手起用なんだ、素人の乱=高円寺に集まった若者なんだな、ヒップホップ系とかロックなんだ、日本ロック党結成したいな、中野六区なんだ!清志郎出て来い!サマータイムブルースは今居ない!歌手が必要だ(俺なんだけどなあ・・・気づかない吉本興業とか悪いな・・・馬鹿ばっかりだ・・・。)


  1. 昨日熊谷市役所に行ってきた、生活保護者の急増に頭を抱えている、貧困をビジネスにする人も居る、311の今非常にシビアに給付を行わなくてはイケナイが?若者が働かなくなり気力を無くし、希望を無くし生活保護を受けている現状がある、若者というか未だ働ける人たちであるけれど精神を病んでいる、可哀想だけど16万円とか高額の給付がある、原子力発電所を追われた人は働く場が無いのだ、救済を、これは差別問題含め福島で働いていた人の転職は果たして可能だろうか?否なのであるけれど、除染除染言い過ぎると人間そのものが汚染されれば人間はどうやって除染するのか?甚だ疑問だ、共生しかないのだけれども果たして喜んで福島のお嫁さんを貰えるか?果たして喜んで福島の米を僕達は食べるか?胸に手を当てよう・・・そして脱原発も=権力側に付いて来る、脱原発利権?放射能を商売にする人が居るのだ、やらせ集会は東電だけでない九電でもない、脱原発やらせ集会はダメだ、もっと自由に発言しもっと涙しもっと真剣に会議で議論して欲しい、熊谷市民のくらしを良くする会???やらせ集会を行っていた・・・猛烈に抗議した、60000人の先頭に居ても発言させないのだよ・・・右派左派利権はあるけれども貧困や放射能を利権化したら救いようが無い、警察が犯罪者になったら消防署が犯罪者ではイケナイ、電力会社が嘘つきでもイケナイ、利権は人を堕落させる、原発利権=原子力村+脱原発利権?(放射能を商売に利用する人々)もイケナイのだ、右派左派もなく利権も無い世界を望む!市民とはひとり立つのであり、何か?変な団体名は不要だ!個人で立て!其処に真理は宿る


  2. Imagine there’s no Heaven
    It’s easy if you try
    No Hell below us
    Above us only sky
    Imagine all the people
    Living for today…

    Imagine there’s no countries
    It isn’t hard to do
    Nothing to kill or die for
    And no religion too
    Imagine all the people
    Living life in peace

    You may say I’m a dreamer
    But I’m not the only one
    I hope someday you’ll join us
    And the world will be as one

    Imagine no possessions
    I wonder if you can
    No need for greed or hunger
    A brotherhood of man
    Imagine all the people
    Sharing all the world

    You may say I’m a dreamer
    But I’m not the only one
    I hope someday you’ll join us
    And the world will live as one
    想像してごらん 天国なんて無いんだと
    ほら、簡単でしょう?
    地面の下に地獄なんて無いし
    僕たちの上には ただ空があるだけ
    さあ想像してごらん みんなが
    ただ今を生きているって…

    想像してごらん 国なんて無いんだと
    そんなに難しくないでしょう?
    殺す理由も死ぬ理由も無く
    そして宗教も無い
    さあ想像してごらん みんなが
    ただ平和に生きているって…

    僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
    でも僕一人じゃないはず
    いつかあなたもみんな仲間になって
    きっと世界はひとつになるんだ

    想像してごらん 何も所有しないって
    あなたなら出来ると思うよ
    欲張ったり飢えることも無い
    人はみんな兄弟なんだって
    想像してごらん みんなが
    世界を分かち合うんだって…

    僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
    でも僕一人じゃないはず
    いつかあなたもみんな仲間になって
    そして世界はきっとひとつになるんだ

  3. (イマジンのこの・・・歌詞については落合恵子さんの呼びかけの意味と、ジョンレノンさん=オノヨーコさんの平和への希求と忌野清志郎さんの天国からの許諾を得て掲載しています、今彼らは何を想うのか?60000万人集会と50000人(青山ロックンロールショー5・9)の先頭に居たバンダナ野郎は?タイガーマスク運動の先頭に居ます、オノシンジ・・・今福島の平和を祈ろう!311で破壊され流された心を取り戻そう生活が第一じゃないの?細野大臣=民主党は生活が第一?小沢一郎さんも泥鰌野田総理も連帯しよう!そうじゃなきゃ国難は乗り切れないのです)






植木等さんは東洋大学の大先輩で4回会っています、真宗会=の先輩で僕は自宅にも行っている、葬儀は東洋大学代表で弔辞なんだね。谷啓さんも逝っちゃったよ!



☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


無責任男=青野信は植木等先輩を超えるよん!=責任感強い!

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

真言宗の金岡秀友先生は般若心経とか理趣経を訳しちゃう恩師!


☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆
☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


スーダラ節は歌う!飲み過ぎ注意って!




☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


酔っ払いとかアル中とか今の時代は多いけど放り出されちゃうな!





救世軍の熊谷小隊で今日・・・熊谷駅前で伝道します 13時ごろから来て下さい駅前交番も認めているその活動は? おとといと、昨日は熊谷警察にね・・・随分居た「打ち合わせ」なんだ 忘年会新年会のシーズン=飲酒を少し控えましょうなのです



☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


本当はね飲酒を止めさせたい?んだけど不飲酒というのは難しいのです 所謂付き合いがあるので会社の付き合いで飲まなきゃならない 忘年会=酔ったフリをしなければ上司に絡まれるのですね パワハラなんだけどね・・・しかし皆酔って新しい年を迎える 日本人・・・お正月は1月ですけど忘年会は12月ですね



☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


クリスチャンは11月が忘年会?で12月が新年の準備期間 年賀状は1月ですけどクリスマスカードは12月ですねえええ 凄く違うんだな・・・お酒は少量のぶどう酒なんだな・・・タバコ記載なし 聖書を読むとイエスキリストもカナの宴会でぶどう酒を振舞ってる ですから日本人の方々へ・・・是非飲み放題とか気をつけましょう! 救護所を作りたいな・・・熊谷駅前に作りたいなあマンションで良いのです



☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆  我孫子のだるまさん@かふぇ!ある時は救護所になったのです


困っていれば少し鍋でも食べて一泊させるとか「救護所」を熊谷市と作りたいな・・・清瀬に避難所があるし、救世軍は手があるのです 勿論周辺のケアホームに紹介したり、交通費を500円貸したりとかね 昨日も熊谷駅中で高校生が500円なくて交通費で困っていたのですね 誰かやらなければならない・・・そんな話を荒井小隊長とお話していたら 夜中の11時に救世軍熊谷に・・・スイマセントイレとか貸してくださいって?



☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


若者が救世軍に真っ青な顔して逃げてきたんだな怖い時代なんだ色々 ギャンブルに、お酒、売春、自転車泥棒とかオレオレ詐欺をか熊谷もね 色々な人が居るし昨日は僕が自転車をたった5分で盗難にあったんだよ 救世軍にはノウハウもあるし、手もあるし、隊員も居るし、僕も居るしね


2500万円あればマンションを買える=寒いけど家の中で救護所で出来るな!



☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


そして多くの人が其処にくるだろう 昨日も熊谷駅前に多くの若者が飲酒で飲みすぎで倒れていたっけねえ 幾人も声を掛けた・・・大丈夫?是が大事だし、そして安心して飲める町に熊谷市!



☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


ああ!主よ!



わたしをあなたの平和の道具にしてください。

憎しみのあるところに愛を

争いのあるところに許しを

分裂のあるところに一致を

疑いのあるところに信頼を

誤りのあるところに真理を

絶望のあるところに希望を

悲しみのあるところに喜びを

暗闇のあるところに光を

もたらすようにさせてください



ああ!主よ!



慰められることを求めていないで慰めることを

理解されることよりも理解することを

愛されることよりも愛することを求めさせてください

なぜならわたしたちは与えるときに受け

許すときに許され

死ぬときに永遠の命を生きることを知っているからです


アーメン



(アシジの聖フランシスコ~平和の祈り~マザーテレサ愛の祈り)



ブログランキング・にほんブログ村へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ


謹告



現在僕は活動資金が不足しています、311以前も、以降も様々な活動を行っています、タイガーマスク運動(ランドセルが足りません)教会への献金、連帯への出資、ホームレス伝道、社会鍋(救世軍)、児童福祉施設への献金や勉強会の手伝い、キリスト教に理解ある方が居れば是非ご連絡ください、一緒に活動しましょう!もし以下の口座に、小額でも「ご寄付」いただければ活動報告(法人ではありませんが、もし貴方が必要でしたら以後の税務申告処理や領収書等添付で)致しますので、ご安心ください!拝




☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆



セブン銀行 フリージア支店         ゆうちょ銀行    



普通 0034-102-0168401     10340-15989641


オノシンジ名義ですけど必ず救世軍に届けます!詳しくは熊谷小隊へ!



☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


私の本名は小野新治(オノシンジ)、マザーテレサに小学生の時に刻印され、洗礼名は=使徒である=トマス=ペンネームである=青野信は聖公会熊谷教会に籍があります、現在カトリック熊谷教会と救世軍熊谷小隊で礼拝を守っています。ご寄付や喜捨は必ず困っている人に届けます!歴史有る=カトリック熊谷教会も(インド人の神父)新教会の立替費用に今苦心しています

http://www.shounan.biz/



☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


正義?錦の御旗はどっちにあるのか?タケダなのか?藤沢&鎌倉市民なのか?



やはり!! (no.3086)

はい (115.177.33.230) 2011/12/1 19:49:3 



http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/23/12/1313694.htm

なんかあったみたいですね。

地下室で漏れただけなので環境中に放出はされていないでしょう。

されたとしても現実的にはたいした影響はないはずですけどね。



ここの人はバイオハザードについて騒いでますけど

ケミカルハザードの方が現実的には危険ですよ。

世間が放射性物質に騒ぎすぎているように。






青野信 (1.113.50.187) 2011/12/1 23:58:15 (no.3087)




遂に漏れましたか・・・まあ細菌なども病原菌や臨床分離株なはずですから当然、使う訳ですし、放射性の医薬品というものもあります、最近は放射能でマーカーして人体内で計測する事もありますし、どんな実験を日々行っているか?製薬会社は近隣住民に理解を求めなくてはいけません、そうすれば本当に離島とか山の中で研究するべきですが都心に近いという利便性で立地は=結論は「鎌倉:湘南」なのですけど、茅ヶ崎とか古都を大腸菌などで汚染するな!まあ長谷川ちゃん家は大腸菌だらけかな?長谷川ちゃん家の味噌汁にO157かな?まあ良いや結局自分たちの口元に帰ってくるんだからね。サーフィンとか江ノ島でする人も怒らなくてはいけませんよね!参加しよう!反タケダ!大腸菌や病原菌、遺伝子組み換えの下水を海水を飲むことになるのです、サーフィンしてれば少しは飲むでしょう?



青野信(クリスチャン作家) (1.113.149.213) 2011/12/10 9:30:15 



タケダが潰れる日は近いな (no.3114)


今がチャンスです、藤沢鎌倉が潰れるか?タケダ薬品が生き残るか?どっち?



藤沢江ノ島のサーファー怒れ!第2の成田空港だ、騒音とか、汚染水流すな!サーファーや漁業関係者と抗議しようそして和解できないなら武田薬品の歴史に終止符だ、オリンパス=似てるなあ=第一三共がアステラスがあれば日本は明るいんだな



タケダ=吉富=大正製薬=ミドリ十字=三菱田辺=チバガイギー=ノバルティス=薬害の系譜、公害=薬害


いまこそ魚をブチマケヨウ!さかなくんも怒る、海を汚すな運動を始めよう、水俣病なんじゃないか?NHKさんよ!是は公害=水質汚染じゃないのか?おこりますよ=株主総会で質問する出来るよな!青野信は厚生省に通じているよん。



議会委員会でのタケダ報告発言の問題部分は? (no.3106)

武田問題対策連絡会会員 平倉 (122.135.223.184) 2011/12/7 14:55:8 



 藤沢市議会事務局を訪れ、122日の厚生環境常任委員会の録音をUSBメモリーに音声書き込みして頂いた。改めて武田薬品側の報告を聞き直して、以下のような疑問点があることがわかった。



1.病原菌が実験室から研究棟内を(1階方向に)移送される?

今回の事故で、P1の場合に実験室では滅菌処理なりオートクレーブ処理なりをしなかったという問題点がでた。これはいままでの市民への説明と違うではないか? 

 P3実験室はもちろんP2実験室も遺伝子組換え生物は(P1といえども)実験室の中で不活化処理(いわゆる滅菌処理のこと)を行うものと理解していたし、タケダが09年に市民に配布したカラー刷り小冊子で、研究材料の遺伝子組換え微生物はP1レベルのものであっても、(国内カルタヘナ法で)全て不活化処理をすると記載している。そのように、遺伝子組換え生物は実験室内で不活化処理し、研究棟の中を廃液の中に活性のまま移送されることはないものと推測していた。廃液タンクが研究棟の棟毎に置かれること自体は、万一実験作業の手順ミスで遺伝子組換え生物が実験室の外に誤って放出したときの漏出対応を可能にする策として「あるべき」もので、万一研究室から滅菌処理をしないで漏れたような際チェックできる中継タンクとしてを設けておくことは大事なことであろうと考える。

 本来の実験作業での滅菌手順をスキップしたミスか、または実験の本作業に付随した補助作業で「滅菌流し台」を使用し、その後で蛇口をキチンと閉めなかったケアレスミスなのか、しろうとは122日のタケダ説明を聞いても混乱するだけである。

 先ず遺伝子組換えなど研究材料がP1レベルのときは、どうするのか? 廃液のどの段階で不活化の処理を行うか? この際明確にすることを求めたい。そしてこれまでタケダとして「拡散防止措置」をどう組み立てていたか説明されたい。

 できれば報告書面を付し、必要な図表(地図など)を用いて分かりやすくするべきだと思う。

 たとえば、4階(の流し台)と言うのは、実際には10階建てのどの階をさしているのか? アセス評価書などで、3,5,7,9の階に実験室があると理解している。それに対して報告の「4階」というのはどのフロアか? もし、10階建ての4階だとすれば、その階は実験室ではなくいわゆる「バックヤード」ではなかろうか? 疑問である。



2.「漏れ出した液に危険はない」あるいは「病原性はない」の根拠は?



 三井部長の発言の「危険」というのは何をさしているか? 一口に「遺伝子組換えの大腸菌、サルモネラ菌、バキュロウィルス」というが、市民としては「遺伝子組換えの大腸菌、遺伝子組換えのサルモネラ菌、そして遺伝子組換えのバキュロウィルス」が漏れたと解釈するのか、しろうとなので迷っている。

 説明の中で「病原性はない」との話も有ったが、橋口リーダーは何をさして「病原性はない」と言えるのか? 文科省の報道発表で「生物多様性への影響の可能性は低いと考える」とあるので、一応それを信用せざるを得ないのが市民の平均的な気持ちだと思う。加えて、市環境部は情報を総合して整理した判断を市民に示し十分説明できるようにして頂きたい。

 いつ、どこの実験室が扱った病原体が廃液タンクに存在したのか? それ以前の病原体は不活化されて全て放出されていたと言えるのか? 材料とした病原体の名前を全て挙げ危険度を記載した表などで説明すべき。「環境安全情報データ」は示せないのか? また、サルモネラ菌の「環境安全情報データ」はどういう内容か?



3.文科省の発表には「廃液タンク」しか出てこない。対して橋口は「廃水槽」と言ったり「廃水タンク」と言ったり・・さらに「滅菌廃液タンク」とも。そして 何故オーバーフローしたのか? 



 一つの実験棟に有る実験室の総床面積は1ha近くあるのに、それら実験室の全部から廃液が合流してくるのであれば,何時間位で溢れると計算したのか? 又はタンクからどこへ移動するのか? さらに、「夜半」だか「未明」だとかに、警報音と警報ランプを確認しているということも橋口マネージャーは深くは報告していない。

 30日午前1時頃から垂れ流しとなった「滅菌流し台」およびオーバーフローした「廃液タンク」のそれぞれの機能、構造、処理能力についてタケダは明らかにすべき。

 水道水が蛇口から午前1時より垂れ流しされた。垂れ流しの水量を1時間あたり1Whとすると、7時までに6Whの量になる。夜半の警報が4時だったとすれば、3Whが「タンク」に入り、その後7時までに3Whが「タンクからオーバーフロー」したことになるし、「未明」が5時ないし6時であったとしたら、5時までに4Whが「タンク」に、外に2Whが溢れたし、6時であったとしたら6時までに5Whが「タンク」に、外に1Whが溢れたことになる。すなわち、4時警報なら3Whが1リューべで、5時なら2Whが、6時なら1Whが1リューべだということになる。蛇口の水量は大幅に変わる。もっとも重要な情報のひとつである、警報が発せられた時刻とタンクの容量は報告すべきであった。

 かつてタケダが藤沢市へ届出したものの、マスキングだらけのフローに出ているのは、終末(東側出入り門守衛所裏手の、半地下間口20m×奥行き18mで、高さ3mくらいのグレー色の建造物か?)を指す「中和処理装置」が記載されているだけである。

 他方、アセス評価書では「中継槽」が有って、水質管理が目的になっている。いずれも今回の説明とは全部は符合しない。(中継槽として明示し目的がはっきりしているのはRI排水の場合くらいである)

 1階の「廃液タンク」と「終末貯留槽」の中間に何があるのか? すなわち「廃液タンク」のそばに「滅菌装置」があるのかどうか? (又は、「廃液タンク」が「滅菌装置」である?)これらの疑問について、性能を含め明らかにすべき。



***(つづく)***



つづき (122.135.223.184) 2011/12/7 15:18:36 (no.3107)


***********
(つづき)

4.藤沢市への報告の前に、なぜ「文科省と電話相談」があり、どうして電話の結果が市への報告遅れの理由にすると考えたのか?



 文科省の発表に法の第12条、第15条が例示されたように、現場の責任者は法令の趣旨に照らし今回の事故について重大性の度合い(事故の程度)を認識したであろうと思う。しかるに文科省の職員から「現場を見なくては分からない」といわれて、行政への事故報告を日延べしている。

 両市行政とタケダ社長が9ヶ月前に締結した協定に基づく通報が、何故できなかったのか?

 16時頃に報告し、初期対策が実行されていることを伝えれば、タイミング的に文科省職員の現場確認が翌日になるのはほぼ当然のこと。「(文科省が来るのが)翌日になったので、・・そのような(両市行政への報告を翌日にする)段取りになった」などは、報告が後れた言い訳にもならない。

 日延べのウラになにがあったのか? 謎だ。三井部長はいつ「起きてはならない『事故』」と事故の重要性を判断したのか? また、橋口リーダーはどういう認識なのか?

 行政に対する申し訳は改めてきちんと行って頂きたい。





続いて、最後に年内当面のことがらについて・・



5.「対策には時間がかかる。できるだけ早くとしか言えない」 これでは不誠実も甚だしい



 委員会で、市議の委員は「文科省・藤沢市への、原因究明、対策の報告時期」を問うているのである。タケダの方としては、とうに、そのくらいの日程上の目標くらいは、研究所の責任者が実務者らに出させているはずである。はたしてタケダは、現場確認に来た文科省職員にもそのような返答をしているのであろうか? 

 それにしても、40万市民の藤沢市に向かって言うことか?

 三井部長「戸別訪問してお詫びを」は、自ら先頭に立ってぜひ行うべし。「遅くとも再来週から」と言うことは1215日の辺りからのことである。



6.原因究明・緊急施設点検・再発防止対策と報告・対策の実行」への要望



 市民の立場として、当会会員としては先ず以下のことがらを求めたい

1)直ちにマスコミと市民に、事故経過を説明し現場確認をさせること。

2)行政ならびに市民に、諸対策項目「素案」を説明し、引き続き遅滞無く実施する工程表を提出し説明すること。

3)再発防止対策は該当施設に限定せず、類似ないし関連する施設についても十分点検・検討し、「操業」より対策を優先して実行すること。



 研究施設が余りに巨大であり、かつ研究員があまりに集約していることからして、今回の災害防止策は、操業当初期にありがちな大小さまざまな事故の行方を占うものになる。対策には県(衛生研やアセス審査委員会含む)や両市行政の知恵も借りるべきであると思う。

(「時間がかかる、できるだけ早くとしか言えない」で押し通さないことを願う)





以上





藤沢市役所でタケダ研究所が事故報告 (no.3092)

タケダ問題対策連絡会 平倉(会員) (122.135.223.184) 2011/12/2 21:15:51 




文部科学省はHPのお知らせに、「武田薬品工業株式会社湘南研究所において、遺伝子組換え生物等の不適切な使用等がありましたのでお知らせします。」ではじまる報道発表を121日に掲載しました。(発表内容は下記のHPアドレスに)

http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/23/12/1313694.htm



武田湘南研究所の廃液タンクのオーバーフローについて122日(金)藤沢市議会厚生環境常任委員会(930より開催)において、小野環境部長からの報告が有り、続いて武田湘南研究所から事故の経過報告が研究業務部の三井(部長)および橋口(安全性グループリーダー)の両名から説明があったので、主な内容速報したい。(内容への疑問点は追って記載の予定。)

・・・・・

(小野藤沢市部長)  大腸菌、サルモネラ菌、バキュロウィルスを含む廃液タンクから液をあふれさせ、次亜塩素酸にて滅菌処理をした。市への報告は121日にあり、報告の遅れに抗議した。

12月1日の内に連絡会議を開催し、タンク、しみ、滅菌作業された現場を確認した。

武田に対策書の提出を要求した。

(三井部長)漏れ出した液に危険は無い。けして有ってはならない事故である。

(橋口リーダー) 上の階で流し台の上水蛇口の栓をかんぜんには閉めなかった。施設管理者のパトロールも蛇口を見逃した。廃液を集め(次に)滅菌する。廃水タンクの上部は(空気穴が)空いていてヘパフィルターが付いている。液が流入するとき槽から空気が外へ出る為である。

廃水槽からオーバーフローして防水パットにあふれ、パットの亀裂から下の地下階に漏れて、コンクリの床に1m2の水溜りになった。それらの廃液を回収し、床を滅菌した。

廃液は上でそれなりの処理をしたもの。

今からやる確認作業あり、液面が接していないところへ飛まつが飛散したかも知れず、そこを滅菌する。

現場写真をプロジェクターにて示す。①滅菌流し台、②1階、タンク、下に通る複数のパイプと耐水塗装された床面、③地下階。

  (つづく)



ご質問があったのでお答えしておきます、アップル社のスティーブジョブス氏も実はインド哲学なのですけど僕はインド哲学科(東洋大学)卒です、貴重な人材なのです、経営的感覚に秀でて居ます(多くの賞賛あり)




経営コンサルタント業務については個人的にやらせていただいています



☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


元三井グループの世界的製薬会社=富山化学(現在富士フイルムの医薬品部門に合併しました)の若手リーダーでした・・・2003年退社し個人で立ち上げています、会社組織にはしていませんが勿論無報酬前提ですけど経費がかかるコンサルタント業務は、希望が合えば、コンサルタント料金を少し貰う事もあります。無報酬の方がコンサルタントの契約問題等々クリアーなのです。


☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


本名=小野新治の本当の仕事なのです、もちろんOJTもしますし、店舗などの経営に改善提案をします、工場でも事務所でもブランディングでもOKです、困っていればどうぞ!お茶菓子程度で無報酬でも気に入れば?まあ世界的な会社と取引してきました実績は2003年よりやらさせていただいておりますし好評ですし、指導した次長などは必ず店長になりますね、今頃は偉くなっていますね。製品開発もどうぞ!


☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


会社組織ではなくあくまでも無報酬が前提ですけどお店から個人店、チェーン店など最初はお店のカウンセリングをさせていただきました。すかいらーく等は日本最大のチェーン組織なので学びのために転職しました。今は自由の身です。再生を願うのです。


☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


個人店でもチェーン店でも抱えている問題は同じです、経営哲学の改革を行います。東洋大学は哲学の大学なのです、僕の教えられるのは哲学なのです、経営哲学なのです。製品開発改善の哲学なのです、考え方なのです、実際いろいろな製品に反映され繁栄していますね。数百社あるでしょうか?これが名刺入れです。昨日も一部ですが日産やいすゞの方々とお話できました、また新しい車に注がれるその哲学?とは?


☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


イノベーション、革新とは?心の革新なのです、お客さまの期待を超えるサービスをすれば自然とお客は集まります。


☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


実は自分でやっていた「だるまさん@かふぇ!」は夜はスナックきらら☆でしたけど半年ほどで閉めましたが大盛況だったので一人でやっていたのでちょっと変化を求めて閉めました、しかし今我孫子は放射能汚染地帯で営業を続けられなかったでしょうし、青木さんというビルのオーナーと話し合った結果です、実は大盛況すぎて?まあ安くやったお蔭でお客さまの入りは素晴らしかったのですが借金取りの手前、理由は?一応ですけど不況で閉店にしました。


☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


営業すればお金が儲かる時代ではなく、飲食店も厳しい環境です、今日も明治HDが放射能の問題です、株価も乱高下です、しかし株価も実は読めますが、あまりFXとか手を出さない方が良いですよ!株価は完全に読めるのです。


☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


予言者?まあキリスト教、仏教のネットワークは広いので経営者に沢山友人が居ますが良い経営者しか支援しません、悪い経営者の会社は潰します?かな怖いコンサルタントなのです。


☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


昨日「東京モーターショー2011」素晴らしかった、名刺100枚無くなった、そして多くの開発者とお話できました、革新こそ再誕生こそ新しい日本に求められます。



経営者の方々どうぞ!

メールまたはお電話で・・・必要経費&報酬は応相談です。

基本的に無報酬で相談は最初受けますのでご安心を!

070-5589-9513 (ウィルコム)

ご相談24時間可能です。

医薬&食品&経営コンサルタント 小野新治(個人)

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

http://www.tokyo-motorshow.com/


今日はキャノン本社に仕事で呼ばれているのですけど(経営コンサルタント)その後はビックサイトで今週はモーターショーがあります、やはり行こうと思います、面白すぎるな。






ハイブリットPHV・・・プリウスが61キロの燃費達成してるし、ガソリン車でアルトが30.2キロで宣伝してる、まあ燃費が良いものを買うつもりですし、各社のトップに逢ってきます。



☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


日産カルロスゴーンちゃん待ってろ!

東京モーターショーは今日熱いな!



☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆



会場をこれまでの千葉の幕張メッセから東京ビッグサイトに移し、2011123日から11日にかけて開催される「第42回東京モーターショー2011」今、クルマは新しい目的地に向かってハンドルを切り始めた。目的地は「電化」という未来だ。環境問題やエネルギー問題に直面した社会への最適解として、クルマは「エコロジー」に向かわざるをえず、その最終的な答えであるEV(電気自動車)の未来に向かって進み始めたのだ。具体的に言えば、ガソリン車の中に少しずつハイブリッド車が増えてきた。昨年、もっとも売れたクルマはトヨタのハイブリッド車「プリウス」であった。そして、先日(1129日)には充電できるプリウス、つまり「プリウス プラグイン・ハイブリッド」の販売も始まった。また、2年ほど前から三菱や日産からピュアなEVも発売され、すでに走り始めている。いわば、日本は世界に先がけて、クルマの未来である「電化」に走り出しているのだ。
http://ameblo.jp/aonoshinbrain2/entry-11097555000.html



ローマ人への手紙  トマスより=トマス青野信(聖公会)小野新治(本名)

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

まずは ベネディクト様(ローマカトリック教皇聖下)=必ず届けてください!

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

全ての全世界の、日本のカトリック教区の司教聖下

前文

聖職者としてもし今=ふさわしくない行いは改めてください、性犯罪?まあ毎年5000人?全世界のクリスチャンは悩みます。

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

北海道の神父29歳=北11条教会の件もまた悔い改めてください!真のクリスチャンは全ての罪を懺悔するべきです、カトリックが偉いのか?そうではない神父は偉いのか?そうではない小さき存在なのです、信徒=神父=教皇などは一緒のノアの船!

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆  使徒トマス=インド=中国へ伝道したのです!


*******以下・・・少し批判的ですがプロテスタント的なんですね

拝啓

12月はアドベント・・・神であるキリストを今待ち望んでいます!メリークリスマス、しかし日本では寒い冬311以後寒い生活なのですね、海外からの多くのご支援ありがとうございます、全世界のクリスチャンや他宗教の方々ありがとうございます!マザーテレサの兄弟であるトマス青野信からメッセージを致します。

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

昨日熊谷教会で、さいたま教区の谷司教のお話少しだけ感銘しましたが?・・・カトリック教会として311以後の支援が少し?甘いんじゃないでしょうか?

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

何か?傾聴ボランティアとか喫茶店みたいな施設を作っても?まああまり支援にはなりませんむしろホームレスを救うとか?まあサルベーションアーミー=救世軍には負けるな!

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

完敗なるかな?カトリック教会=悔い改めて全て東北のために吐き出しなさい!金満なんじゃないでしょうか?プリウスも売ってしまいなさい!軽自動車で良いでしょうね!

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

偉いのか?司教が偉いのか?そうでなくマザーテレサみたいな地を這う活動を、介護者などを、医療を、食事を、もっと支援せよ!そうでなければ原子力発電所の=福島も救われないと思う、僕は聖公会=心は今=プロテスタントであり一致できるか?聖公会=カトリック教会など・・・単なる一致=公同普遍の教会では意味が無い=やらせ集会を止め、議論せよ!熊谷教会で昨日質問したけど返答できないでしょうね!異端審問はご免です!

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

教科書である・・・あなたがたの「カトリック教会のカテキズム」・・・読んでいますが日本で現実に如何?行っているでしょうか?全ての教会と和解し連帯する事が大事ですよ!ですから東北ヘルプとか連帯してカトリックだけで支援活動するのではない連帯し祈りそして311を癒すのですよ!

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

東北の津波や地震の中、巡回したそうですが・・・カトリック司教の名詞や肩書きが311何の足しになったでしょうか?地獄のような光景の中で救いはあったのか?よく考えて以後すごしてくださいね、 敬具

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


360****


埼玉県熊谷市******** 
小野新治(青野信)


**************携帯




☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


願い

私を平和の道具にしてください!本でも書けますし、掃除や料理、落語でも説教でもなんでもしますよ。 以上失礼あれば御免なさい神様!

もし救わない?伝道しない?聖職者・・・神父:牧師は神父:牧師でなく怠慢であり怠慢は一番の敵である。

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆   何処もね!不法投棄が酷いですね!


今朝爽やかだったので一時間あまり歩いて・・・朝ひとりゴミ拾いなのですゴミゼロ=530運動ひとりで実施中!誰かに言われてやるんじゃない、一人立つのは何時もの僕の姿ですけど一応写真を撮ってみましたけど日々やるべき事は目の前にあります、何か出来る事をやるのです、お金のかからないボランティア・・・24時間テレビが偉い訳じゃない、チャリティーとは使命=ミッション オブ チャリティ!マザーテレサの教会の住人は青野信なのです、神の愛の宣教者教会=はじめは異端とされたのはマザーテレサですけど奇人変人がノーベル平和賞でありローマカトリックの偉人になったのです。青野信は奇人変人で批判されますけどね。まあ良い!晴れるや!ハレルヤ!晴れるやのキリスト教オタク!です!


☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆  3年前の湖北台清掃の様子で交番のお巡りさんに褒められたね

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆ とにかく凄いんだ!捨てる神あれば拾う青野信君あり!拾おうね!

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆ 今日も沢山のゴミを拾っちゃった・・・なあ!捨てる人も注意してね


ゴミ拾いとか?してるとね?変人?貴人?まあ奇人?・・・最近青野信さんは牧師さんですか?とか医者なんですか?と問われる、何故?国家資格も無くただ医薬情報担当者であるけれども、神学校には行っていないけど神学者に習っている、東洋大学の教授、学長、そして立教大学の関正勝先生(神学者)は恩師であるし、僕は神父や牧師以上に自由に学んできた、今日カトリック司教である谷司教の説教を聴いたけど終われば「谷さん」と問うのはトマスが谷司教以上に自由だからである、



☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆ アドベント=待望を世界中のクリスチャンとお祝いしています!


さいたま司教 マルセリーノ 谷 大二さんのご紹介

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/diocese/saitama.htm

司教略歴

1953年 2月13日 兵庫県宝塚市に生まれる
1986年 3月21日 司祭叙階
2000年 5月10日 浦和教区司教に任命される
2000年 9月15日 司教叙階


歴代教区長
  1. アンブローズ・ルブラン(フランシスコ会) 1939-1940年
  2. パウロ内野作蔵 1940-1957年
  3. ラウレンチオ長江恵 1958-1979年
  4. フランシスコ・ザビエル島本要 1980-1990年
  5. ペトロ岡田武夫 1991-2000年
教区小史
 1939年1月4日、埼玉、茨城、栃木、群馬の4県は横浜教区から浦和使徒座知牧区として独立、カナダのフランシスコ会に委託され、初代知牧区長にはA.ルブラン師が就任した。1940年、同師の辞任により、内野作蔵師が使徒座任命管理者となり、1945年、知牧区長に就任した。
 1957年に内野師は辞任、同年12月16日、浦和使徒座知牧区は司教区に昇格、同年12月24日、長江恵師が初代教区司教として任命され、翌年4月13日、司教に叙階された。長江司教の辞任により、1979年12月20日、島本要師が後任に任命され、翌年3月20日、司教に叙階された。1990年3月20日、島本司教は長崎教区大司教に任命され、5月に長崎へ転任。その後、199年4月15日に岡田武夫師が浦和教区司教の任命を受け、同年9月16日、司教に叙階された。
 2000年5月13日に岡田司教は東京大司教に任命され、同年5月10日、浦和教区の谷大二師が浦和教区司教に任命された。叙階式は9月15日に行われ教区長に就任した。2003年3月31日付で、浦和司教区より、さいたま司教区と名称を変更した。

今日はさいたま司教区の谷司教の巡礼の日でした・・・礼拝を守れましたね!

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆
今日の空と・・・カトリック熊谷教会=カトリックには聖霊居ます!素敵な教会でしょ!古くって内部は立替は必要なのですけど古い良い聖霊に包まれた素敵な本当に素晴らしい毎週礼拝をする教会ですね。

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆   11・23には佐野のカトリック教会へ!日キ佐野教会も

トマス青野信は一介の人間でしかないしかし、救霊の動力があるのだ、救わない司教が居ればそれはクビだし、しかし谷司教は東北地方を巡回し被災地支援を行ってきたと言う、僕もすかいらーく社に311には居て社内から6億円の炊き出しに参加した、1000食毎日カレーうどんなどを炊きだしたのだ、会社組織は早いし、救世軍などは素早かった、しかしカトリック教会さんよ!甘い!被災地支援?本当に出来たのか?胸に手を当てるべし!被災した教会も多かった、しかし教会は建物ではなく支援センターも事務所みたいなところらしいけど何でも良い、とにかく皆が全力で被災地の支援をするべきだったし、今もホームレス的な人を救う活動を続けるべきだ、


☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


聖公会もそういった意味では甘い、救世軍がやはり今回も最高の支援だったようだ、カトリック教会はお金はあるけどしかし熊谷教会でさえボランティアは少なく、支援のお金も回っていない、問題は何か?司教に問うた!司教の名刺や肩書きが何の支援になっただろうか?311皆が小さき者とされたのだ、それぞれの手がなければ始まらなかった、すかいらーく社はすかいらーく社で最初は3億円の支援であったけど僕も社長に進言し6億円まで支援の輪を広げた、じゃあ創価学会は?立正佼成会は?新宗教は?孫正義は?お金持っている宗教家や実業家は動きが固かった、



☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆


☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆   まあ僕はカトリックでありプロテスタントなんだろうな!聖公会


まあユニクロの柳井社長も出したけどね、しかし全財産ではない、何かの利権で孫正義も疑わしかった、誰が被災地を救うのか?もっとよくカトリック教会も考えて欲しいという一日であった、パゼット・ウィルクスは英国紳士で牧師ではないけど日本宣教の重要人物だ、一人の人が動けばそれは司教とか牧師とか超えて日本にキリスト教が根付いたのだ、救霊の動力・・・是非全文を掲載したお読みいただきたいのだ、


☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆

全てのクリスチャンに告ぐ!今こそ救霊の動力を!回しましょう!そして311被災地支援は冬終わりませんよ!


☆天国への眩暈(めまい)☆平和と愛☆PEACE&LOVE☆ 霊的?な写真でしょ?


今311貴方に何が出来るだろうか?忘れては居ないか?東北を、神戸を!奥尻島を!まあ被災地を忘れない事、10円でも20円でも良い、出来るだけの今=全財産を寄付して欲しい!以上 僕の財布は今ゼロだ!まあ活動費は足りていないのだ・・・。動き過ぎだけどね、まあ仕方ない、今日も救世軍だ!神の僕へのミッション=使命は=チャリティ=慈愛だ!




*******************************************


救霊の動力~パゼット・ウィルクス先生


中田重治 、パゼット・ウィルクス、三谷種吉 、1902年

パゼット・ウィルクス(A.Paget Wilkes,1871 119 - 1934 105日 )は日本で活躍したイギリス人 の宣教師 、神学校教師。日本伝道隊 創設の中心的人物。イギリス国教会 の正規の牧師ではなく、立場的には信徒として来日した。


生涯


1871119日イギリス のサフォーク州で英国国教会の牧師の次男として生まれる。

高校時代に、FB・マイヤー の集会で回心 した。

オックスフォード大学 リンカン・カレッジで学ぶ

1996714日ガートルード・パーリーブと結婚

1897926日英国教会宣教会 (CMS) 宣教師としてバークレー・バックストン の招きに応じて、来日。島根県 松江市 でバックストンと共に伝道活動をする。

1903年 イギリスの休暇中に参加したケズィック・コンベンション にて、バックストンと共に「日本ワンバイワンミッション」(後の日本伝道隊 )を結成する。

1904年 日本に戻り神戸で竹田俊造 、御牧碩太郎 、三谷種吉 らと共に、日本伝道隊の活動を開始する。日本伝道隊の主幹になる。

1905年 日本伝道隊の本部を神戸に移して、伝道活動を行う。神戸の湊川に伝道館を開設する。(柘植不知人 、安藤仲市らを輩出)

1931年 イギリスに帰国。

1934105日イギリスで死去


人物像


三谷種吉から日本語を教わるが、わずか1年で日本語の説教ができるようになる。最初、宣教師としてアフリカへ行こうと思っていたが採用されず、1週間後にバックストンから招待があったので日本に行った。


著書


創世記講演

『創世記講演()()(大江邦治筆記) - バックストン記念霊交会 - 大正11

『羅馬書講演 (Notes of Romans)』(米田豊筆記)- 聖書學舎出版部 - 1931

『救霊の動力』(沢村五郎訳) - バックストン記念霊交会 - 1935

『信仰の動力(The Dynamic of Faith)(大江邦治筆記)- バックストン記念霊交会 - 1951

『聖潔 (Sanctification)(大江邦治訳) - バックストン記念霊交会 - 1951

『贖罪の動力(The Dynamic of Redemption)(大江邦治訳) - バックストン記念霊交会 - 1952

『ウイルクス説教集 (第壱集)(小島伊助訳)- バックストン記念霊交会 - 1954

『ウイルクス説教集 (第弐集)(大江邦治訳)- バックストン記念霊交会 - 1954

『基督者生涯の動力(The Dynamic of Life) ()()(大江邦治訳)- バックストン記念霊交会 - 1958

『パゼット・ウィルクスの日本伝道日記』(阿部赳夫訳) - いのちのことば社 - 1978

http://web.mac.com/biogeochemistry/sacellum/service/chapter_0.html



THE DYNAMICS OF SERVICE⑭~ALPHAEUS NELSON PAGET


救霊の動力~A・パジェット・ウィルクス


第十四章 結  論


 
 『御霊と知恵とに満ちた‥‥‥信仰と聖霊とに満ちた人‥‥‥ステパノは恵みと力とに満ちて』(使徒行伝六・三、五、八)

 今はよく代用品を使う時代である。質よりも量をもってする危険な傾向がさかんである。人々をもって一人の人に、組織をもって聖霊に、教育をもって神の恵みに、金をもって霊力に、いわゆる品性による救いをもってキリストによるあがないに代えようとしているのである。
 活動と企業力は、商業や政治やこの世の社会においてのように、神の国でも成功の源であるとされている。
 むかしバチカンにおいて壮麗と華美に包まれた法王が、トマス・アクイナスを顧みて得意そうに言った。「ペテロの時のように、金銀はわたしにはない、と言う時代はすでに過ぎ去った」。トマスはすぐに答えて、「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい、と言う時代もすでに過ぎ去った」と答えた。
 前の各章において、わたしたちは救霊の成功に必要な事柄を考えてきた。方法、伝えるべき言葉、診断上の注意、人と事柄についての知識、聖書と実験を通して人の心を学ぶこと、確実に取り扱うこと、中心をそれないこと、即刻の救いの可能なこと、人の良心に訴えるために必要な選択はそれであった。
 そして実例を挙げて聖書の真理を証明してきた。おそらくこのほかにも多くの必要な問題が思い起されるであろう。
 しかしすべての題目の中の中心点にはまだ触れなかった。この聖にして恐るべき、また幸いな仕事を成功させる秘訣の中で、最高でしかもいっさいを含むものは聖霊である。聖霊なくしてわたしたちは無である。彼だけが罪を悟らせることができる。彼だけがキリストとその贖いのための犠牲とを啓示することができる。彼のみ、諭し回心させる神の大能であられるのである。
 どんな方法もまた説教も、これを設けまた説く人自らが聖霊に満たされていなければ効果がないであろう。ここに救霊者の大きな秘訣がある。それゆえ、わたしはこの書を終わる前に、すべての題目の中で最も重要なこのことのために、幾ページかを費やしたいと願う。剣を握る手、ペンを走らせる頭脳、手を動かす心、言葉をださえる愛、これこそ傷つけまた癒し、語りまた救う力である。そしてこれに力を与えるものはただ生ける神の霊のみである。
 わたしは東方のある町に行っている熱心な信者の実業家を友人として持っている。彼は一人の米国の宣教師に接して個人の救霊の必要を痛感した。彼はまず自分の心と生涯をそのために備えようと努めた。そして多くの処置すべき事柄を見いだした。何通かの赦罪状も書かなければならなかった。彼は堅い決心をもってこれに当たり、いよいよいっさいが処置されたと考えられた時に、数名の同信の友人を集めて伝道を開始した。
 彼はあらゆる個人伝道法を研究した。聖書を学ぶために、手に入る限りの書物も読んだ。そして滅んで行く魂を救うために出かけた。彼は友人と冬中このような研究と働きに過ごした。そしてその終わりに集まって語り合ったが、それは失望と困惑のみであった。つまり彼らは一人も救うことができなかったのである。彼らはこのように熱心でしかもそのために労を惜しまなかったのに、何も得るところがなかったのは何のためであったろうか。
 ほとんど絶望に陥ったが、更に心を励まして、力の秘密がどこにあるのかを発見しようと決心した。彼は聖霊について何週間か学んだ。それは、力がただ神に属するもので、それは聖霊であることに気付いたからである。しかしここでも危うく道を誤りそうになった。それは彼の心に、回心当時から一つの非聖書的な考えが潜入していたのである。すなわち、新生してからあと、『上から力を授けられる』ことなどあるはずがない、エジプトを出たら直ちにそれが約束の地であって、ことさらに約束の地などというものが天国に行くまでこの地上にあるはずはないというのである。
 しかし、祈りと忍耐深い研究とによって神の力の道を捜し求めているうちに、ガラテヤ人への手紙三章十三、十四節を見いだした。さながら啓示のように彼は信仰の道を見いだした。そして謙遜な飢え渇いた心をもって断乎として信じた。その日その時こそ、彼にとっては記念の時となった。慰める者は彼の心に来て住まったのである。彼は解き放たれた鳥のようになった。キリストはその内に啓示され、彼の心はきよくなった。生ける神の宮は、今その正当な主権者をその宝座に迎えたのである。彼は聖霊に満たされた。
 たちまち生ける水は、神と小羊との宝座から流れはじめ、その日から彼は救霊者となった。
 ステパノおよびその他の執事たちが、その選びの条件は聖霊に満たされているということであった。その満たしは四重の言葉をもって言い表されている。『知恵の満たし』『信仰の満たし』『恵みの満たし』『力の満たし』の四つである。しかしこれこそ救霊者の四つの大きな秘密である。今その順序に従って考えてみよう。

     知恵の満たし(使徒行伝六・三)

 ソロモンが王位に就いたときに「聞き分ける心」を神に求めた。そして箴言の初めの八章は、その幸いな讃美すべき経験についての彼の個人的なあかしである。その民を治め導き、同情し、愛し、弱い者を助けるために、彼は真理の霊なる聖霊を要したのである。それが憐れむべき遊女であっても、あるいはまたシバの女王であっても問題ではなかった。彼は聖霊によって慰め同情し、そしてすべての者に対してその豊かな知恵を流し出す心を与えられたのである。
 まず第一に、これは確証された知恵である。聖霊はわたしたちが読みまた信ずる恵みについて、わたしたちの意識に確証を与えられるのである。これによってわたしたちは、わたしは知っている、と叫ぶことができるようになる。キリストはただ神の知恵として宣べ伝えられるだけでなく、またこのようなお方として経験することができる。これは真理と言っても、理論的な冷たい固い納得しにくいものでなく、これは直覚的な確信の知識であり、神の霊の証印である。これこそ反論できない知恵であって、神と神の遣わされたキリストを知らしめ、わたしたちが死から命に移ったことを知らしめ、主の恐るべきを知って人々を説得せしめ、わがうちに善の宿らないことを知らしめ、すべてのことは神を愛する者のために万事を益となるようにしてくださることを知らしめ、委ねられているものをかの日に至るまで守ってくださることができると確信させるものである。
 第二は、洞察する知恵である。わたしたちは人の心を見破る力を与えられたことを自覚するようになる。
 ウィリアム・ブラムウェルの伝記の記者は言った。「わたしはかつて彼のように人の性質と聖霊の働きについて深く正確な知恵を持った人に会ったことがない」と。もし聖霊に満たされた救霊者としての成功者を前世紀に求めるならば、その第一人者は、ウィリアム・ブラムウェルであった。
 これこそ笛を吹いて踊りかつ悲しむ時を知り、義とされる知恵である。
 第三に、これは神の言葉をどのように用いたらよいかを知る霊感の知恵である。ステパノのように、わたしたちの知恵も聖書の聖言に基づくものでなければならない。わたしは祈りにおいても説教においても、また個人の導きにおいても、神の言葉がさながら掘り抜き井戸から水があふれるようにその心から流出して、口からほとばしるのを聞いた。神のみことばは聖霊に満たされた人によって語られるときに特別に適切でかつ力強く響くのである。わたしは聖霊がその宮においでになるとすぐに、どんなにすばやく神の言葉を、すべての知恵を用いて豊かにその心に住まわせられるかに驚いている。もし伝道者たちがこのように富ませられて救霊のわざに用いられていることを見られるなら大きな喜びである。心と頭脳と舌とが急に神の言葉に満たされたかのように見えるのである。ここに救霊者の知恵の秘密がある。
 同様に祈りにおいても、聖霊に満たされた者は、自動的に神の言葉を自由に用いて神に語るのである。祈りも讃美も、聖霊がわたしたちに与えて下さった聖書の言葉によって言い表される時、最も力強く、また調和があるのである。
 最後にこれはあかしの知恵である。真実のあかしは魂を解き放つ。一グラムのあかしは百キロの説教や理論よりも魂を回心させるのに有効である。
 主の弟子たちは各方面にあかしのために遣わされた。それこそ多くの男女が見また聞こうと願うものである。聖霊に満たされた者は、あのサマリヤの女のように、主イエスがなして下さったこと、またなしておられることをあかししようと常に待ち構えている。十二人の神学生はその日スカルの町に行って弁当を一つ主のみもとに携えて来たに過ぎないが、このあわれな救われた女は、そのあかしを携えて町に帰り、町中の人を主の御足のもとに携えて来た。これこそ何人も拒むことのできない真の知恵である。『ただ一つのことだけを知っています』とは幸いな知識また幸いな知恵である。『わたしは盲人であったが、今は見えるということです』と、あかしの木の葉は決してしおれずまたその色もあせない。常に緑の色が満ちて、すべての国の民をいやすことができる。
 わたしは異教の人々に、これについてなお多くのことを語らせたいと思う。その言葉は、より多くの力がある。主は常に異国の民の実例をもってその民を教えられた。シバの女王、ニネベの民、ザレパテのやもめ、癩病のナアマン、ソドム、ゴモラ、スロ・フェニキアの女、ローマの千卒長の物語は、神の民の悔改と信仰を励ます材料として用いられる。わたしたちにも主の採られた方法を用いる以上のことはない。次の物語はわたしの言おうとしていることを適確に例証する。T氏は長い間ドイツ神学で満足を得ようとしていたが果たすことができず、聖霊の知恵に満ちたひとりの人を見て、自分の愚かさを悟った人である。そして彼はその人にならってこの知恵を得た。以来二十年、今もなお知恵と信仰と恵みと力とに満ちてご奉仕している。彼は語る。

 『わたしは十六歳の時、大阪で米国の監督教会の一宣教師によって洗礼を受けた。数年後、イエス・キリストの十字架による罪のゆるしの恩寵について聞かされ、それをそのまま受け入れて大きな喜びをその心の中に経験した。しかしまだ聖書的経験が自分のものとなっていないことを知り、これを得るために熱心に求め始めた。わたしはガラテア人への手紙二章二十節を主の前に持ち出してひたすら祈ったことを記憶している。しばしばわたしは熱心に叫び求めたが、それによって何も得られなかった。ついに失望して、ほかの極端な道を求めるようになった。わたしは京都の神学校に入学した。そこでわたしは、高等批評とドイツ神学とに毒されてしまって、全くの暗黒に陥ってしまった。わたしは主の御前より捨て去られるところであったが、ちょうどその時、神はその使者バックストン師を遣わされた。師は特別集会のために学校に招かれて来られたのである。五百の生徒のために来られたのであるが、神はわたしひとりを救い出すことをよしとされた。師は聖霊の力によって語った。「聖書はこう言っている」とか「神は言われる」とかいうような調子にわたしは全く共鳴できず、聞くのもいやになっていた。しかし師は真理に堅く立ち、聖霊によって語られ、その一言一言は天の熱心に燃えていた。集会は四日続いた。わたしはこのような霊的実在に触れたことはかつてなかった。そして、自分の生命のない状態を深く示され、この生命こそ私が長い間求めているものであることを悟った。わたしが師を訪ねると、ちょうどわたしがかつて求めていたガラテア書二章二十節を示され、「あなたはこれを経験しましたか」と問われた。「これがわかるか」ではない。師は私の経験を探られたのである。わたしは「いいえ、しかし求めています」と答えた。師はそれ以上語られなかった。ただ聖書をよく学ぶように勧められた。深く感動したわたしは、生涯の方向を変える決心をした。それはわたしにとってかなり重大な問題であったが、わたしは学校をやめて松江に行った。そこで聖霊による聖書の講義を聴き、それによって確実な恵みに導かれた。しかしわたしはまだ不十分である。恵みの門の外に立っている。しかし十月十四日、修養会のある夜、エゼキエル書四十七章の生命の川が、説教の中に示された。それは驚くべき時であった。聖霊は働いて、多くの者は砕かれ熔かされ、主の御名を讃美しながら叫んでいる。それは当然なことである。しかしわたしの心の中には何の反響も感じられない。わたしはまだその圏外にあることを鋭く示された。その夜はそのまま退いて床に就いた。そして朝の四時に目がさめて起きて見ると、ひとりの友人がわたしの床のそばで祈っている。彼は徹夜でそこで祈っていたらしい。わたしもまた部屋を出て山に登り祈ったが、全く砕かれ、涙の中に溶けていくばかりであった。わたしはこうして熱心に恵みを求めた。しかしその涙も告白も真の恵みではないことがわかった。砕けた心が直ちに救いとなるのではない。何も実質的なものが与えられない。数時間の砕けた熱心な祈りのあと、またしても失望してしまった。しかしなおも主よりの恵みを求めることをやめなかった。わたしは献身と断食によってこれを得ようと思い、それを受けるまでは山を下るまいと決心した。わたしは更に山の上に登って行き、履き物を脱いで大地に伏し、いっさいを主の御前に投げ出した。わたしは永遠に主に受け入れられた確信を得たいと待ち望んだ。わたしは午後の二時から夜の十一時まで待ち望んだ。その前の日から食事は少しも摂らなかった。しかしまだ答えは来ない。ある時はいっさいを壇上に献げた。しかし次の瞬間にはまたこれを取り戻している。何の変化も来ない。何度も何度も空しくただこのようなことを繰り返すだけである。わたしもとうとう疲れ果てて、もう山を下ろうという思いに誘われ始めた。しかしちょうどその時、一つのはっきりした声を聞いた。「そのためにキリストはご自身をささげてあなたのために死なれたのだ」と。おまえが自分をささげることができないために、ご自身が完全な献げ物としておまえの代わりになられたのだ。彼により彼にあってわたしは受け入れられることができる。そうだ、受け入れられたのだ。これはあまりにも単純すぎるように思われた。このように長い間の切望と期待を満たすのにはあまりにもあっけないように思われた。しかしそれは極めて明白である。天よりの個人的な談話のようであった。これ以上の光は受けることができない。そこで裸の信仰をもってしっかと握り、何の感情もなかったがそのまま家に帰った。しかし、それは驚くべき恵みであった。翌朝目がさめると、部屋には太陽の光線が満ち、わたしの心は天の光で満たされていた。
 神は真にしてきよく、忠信にして恵み深くいます。その後、ほかの兄弟たちと一室にあって恵みの満たしを受けるために待ち望んでいたとき、主はわたしの中から敵のわざを破壊された。わたしはどんなことにもどんな価を払っても従おうと決心した。主はわたしに一つの罪を告白するように導き、またその力を与えられた。そして神と人との前に告白した時、聖霊は驚くほどにわたしの心に臨んでくださった。その夜、神の臨在はわたしを圧倒し、わたしのからだは破れるほどで、わたしの骨は砕けるほどであって、実に苦しかった。しかし彼の愛はわたしの中に溢れた。その慰めはわたしの心のうちにまでしみ通った。わたしは主の愛に満ち溢れた。わたしは長い年月の間、偽りの心をもって主を憂えしめて来た。しかしついに彼は勝たれた。わたしは無知と不従順のために何度か失敗したが、常に信仰の中に保たれ、主は血により聖霊によりわたしを引き返し、以来二十年、常に聖潔の中に保ってくださった。

     信仰の満たし(使徒行伝六・五)

 聖徒が聖霊に満たされた証拠の中でこの一事は極めて確かである。しかし信仰の満たしはただ聖霊に満たされた者だけに来る。神を信じようとする努力やもがきは過ぎ去って、恒久的な安息と確信とが心に満ちる。時には露のように穏やかに、糸のように弱く見えるかも知れない。しかしそれは常に甘く力強くまた確かである。
 キリストの中に意識的に宿ると言えば、その気持ちをよく言い表すことができるであろう。安全の感覚と、一方に神聖な信頼を失うことを恐れおののく気持ち、すなわち逃れの町から迷い出て、大いなる血の復讐者である律法にもう一度捕らえられることを恐れるきよい恐怖の感覚とが入り乱れて働くのである。
 これは信仰の祈りから流出する内心の状態である。
 しかし信仰の満たしはもちろんそれ以上である。それは自分のためだけでなく、また他人のために信ずる力をも意味する。
 多くの人は自らの霊的生活の秘密としての信仰を知っているが、しかしその奉仕において結果を生み出す手段としてまだこれを経験していない。これがなくては主はわたしたちのために働かれることができない。彼はわたしたちが、活動的に意識的に積極的に信ずることを待っておられる。わたしは英国に帰ったとき、北の或る教区で集会を持ったことを思い出す。そこの牧師夫人は非常に恵まれた人であった。主イエスは恵み深くも彼女にご自身を黙示された。彼女は愛と喜びと平安とに満たされた。そしてその奉仕の上に神の力が現れ、魂は続々と救われ恵まれるものと思った。しかしそのような結果をほとんど拝することができなかった。彼女は困惑と失望をもってわたしに手紙でその理由を聞いて来た。わたしはそこで次のような返事を書いて送った。「主は、わたしを愛する者はその腹から生ける水が川となって流れ出る、とは言わなかった。わたしを信じる者は、と言われたのだ」と。
 その後まもなくひとりの宣教師は同じようにその奉仕に結果のないことをいぶかってわたしのもとに来て、自分は信仰に満ち、安息の地に入って主の絶えることのないご臨在を楽しんでいるにもかかわらず、その奉仕に実のないのはなぜであるかを聞いた。わたしはこのことのために信仰を活用すべきことを告げた。救いを与える信仰、聖潔を与える信仰は必ずしも自動的に奉仕の結果をもたらすものではない。わたしたちは救い主、きよめ主として神を信ずるだけでなく、また大能の働き主として神を信じなければならない。あがないのために払われた価であるキリストの血に対する信仰を他人のためにも働かさなければならない。このような信仰の必要を悟らない救霊者は、おそらく他人を信じさせることはできず、その結果として常に失敗を悲しまなければならないこととなるであろう。チャールズ・フィニーについて以下のようなことが言われている。

 『マーン総長は言う。この点においてフィニーはその最初の奉仕において失敗したのである。彼は罪人に全く罪を捨てさせ、過去のすべての不従順を正し、主イエスに全き献身をなさしめることにあまり成功しなかった。彼は魂をして、以後神に従う誓いをもって出発させたが、現在その心をきよめ聖霊に満たされるために主イエスに依り頼むことについては何も教えなかった。わたしたちの誓いは、聖霊が焼き尽くす火としてその心に臨み、全き愛をもって満たされるまでは、一本の砂の縄と同じようである。マーン氏は言う。フィニーが更に完全に主の道を学ぶまでは、彼ぐらい信者を厳しく訓練した者はない。リバイバルのあとに堕落者の多いのに驚かされて、彼の努力はキリスト者に堅実で霊的な生活を送らせることに集中された。それをなすために、彼はただ一つの方法だけを心得ていた。全く罪を捨てることと、神に対する献身と服従である。受けるところの信仰については一言も語らない。例を言えば、彼がニューヨーク教区を牧していたときなどは、数週間引き続いて信者の信仰完成のために特別集会を営んだ。彼の教会員のように厳格な取り扱いを受けた者はなかったであろう。数年ののち、そのほかの牧師の語るところによれば、このような取り扱いを受けた者のうち、ただ一人でもその内部の弱さからいやされた者はなかったという。これがフィニーから厳格な取り扱いを受けた結果だったのである。彼がオバーリンに行って教授の職に就いた時、彼は自分の職を完成すべき絶好の機会を与えられたことを自覚した。
 彼の前には前途ある神学生が、教師の知恵に信頼し、どんな教訓にも聴き従おうと待っている。彼は長い間、罪を捨てることについて、神に対する献身について、また服従について深刻に取り扱った。彼らはその教導と奨励とに従って、力の限りを尽くして罪を捨て、献身と服従に励んだ。その結果得たところは大同小異であった。新生命と喜びと平安と力とを期待したのに、かえって罪と死のもとに縛られ苦しめられることとなった。集会は初めから終わりまで、告白と罪を捨てることと厳粛な献身と服従の誓いが繰り返された。たぶんさらに深い決心をもってこのことがなされたであろう。しかしすべての集会は相も変わらぬ哀歌をもって結ばれた。
  我らはここにうち伏して仰ぐ
   帰れ、きよきはとよ、帰れ
 そして彼らが立ち去る時は、喜びの歌ではなく、そのうめきが聞かれた。
 彼らは力を極めて義の律法を求めたが、しかしこれに追いつくことはできなかった。なぜであったろうか。彼らは信仰をもってこれを求めず、律法の行いによったからである。それは自ら作り出せる努力と決心とであった。
 ああしかし感謝なことに、彼はついにさらによいことを学んだ。救霊者は彼の実例によって益を受ける。悔い改めた者はたとい全く罪を捨て、完全に主に献身し、すべてのことにおいて主に従い、すべてのことを是正することができたとしても、それはただ人間の側だけである。神の側のお働きである、心をきよめかつ聖霊を満たすわざをなして下さるように、彼を仰いで信ずることが重要である。彼らは慰め主がそのきよめ慰める力をもってその心に来られるまで、喜び信じ戦いつつ祈り続けなければならない。彼らは上より力を授けられるまではエルサレムにとどまっていなければならない。彼らは、神が地上の父にまさって、求める者に聖霊を与えようとして待ちわびておられるお方であることを覚えて彼を信じ、そして聖霊を受けなければならない。』

 ウィリアム・ブラムウェルは言う。「あなたの信仰のわざを土台とするのでなければ、神は決してその契約を守って下さらない。この信仰は時計の振り子のように、常に活動しながら全心を動かしておらなければならない。あなたの信仰の増し加わるに従って、よりすみやかに昇ることができ、より速く走ることができ、より多く労し、より多く愛し、より多く喜び、より大きな歓喜をもって杯を飲むことを得るであろう。」

     恵みの満たし(使徒行伝六・八)

 主イエスが聖霊に満たされて会堂で語っておられるとき、人々はその唇より出る恵みの言葉に驚いたと記されている。彼は恵みに満ちておられた。恵みの満たしは、その言葉が恵みに満ちていることによって明白である。ある者は生まれつきのはなはだ粗雑な性格やその態度を正そうとして戦っているかも知れないが、神の恵みはこれを変貌させることができる。ジョン・ウェスレーは、神の恵みを受け入れた人で、その様子が変化しなかった例を見たことがないと言っている。
 恵みの満たしは、わたしたちの伝える使命の言葉に表れる。恵みは常に「今」と言う。恵みはどんなに悪い者にもなお望みをつなぐ。恵みは救いが神よりのものであることを現実にし、その即時の救いを明らかにする。恵みに満たされた者の目に、主イエスは極めて大きく映る。彼は常に与え祝福しようとしておられる救い主について語ることを喜ぶ。恵みは常に、神がわたしたちを祝福されることはたやすいことであると言う。恵みは叫ぶ。『あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』『きょう、救いがこの家にきた』『あなたが耳にしたこの日に成就した』『すべての用意ができました。さあ‥‥‥おいで下さい』と。確かに福音の宣伝者が恵みに満たされているかどうかは、容易に知ることができる。
 しかし恵みの満たしのもう一つの様式についてわたしは更に詳しく語りたいと思う。それは心の純潔である。近頃は奉仕の力について多く語られている。多くの人はこれを求めた。そして失敗した。それは彼らの目が力をむさぼっていたからである。神はしばしば恵みをもってこのような危険な賜物を与えることを拒まれた。恵みに十分に浸されていない魂は、力のために頭ばかりが重くなり、よろめき倒れてついに永遠の破滅に至ることがしばしばである。
 他の人々を感化し、これに祝福を与えるために用いられることは、極めて危険なことである。昔のシモンは、心をきよめる聖霊の内住を求めず、ただこれを他人に分け与える力だけを得ようと願った。このような危険は、救霊者の身辺に極めて近くつきまとっていることに気付かない者が多い。
 ここでも一つのあかしを引用したい。彼は日本での教育を終わり、のちに米国の有名な大学で五年間も学び、そして大教会を牧会するために帰ってきた。彼は神学にも哲学にも優秀な成績を上げたのであったが、しかしそれは何の力ともならなかった。彼は次のように語っている。

 『わたしはその当時、キリスト者生涯というものは極めて平凡なものと思っていた。聖書の尊い教訓も約束もただ眺めて黙想する美しい絵のように感じ、自分たちの実生活には何の関係もないように思われた。事実、わたしの日々の行動には何の感化も及ぼさなかった。昨年の暮れ、わたしの旧友できよめ派の指導者のひとりであるT氏に出会うまではこのような状態にあったのである。わたしはそれまで数年間T氏に会っていなかった。わたしはもちろんその会見を喜んだが、しかしわたしたちは全く別の世界に生きていることを知った。お互いの話がいっこうに調子が合わないのである。彼は天のことを語っているが、わたしは地に属している。彼は確かにわたしが長い年月求めて得られなかった喜びと慰めの生命を持っているように思われた。わたしは彼の持っている恵みに対して非常な渇望を起した。このような状態で数か月を過ごしていた時、W氏に紹介された。わたしがどのようにして神よりの力を得たらよいかと質問したのに対して氏は答えた。「力は危険なものだ。神は嫉む神である。神はきよくない心に力を与えられることはない」と。この言葉は剣のようにわたしの心を刺し貫いた。わたしは以前よりも更にみじめになった。氏はキーン博士の本をくれた。わたしは二週間というものは何度か繰り返して読んだ。わたしはいよいよ渇いてますますみじめになった。十二月一日、わたしはその書を携えて神を求めるために野原に出た。わたしはわたしの心に神が満足を与えて下さるまでは帰らない決心をした。おお、いかにわたしは神と争ったことであろうか。あるいは読み、あるいは考え、そしてまた祈った。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と叫びながら暫くの時を過ごした。ちょうど朝の九時三十分、キーン博士の本の中の一句が目に留まった。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」。突然光がわたしの心に照り込んだ。わたしは思った。そうだ。イエスはわたしの信仰の創始者であると同時にまた完成者であられる。わたしの信仰を完成するのはわたしではなく主イエスである。わたしは何もしなくてよいのだ。主イエスこそいっさいをなして下さる。ただ彼を仰ぎ、そしてあなた自身とあなたの持てるいっさいとをその御手に委ねなさい。全く彼に従い、全身全霊を彼の祭壇に置き去りにしなさい。祭壇はあなたを全くきよめる。主イエスよ、わたしはあなたのもの、全くあなたのものです。このままわたしを受け入れ、そして御旨にかなうものとして下さい。わたしはひざまずいて更に三十分間祈った。起き上がった時は、わたしの重荷は去り、心は軽くなり、一時間前とは全く変わった者にされ、わたし自身を疑うほどであった。その時その所でわたしは聖霊を受けたのである。』

 これは数年前の出来事であるが、彼は今もなお各地を歩いて、あがないの血、求めし愛、全き救いに至らされた恵みを宣べ伝えているのである。
 聖霊に満たされた者は常に力のバプテスマについて語りまた考えているのではない。そうではなく、むしろ彼をちり灰にへりくだらせ、自ら無でありまた無一物であることを常に自覚させる恵みに満たされているのである。彼は自ら用いられることよりも、神の栄光の崇められることを願っている。彼は「わたしを用いて下さい」と祈らないで、「わたしを用いられることのできる者にして下さい」と祈っている。
 キリストにある神の恵みと慈しみの感覚は極めて著しく、他人を助けることの特権はいかにも尊く覚えられ、時とわざとを神にささげるなどということはおこがましいように感じられている。ああ、わたしたちの多くはあの高楼で礼拝をしている。多くの人はあの飾られた偶像にうち伏しているが、恵みだけでなく、すべての力もまた一夜の夢のように消えていくのを発見するだけである。多くの者はデリラの膝に眠っている。目ざめた時はペリシテ人の権力下に捕らわれているのである。彼は他の人のように弱くなっていることを悟るであろう。
 ご自身の代わりに神のよい賜物を楽しもうとすることは恐るべき誘惑であって、それによって彼らのわなに陥っている。かつて善きヒゼキヤも、神が彼に与えて下さった賜物を誇って割礼のない者の前に示した。力は偶像であった。かくて恵みは蔑せられ、彼らは悩み、貧しく盲目となり、裸となったのである。

     力の満たし(使徒行伝六・八)

 知識は力であり、聖潔は力であり、信仰は力である。しかしここに特別な意味で力とされているものがある。これは知恵、純潔、信仰の力と異なり、さらにまさったものである。
 力といえば、多くの人は直ちに、罪人に罪を悟らしめ、かつ悔い改めさせる、明快で鋭い講壇上の説教と直結して考える。そうであろう。多くの場合そうであるに違いない。もちろんペンテコステの日に罪人を刺し通す力は、堂々たる大説教によってではなく、率直なあかしを通してであったことも記憶しなければならない。
 しかし神のみことばを学ぶ時、これよりも異なった型の力があることを発見する。耐えかつ忍ぶ力(コロサイ一・十二)、内なる人を強くして下さる力(エペソ三・十六)、神と共に歩みかつ働こうと欲する者が、その内なる人を強められておらなければならないことは極めて明瞭である。
 詩的、哲学的、社会的、政治的なキリストは、熱した頭脳と夢見る頭の中に宿すことができるかも知れない。しかし真実な活けるキリストは、ただ謙遜な心にのみ来て宿ってくださる。そしてわたしたちを通して罪人を救おうとされる。このような場合、わたしたちが聖霊の力に満たされておらなければならないのは当然である。
 しかしここに引照した聖句を見れば、さらに別に力を語っているように見える。それはイエスの名によって奇蹟を行う力である。
 一方聖徒としての生活を営んでいる人でこの力を持っておらないのは、他方別の力を驚くほど授けられているものがある。日本の教役者の中にも、極めて少数ではあるが、神癒の賜物を持ち、病人のために信仰の祈りをささげる人がいる。偏見なく使徒行伝を読むならば、使徒たちがペンテコステの時に受けた力は、主として祈りによって神の御手を動かす力であったようである。この力についてわたしは語りたいと思う。すなわち祈り続けて勝ち抜く祈りの力である。
 これにもまさって聖霊に満たされた確かな証拠はない。
 ひとりの校長が、聖霊に満たされることを求めてわたしのもとに来たことがあるが、わたしたちは二時間も聖書をともに読みまた話し合い、そしてひざまずいて祈った。彼はその時聖霊を受けて喜んで帰った。少し後で彼に会ってその経験を尋ねると、彼は答えた。第一に、今までかつてないほどに神のものになったという確信に満たされた、と。すなわち彼は信仰に満たされたのである。第二に、神のみことばが実に新しくすばらしく、読まないではいられないようになった、と。すなわち彼は知恵に満たされたのである。第三に、祈ることが楽しみとなり、他人のためにとりなすのに非常な確信と自由ができた、と。すなわち彼は力に満たされたのである。ウィリアム・ブラムウェルは言う。「一つのことが重要である。それは祈り続けることである。この道に精進しなければいっさいは失敗となる。できるだけ多くの時を祈りに費やし、できるだけ熱心に祈れ。期待をもって約束を仰ぎ、祝福のために信ぜよ。この義務のために力強くあれ。あなたは祈りを怠るように強い誘惑を受けるであろう。祈りに身を献げない者に対しては、サタンはその権力を常に持ち続けるのである」。
 祈りの力のない者は救霊者となることができない。人に対して力ある前に、神に対して力のある者でなければならない。ここにもまた一つの実例を記したい。

 『最も著しい祈りの応答の一つは、わたしが内なる罪からきよめられて約束の地に入れられた直後のことであった。わたしは幾年かの間、ひとりの妹を尋ねていた。彼女はひとりの陸軍士官に嫁いだのであるが、虐待のためにヒステリーになり、ついに白痴になってしまった。わたしは彼女の世話をしていたが、ある日姿を隠してしまった。以来二年の間何の手がかりもなかった。聖霊のバプテスマを受けた直後、祈りに大きな確信を得、もうひとりの信仰の友と共に妹のために夜半まで祈り続け、確かに見つけて連れて帰ることができるという確信を与えられた。
 それから二十四時間も経たないうちに、西の方に縁づいているほかの妹から電報が来た。見れば彼女が広島の救護院にいるとの知らせである。急いで行って見れば全くやせ衰えたありさまである。医者はとうてい生き延びることはできないと思い、だれか引き取る者がないか尋ねてみたが何もわからない。ただ「宮内のハセ」とそれだけを繰り返している。それが所の名か、人の名かもわからない。
 わたしの行く二日前、偶然ひとりの車夫が来て、それが自分の郷里から数里先の所の、自分のよく知っている人だと知らせた。
 それが彼女の姉で、わたしに電報を出した妹だったのである。
 彼女はわたしの声を聞くなり、戸を押し破るようにして飛びついてきた。わたしはそのいじらしいありさまを忘れることができない。それと同時に、祈りに答えて下さる神の恵みも讃美せずにはいられない。彼女は今もわたしの家にいる。からだも回復し、愚かではあるが、キリストの恵みを受け入れることができるようになった。わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さるわたしたちの神は頌むべきかなである。』

 これこそ祈り続け、祈り抜く力であって、すべての霊力の源泉であり、救霊における成功の秘訣である。
 これが聖霊に満たされたしるしである。救霊者は密室で祈ることをしなければならない。ただ退いて神の御前に心を注ぎだしてとりなし訴えなければならない。これこそ成功の秘訣である。神が聖霊を注いで知恵と力と勇気と希望と信仰と、時と霊との識別力とを与え、民に伝うべき燃えて輝く使命の言葉を授けてくださることを祈り求めるため、静かに神を待ち望むにまさって重要なことはほかにない。何ものもこれの代用とはならない。
 ひそかに神と交わり語り議するにまさる成功の秘訣はない。彼は父にいますゆえ、決してわたしたちを退けることはないであろう。さながら戸を開いて照りわたる陽光がわたしたちを包むように、天の父は信じ従うその子らを必ず顧みて下さるであろう。
 祈りの人だけが力に満たされている。聖霊に満たされた人だけが祈りの人である。
 この書も結末に近づいたが、わたしの切なる祈りは、この書を読まれる若い伝道者たちが教理や方法や奨励によって備えられることにまさって、神ご自身のみに属する力によって備えられることである。収穫場の必要は、多くの人でもなく、金でもなく、教育でもなく、頭脳の力でもない。もちろん組織や方法では決してない。必要なのは霊的指導者である。そしてこのような指導者は進級によって作られるものでなく、ただ多くの祈りと涙と罪の告白と、反省と謙遜と、任せることと、すべての偶像を投げ棄てる大胆と、倦まず臆せず十字架を負うことと、常に釘づけられたイエスを動揺することなく仰ぐことによってのみ作られるものである。
 「霊的指導者は、人によっても、人々の会合によっても作られない。また年会や評議会や宗教会議によっても作られずに、ただ神によってのみ作られる」。
 もしわたしたちが日々に聖霊に満たされてさえいるならば、年をとってから落伍する恐れはない。筆者は更に言う。
 「わたしは神に満たされた幾多の老人を知っている。彼らは若いときに迫害を受けた。しかしいつも地の塩となって四囲に味をつけた。彼らの弓は強くあり、彼らの太陽は日の真っ盛りの輝きをもって照っている。彼らは人々をして傾聴させる神からの言葉をもってこの世を満たした。長い奉仕と経験とがあなたを落伍から救うものでないことを知らなければならない。ただあなたのうちにいます神がこれをなされる。神は常に新鮮であられる。人の要するのは神である」。
 滅んで行くこの世の最大の要求は、知恵に満ち、信仰に満ち、恵みに満ち、力に満ちた人々である。このような人こそ神の求められるもの、このような人々に神は任命を与えて、地の暗い所において奉仕をさせられる。昇天された主のくちびるより直接に与えられる任命こそ心の動力になって働くのである。生ける神の言葉によって始まってこそ良い終結をなすことができる。
 『さあ、起きあがって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしに会った事と、あなたに現れて示そうとしている事とをあかしし、これを伝える務に、あなたを任じるためである。わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである。』
 このような任命がわたしたちのような、神の恵みによって救われた罪人に与えられることを思うとき、わたしたちはただ深い謙りをもってうち伏し、ハレルヤ、ハレルヤと叫ぶのみである。
    ×    ×    ×    ×
 付録として、伝道者としての召しを受けていない読者のために一言付け加えておきたい。どのような目的のために今まで記して来たか。ただ単に喜ばせ、興味を持たせるためでは決してない。わたしがこれらの恩寵の記念を記したのは、
  この書を読む人々が、目を畑に向けて、はや色づいて刈り入れを待っていることを確信させ、こうして新しく熱情と希望と信仰とにかき立てられ、地の暗い所を見ることを得せしめるためである(ヨハネ四・三十五)。
  使徒時代の聖徒が喜んだように、あなたがたをして大いなる喜びをもって喜ばしめるためである。
  キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝える(エペソ三・八)ことの言うことのできない光栄を悟り、このようなわざに参与する特権を与えられることを叫び求めさせるためである。
  この世の宝を託された神の家令である人々が、この世の宝をもって永遠の友を得、御国に到る日、彼らがあなたを喜んで迎えてくれるためである(ルカ十六・九)。
  このような特権を退け、あの大いなる審判の日に永遠の恥をこうむることがないためである。
 わたしはあのメリー・スレッサーが恐るべき暗黒のアフリカからかつて書き送った言葉を、もう一度家の屋根に立って声高く叫ぶことを願う。「特権に飲み飽き、教会にも安息日にも飽き果てた英国よ。あなたがたが喜んで投げ棄てるところのものの幾分かをわたしたちに与えてほしい」と。
 


救 霊 の 動 力

     © 頒布価 ¥400

────────────────────
  昭和10年5月10日 第1版発行
  昭和41年3月25日 改訂4版

  著 者  パゼット・ウィルクス
  発行人  落  田  健  二
────────────────────

 発行所  バックストン記念霊交会

   武蔵野市境南町4丁目7-5
   振替口座 東京66649番

http://web.mac.com/biogeochemistry/sacellum/service/chapter_0.html



THE DYNAMICS OF SERVIC⑬~ALPHAEUS NELSON PAGET


救霊の動力~A・パジェット・ウィルクス


第十三章 模 範 的 実 例


 
 『あなたと話しているこのわたしが、それである』(ヨハネ福音書四・二十六)
 『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』(ヨハネ福音書八・十一)
 『わたしに従ってきなさい』(ルカ福音書十八・二十二)
 『きょう、あなたの家に泊まることにしているから』(ルカ福音書十九・五)

 わたしたちの研究は終わりに近づいてきた。この章において、わたしは聖書の記録をたどり、人をすなどるお方である主が、どのようにして人々の心と生涯を捕らえてその恵みの網に入れ、また魂の良き羊飼いとして、失われた者を尋ねてこれを見いだし、そのふところに抱いてこれを養い、神のご家庭にまで連れて帰られたかを学びたいと思う。福音書には、主イエスが罪人を救おうとされ取り扱われた事実が少なくとも七つある。これらの記事もただ罪人のためだけでなく、また救霊者の益のために記されているのである。その事情はそれぞれ異なっている。ニコデモは神学者であった。サマリアの女は無学な憐れな妾で、姦淫の現行犯で捕らえられた第三の婦人と共通な罪人であった。『町で罪の女であったもの』(ルカ七・三十七)というのも彼らと同類の者であったろう。若い役人は、ニコデモのように富んでいる者、地位もありかつ善良な者であった。ザアカイは富もあり地位もあったが、前のパリサイ人であるふたりに比べ罪人であり、自分でもそれを知っていた。それから十字架上の罪人、これで七人となる。彼は国法を犯して犯罪に陥り、救い主を嘲りながら死の谷を下って行ったが、その出口に至る直前に救われて聖徒とされ、救い主をたたえながら彼とともに天国を歩むためにこの世を去った。
 これらの深い教訓に富む物語の中から四つだけを学ぶことにしよう。それを選ぶ理由は、これが最も代表的であり、今まで示そうと試みてきたことがこの原則をよく例証しているからと思うからである。第一に、スカルの井戸の傍らにおいてのキリストは、罪人を目ざめさせて神の救いの恵みを渇き求めさせるようになるところの驚くべき実物教訓である。第二に、主は自らを世の光として現し、姦淫の女の良心を照らしてこれをきよめるお方であることを示しておられるのである。第三は、傍観者に対し、彼は主に良い先生として導かれる前に、神なる救い主としてその意志を変化させていただかなければならないことを教えられる。第四で、わたしたちは主が大罪人の心と愛情とを変化させなさるのを見る。言葉を換えて言えば、わたしたちは単なる原則から転じて、主イエスがいかにその驚くべき恵みによって、わたしたちが今まで学んできた事柄のすべてを果たされたかを果たされたかを見ようとするのである。

 一 かわきを起されるキリスト──命の泉

 『あなたと話しているこのわたしが、それである』(ヨハネ福音書四・二十六)

 この美しい光景を概略学ぼうとするにあたり、この物語のはっきりした特色を要約することは助けになると思う。

 (一)粗雑なダイヤモンド(大いなる彫刻師がわざをなされる材料)

 この女は偏見を持っていた。そして霊界のことについては全く無知で、その初歩すら心得ていなかった。彼女は不道徳な生活を営み、それによって生計を立てていた。
 神の恵みの働きの目的物として、これぐらい望みのないものがほかにあるだろうか。人の目には粗雑なダイヤではなかった。ダイヤどころか、一変の真っ黒な土のかたまりに過ぎなかった。しかし救い主はそのように考えられなかった。感謝すべきことである。尊い魂の救いにおいては、主の御思いはわたしたちの思いと異なり、その道はわたしたちの道のようではない。

 (二)用いられた方法(救い主によって適用された真理)

 聖霊の真理が彼女の理解することのできる言葉で示された。ラビに語られるように生命について語ることをされず、渇いた魂を満たす水として語られた。ここではひとり子を賜うことではなく、罪人の愛と礼拝と讃美とを求められるお方として、父なる神についての真理が持ち出される。御子について、ここでは十字架にあげられたお方としてでなく、人々の心を見破り、近づいて神の賜物を与えられるお方としてである。罪人としての真理は常に同様である。『女よ、わたしの言うことを信じなさい』必要と罪との告白に続いて信仰は起こる。

 (三)主のお手際

 まずなすべきしかも最も困難な仕事は、偏見を取り去ることである。主は女に助けを願われ、彼女がそれを拒んだときに賜物を提供することによってこれを成し遂げられた。もし不敬虔だというそしりを受けないで次のように言えるとすればまさにそのとおりである。このような霊的天才の驚異的な手柄がかつてあったであろうか。おお愛の道を注視せよ。こうして彼は霊的なものに対する渇きを呼び起こそうとした。『もしあなたが神の賜物のことを知り、また、「水を飲ませてくれ」と言った者が、だれであるか知っていたならば』と言われる。そしてこの哀れな無学な心がスカルの井戸の水以上に思うことができず、最期まで地につくものだけを考えている時にも、いささかも気を落とさず、賜物より与え主へ話を進められるのである。もし彼女が賜物について悟らない時でも、与え主の恵みを見ることによって救われるようになるかも知れないのである。こうしてそのくちびるよりかすかな願いが洩らされた時に、主は彼女の心の暗いところに届き、彼女の眠っている良心を目ざめさせられた。主はその驚いた心に、彼女の長い間秘めておいた隠れた罪を知っておられることを示された。しかしここで主の愛と知恵との接触を認めなければならない。他の場合におけるように、ここでも主は彼女が逃げ去る機会を与えられた。『あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい』と。もし願うなら彼女はそのまま行って帰ってこないこともできたはずである。主の知恵を見ていただきたい。主は直接罪を指摘することをされず、彼女が自分から告白するように仕向けられた。この場合、三つの方法が彼女にあった。一つはそのまま行って帰ってこないことである。二つめは、行って彼女の夫を正当な夫のように装って連れてくることである。三つめは事実をそのまま告げることである。彼女は賜物の意味はわからなかったが、自分の前に立っておられる与え主の恵みと憐れみとを悟って、その鈍い心を捕らえられてしまった。このようなお方の前から逃げ去ることはできなかった。彼女は慈しみ深い全知のお方の前に捕らえられ、恥じらいつつもそこにとどまり、いっさいの罪を告白した。
 こうして救い主はその目標に近づかれる。偏見は去り、願望は喚起され、良心は照らされ、心の愛情は動かされた。ただ信じようとする意志だけが残されている。これは最後の最も困難な仕事である。すべての新生していない魂の中に存在する二つの根本的な誤りが彼女の心の奥底にも横たわっていた。第一は、宗教の内容は、わたしたちの側で神を求めるものだ、ということ、第二は、彼女の期待するものは遠い未来にかすかに存在するものだ、ということである。第一について主は答えて言われる。『あなたがたが、この山でも、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。‥‥‥父は、このような礼拝をする者たちを求めておられる』と。第二について主は言われる。それは次の時代でもなく、また年をとってからあとのことでもなく、来月でもなくあしたでもない。今ここにおいてである。『あなたと話していることわたしが、それである』。あなたの偏見を取り去った者はキリストである。あなたに生ける水を示して渇きを起させたのはキリストである。あなたの罪を知り、しかも責めなかったのはキリストである。あなたの愛を求めて待っておられる神を示したのはキリストである。『あなたと話しているこのわたしが、キリストである』。ただ信じなさい。わざはなされた。その瞬間に、おののく信仰の手は差し伸ばされた。彼女は救われた。その瞬間、生ける水はその心に湧き出た。わずかの間に、その泉は溢れてほかの人々に伝わっていく。水がめを置いて町に行き、この喜ばしいおとずれを告げた。三つの人生の悩みは取り去られた。第一に罪、第二に神に至る道についての無知、第三に望むことができなかったメシアを見ること、がそれである。『わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません』と彼女が叫んだのも当然である。ここに聖霊を受けた三つのしるしがある。水がめを置き去りにすること、自動的にキリストを知ること、キリストをあかしし、その恵みを他に伝えようとする熱情がとがすなわちそれである。
 救霊者の心に留めていただきたい。ここに大目的である聖なるキリストがおられる。彼はすべてのすべてである。求道者を彼にまで携えてくるのでなければいっさいは失敗である。『あなたと話をしているこのわたしが、それである』。実に実に幸いなみことばである。これを記すだけでもわたしの心は躍る。わたしたちは偏見を取り去ることができるだろう。しかし失敗する。わたしたちは教え諭し心に刻ませ、キリスト教を受け入れるよう人々に強要することができるだろう。しかしなお失敗する。わたしたちがキリストご自身を携えてこないなら、そのなしたことはごくわずかである。
 数年前、一つの田舎の町で説教したとき、わたしはこの話によって人々に救い主を示そうと努めた。その聴衆の中に数年間キリスト教を研究していた一人の医師がいた。彼はキリストの神性について信じることができなかったのである。話の終わりに、わたしは力をこめて『あなたと話しているこのわたしが、それである』という言葉を繰り返した。彼は急に立ち上がって部屋を出た。この無限の恩寵に満ちた物語が、この言葉によって彼の心に確かにとどまり、その理性にまで届いたのである。彼は家に帰り、部屋に入って救い主を求めた。そしてひざまずいて「わたしの主よ、わたしの神よ」と叫んだ。彼は信じた。そして二千年前のこの罪人のように、彼は信仰と平安を見いだし、彼の心から喜びの泉が溢れ出た。
 この点で誤ることは非常に簡単である。そして自己免許の見解を新生の証拠として満足している。どうか神が、わたしたちにただ知恵と恵みとだけでなく、わたしたちの主の栄光と誉れとに対する熱望によって、どのようにキリストを宣べ伝えたらよいかを知らせてくださいますように。
 次の実例は人の仮定をもって神の確証に代用しようとする危険を示すものである。

 ある時、まだかつて会ったことのないひとりの婦人が、ある用件のために訪問して来た。会話の中に彼女はこの付近にいるひとりの人を訪問するために来たそのついでであることがわかった。それは結核患者であって、以前からの知り合いであるという。彼はキリスト者であるかと聞くと、彼女は次のように答えた。「まだ信者だとは一度も告白はしていないし、バプテスマも受けていないが、心では確かに信者で死の用意はできていると思う。彼は同情深く、いつもキリスト教の慈善事業のために援助を与えてくれる」と。わたしは重荷を感じてその名前と所を聞き取って、「訪問してみてもよいか」と聞くと、「たぶんそれはやめたほうがよいだろう。彼は内気で、特に外人は遠慮するから」と言う。彼女は長い間の友人だから迎えてくれるのだ、と言うのである。わたしは重荷を感じて他の人とも祈り、ひとりの、若いけれど経験のある日本人伝道者に訪問してもらうことにした。訪問してみれば、病勢はかなり進んでいる。親切に話してみれば、キリスト者であるどころか、実は大反対で、この問題に触れることさえ願わない。
 その後何度訪問しても断られる。時には病気が悪いからという。時には他に用事があるからと言う。また時には医者が来ているからと言う。しかし若い伝道者は祈りながら幾度か訪問した。時にはその門前でただ祈って帰るか、時には見舞い品を持ってただ届けに来る、というようにしていた。そうするうちに彼の心もとうとう開いて面会を許されることになった。簡単に言えば、結局彼はあざやかに救われたのである。そして洗礼を受け、キリスト教式の葬式をするよう遺言した。生前の彼のキリスト教反対の事実を知る友人たちは、ただ驚くほかなかった。

 あの婦人がもう少し聖書を学び、その中に描き出された人の心の状態の必要と、危険と罪と自己欺瞞について知っていたならば、いま死に臨んでいる友人が、単に偏見がなくなり慈善的でキリスト教的社会事業に興味を持っているくらいの外面のことにくらまされて、その悪いわざと心が神に反逆していることを見破ることができないようなことはなかったであろう。

 二 良心を照らしてくださるキリスト

 『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』(ヨハネ福音書八・十一)

 聖書の改訳者の中には、姦淫の女の物語(ヨハネ八・一~十一)を誓書から除こうとする者もいるが、しかし聖書全体を通じてこの物語ほど啓示の証拠が明白なものはほかに多くないと思う。このあわれな女の悔改の事情は、他の実例と全然異なっている。
 これにはサマリヤの女の場合のように、主が『サマリヤを通過しなければならなかった』わけではなかった。また自ら進んで救い主を求めた『罪の女』のようでもなかった。その反対に、彼女は自分の願いに反し、主イエスを陥れようとする悪魔のような願いから、彼女に赤恥をかかせようとするパリサイ人が引っ張ってきたのである。彼女は義なる審き主の面前にはずかしめられ苦しめられ引きずり出された。しかしこの審き主こそ実は恵み深い救い主であったのである。『「だれが、君を支配者や裁判人にしたのか」と言って排斥されたこのイエスを‥‥‥神はあがない主として、おつかわしになったのである』(使徒七・三十五参照)とパラフレーズすることができる。
 この物語の終わりに、主イエスはご自身を世の光として示しておいでになる。これは引き続いて主のお話の題目となっているが、しかしまたパリサイ人と罪人とに対するお取り扱いの秘密も含んでいる。前者に対しては堪えることのできない目をくらますように光として臨んでいるが、罪人に対してはその翼に癒す力を供えた光として現れている。
 わたしたちはまず疑問の余地なく罪人であるこの女を見、そしてパリサイ人のためには審き主であり、女のためには救い主であられた主を見ることにしよう。
 罪人
 彼女はその現行犯をおさえられた。わたしたちの知り得る限り、彼女は別にその生涯を改めようとは願わなかった。彼女は強いてへりくだらされ罪に伏せしめられたのである。彼女は罰を予想して来た。訴える者に対する憎悪の念に満ちていたことは察するに難くない。世にあって望みなく、キリストなく、神なく、言い逃れるすべのない明らかな罪人で、悩まされ辱められていた。これが神が恵みのわざに着手される材料であった。しかしそこにまたちょうど救われるために必要な条件が備わっていた。彼女は罪人であって、またそれを知っていた。
 救い主
 主は言うことのできない懇切さとていねいさをもって取り扱われる。その当時の宗教家は、残酷にも彼女を引きずって衆人の見せ物にすることを躊躇せず、心ない群衆の本能は彼女の罪を見ることを憚らなかったとしても、主はとにかくそれを蔽われた。主はともかく、神以外の者の前に、彼女の恥と罪を暴露することを喜ばれないことを示された。これは最初に照り出した愛の光線であって、彼女の驚いている心に届いた。パリサイ人の嘲りにより麻痺し硬くなっていた心は、この輝きに応じた。
 罪人に対してはそれでよいとして、主はいかに律法とまたこの理屈っぽい告訴人を取り扱われるであろうか。もしゆるすこととされるなら、神の律法を破ることになる。もし罰するなら、救い主ではないことになる。実にのがれることができない板挟みである。律法の創始者である主はまたこれを補うことができないのであろうか。聞け、そして驚き崇めよ。主は一章一節を読むことなく、彼らをして彼らのよって立つ律法の書に帰らしめられた。おまえたちはモーセの書によって訴えようとするのか。ここにモーセの書がある。モーセは何と言ったか。『そのような者を殺すには、証人がまず手を下し』(申命記十七・七)とある。それなら『あなたがたの中で罪のない者がまず手を下したらよい』と。義の太陽から照り出した恐るべき光線が彼らを散らしてしまった。彼らは一人また一人と去って行ってしまった。それは女を殺すためではなく、彼らの審判者であり女の救い主であるおかたを殺そうという計画をするためであった。
 こうして主は、汚れていても尊い魂を救うわざを全うしようとして、女を顧みられた。彼はもう一度、井戸の傍らの女に対するようになされた。すなわち女に逃げる機会を与えられた。彼が地面にものを書き続けておられた時、訴えた者たちは主の目を避けて右の方へ逃げた。女はこっそり左の方へ身を隠すことができたはずである。なぜ逃げないのか。なぜためらうのか。数分のうちに群衆は彼女を取り巻いて、懲罰が加えられるかも知れないのである。しかし彼女は立ち去ることができない。その場所に根を下ろしたように立っている。このような不思議な恵みから逃げ去ることがどうしてできようか。『彼われを殺すとも、我は彼に依り頼まん』(ヨブ記十三・十五=文語訳)とヨブは言ったが、彼女の心もこれに応じて「たとえ彼がわたしを罰しても、わたしは彼を愛します」と叫んだことであろう。罪のある女がシモンの家の傍らにおいて、どんなに嘲られ蔑まれてもただ主に近づくことさえできればこれを喜びとしたように、群衆のそしりも譴責も非難も脅しも、彼女を世の光なるお方の前から追い払うことができなかった。光が彼女の心と生涯の隠れたところを探ることによって、彼女は主の愛と栄光の中にあることを発見し、主と共にあることに満足した。主は言われる。わたしはあなたの審判者である。しかし証人なしに罰することはできない。『あなたを罰する者はなかったのか』と尋ねられる。『主よ、だれもございません』と答える。これに対して、主は『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』と言われる。彼女はその瞬間から、良心の呵責と、罪に対する願望と、悪魔と、そしてすべての不義から免れることができた。主イエスだけが残られた。しかし女はその前に立っている。この単純なみことばの中に、なんと驚くべき恵みと力の数々が伏在していることであろう。恐れも脅かしも訴えも悲惨も疑いも罪も永遠に消え去った。残忍な訴える者たちは困惑して逃げてしまった。ただ主だけが残っておられる。愛と喜びと平和、何という幸いな救われた魂の姿であろう。
 『わたしもあなたを罰しない』という聖言は、『あなたと話をしているこのわたしが、それである』という聖言と一対である。
 くり返しくり返し強調してきたように、主の御前においての謙遜な罪の告白と、彼の愛に対する喜ばしいしかも恐れおののく確信とは、単純かつ驚くべき秘訣である。主はこの単純な条件を果たしさえすれば、誰にでもたちまちご自分を現されるであろう。瞬間に、即座に、神の恵みがこのように著しくまた完全に現された物語は、聖書中ほかにないであろう。
 彼はこの地上に肉体をもっておられたときのように、今も少しも変わりたまわないのである。次の実例はこのことを証明する。
 わたしの前には一人の人の伝記がある。この書の主人公はいま隣の町で伝道者として働いている。これはそのまま転載するにはあまりに長いから、簡潔に要点だけを記すことにしよう。
 「聖書の中にさえまれに見る神の恵みの奇蹟が亀水氏の生涯になされた。彼は今四十九歳であるが、そのうちの二十七年間は北海道の刑務所において過ごした」と書き出し、そして彼の最初の犯罪は宗教上の迷信に起因していることを述べている。続いて窃盗、強盗、放蕩、殺人、脱獄などの恐るべき罪の目録に移る。そのために終身懲役の宣告を受けて北海道に送られた。しかしそこでも彼の凶悪はますますひどく、なし得る限りの乱暴を働き、そのため刑務所の役人たちにも恐れられていた。そこで彼は書き進める。「作業から帰ってみると、二、三人の囚人が一枚の絵を眺めていた。そこに近づいて、生まれて初めてキリストの十字架の絵を見た。嘲りをもってわたしは質問した。この罪人はだれだ、と。しかるにいくぶん福音の筋道を心得ている者があって、これは救い主神の子キリストだ、彼は自分の罪のためでなく、人々の罪のために死なれたのだと答える。変なことを言うものだと思ったものの、しかし一方考えてみれば、もしキリストが自ら言われるように神の子であって、罪人の身代わりに死なれたのではないとするならば、彼は偽りのために死ねるものだろうか。人は罪を隠すために偽りを言う。しかし刑罰を受けるために偽りを言う者はあるまい。このように自問自答してこの理論の前に抵抗することができなかった。わたしは黙って深く感動した。そして何のためかまたどうしてかわからないが、普通ではない変化がわたしの心に起こりつつあることを覚えた。その場を去って十分と経たないうちにわたしは信じた。そしてわたしの心にも生涯にも一つの大きな変化が起こった。私は直ちに聖書を求めた。‥‥‥」
 こうしてその変化した生涯のあかしが述べられ、その牢獄の中にありながら神に仕え、多くの実を結ぶようになった物語が記されている。
 このように神の恵みは急激なわざをする。この亀水氏も、審くためでなく救うために、破壊するためでなく成就するために、義人でなく罪人を招くためにおいでになったお方の恵みによって打ち勝った、あの罪の女と好一対の人物である。
  すべての負い目をつぐなう恵み
  すべての罪とがを洗う血潮
  日々にしみなく保つ力
  豊かに、豊かに、わがために
  主イエスの中に備えあり

 三 意志の革新(よき主としてのキリスト)

 『わたしに従ってきなさい』(ルカ福音書十八・二十二)

 若い役人の物語を読む前に、主がパリサイ人と取税人のたとえ話をされたことに注意しなければならない。そしてここにその両者の実例が出て来るのである。第一はパリサイ人で地位のある人物である。この人は主が言われたとおりの正しい人物で、決して偽善者ではない。むしろ生活において正しく、宗教に対して真実であった。次は取税人のザアカイで、彼は祈るために宮に行ったのではないが、主イエスを見ようとして桑の樹に登ったのである。彼は主イエスを拝するまで、『罪人のわたしをおゆるしください』と祈ることはできなかった。
 第一は善良で滅び、第二は悪質で救われた人の物語である。聖霊は富んでいる役人の前には三つのたとえ、すなわちやもめと取税人と幼子の話を記しておられる。それによって生命の道は明らかに教えられている。もしこれを注意深く聞いていたら、『何をしたら永遠の生命が受けられましょうか』と尋ねる必要はなかったであろう。新約聖書の中でこの所ほど短くしかも愚かさと無知に満ちた言葉はほかにないであろう。
 『何をしたら永遠の生命が得られましょうか』。わざによって永遠の生命を受けることがどうしてできようか。しかも彼の無知はさらに深い。『よき師よ』と彼は叫ぶ。救い主はこれを止めて言われる。『なぜわたしをよき者というのか。神ひとりのほかによい者はいない』。ああ、ここに大きな誤りがある。彼は律法を全うするためにもう少しの教導が必要と思った。主は彼の言葉を捕らえて言われた。彼は自ら自分を愛するように他人を愛すると確信していたのである。主は彼が、金を神として、どのように律法の第一誡を踏みにじっているかを暴露し、また対人的な愛の誡めも実行していないことを示された。貧しい者、裸の者、悩める者は周囲に充ち満ちている。それならなぜ、彼は自分の財産を蓄えて置くのか。『あなたのすることがまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい』と。ああ、人はその最善をもってしてもなお救いに遠い。彼のふくれ上がった財布と莫大な銀行預金とは彼をして非常な憂いによって去らしめた。それは彼が大金持ちであったからである。財産は多くの人を憂えしめていないが、しかし天国の世嗣に対してはこのようなものである。
 主は単純な罪人に対してはこのように語ることはされない。富んでいる者が狭い門に入ることはいかに難しいことであることか。主は彼を愛されたと記されているにもかかわらず、この青年のためにこの門を広くされることはなかった。
 キリストはいっさいである。この憐れむべき富める人の失敗は、この事実に対する無知によるのである。『わたしに従ってきなさい』との根本的条件であるみことばが、彼の耳にはとても不可能なことと響いた。それは彼が恵みの必要を感じなかったためである。『あなたと話しているこのわたしが、それである』、『わたしもあなたを罰しない』等のみことばも彼の耳には音楽とは聞こえなかった。従いなさいとの命令は、この場合、罪よりも死よりも地獄よりも思い堪えがたいくびきと感ぜられたのである。
 彼はその道を誤った。『よき師よ』との彼の神学はその魂に破滅を来らせた。おお不信仰よ、おまえはどこまで愚かなのか。
 彼の信仰はその祖先であるバラム、カイン、コラなどのように、その財布と自分の義と地位の誇りとにその根を下ろしていた。彼は『カインの道を行き、利のためにバラムの惑わしに迷い入り、コラのような反逆をして滅んでしまうのである』(ユダ十一)。
 やもめや取税人や幼子の物語を、どのようにして彼のように富みかつ善良にして地位のある者に適用することができるかと彼は考えたであろう。ああ、彼は神の国よりはなはだ遠くあった。
 ここにパリサイ的魂を導く知恵がある。愚かな者には愚かなように答えよ。律法的な者には律法をもって答えよ。しかもかかる懇切な知恵をもって『よき師よ』と言うその座席より引き下ろして、神たる主の足下に伏させるように至らなければならない。
 他の場所でも述べたように、魂が神学的教師として主に来る代わりに、救い主として彼を求めるならば、いかにすみやかに彼はその心と思いとを捕らえてご自身に従わしめられることであろう。善行と富と名望とにはなはだ豊かであったこの若き役人の悲しみを十分に味わい学ぶことは、いかなる国にもまさって、日本で最も必要であるということははなはだ悲しむべき事実である。
 キリストは、彼が神である救い主として、わたしたちのうちに働き、志を立て、ことを行わしめられる時にのみ、わたしたちの意志の主である。

 四 心の変化(神である救い主キリスト)

 『きょう、あなたの家に泊まることにしているから』(ルカ福音書十九・五)
 『きょう、救いがこの家にきた』(ルカ福音書十九・九)

 前の物語は救い主の不朽のみことばをもって終わった。『財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。‥‥‥人にはできないことも、神にはできる』と。弟子たちは特にその前半が真実であることを見た。若い役人は彼のすべての善行をもってしても狭い門にはいることができなかった。彼の財布はあまりに大きく、彼の頭はあまりにふくれ上がっていたのである。彼は試みたが捨てることができないために失望して去った。主はここで仰せられる。金のために失敗したエリコにわたしと共に来なさい。神が働いて下さるならば、財産のある者でも救われることができることを示そう、と。そこで『イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった』のである。前の物語はいっさいが人のわざであった。若い役人は自負心に満ちて救い主のみもとに来た彼は何をしたらよいかと言う。自分は多くのことをして来た。したがってあとわずかのことをするのはたやすい、と。
 しかしここではすべてが非常に違っている。初めから終わりまでいっさいがキリストである。そこには自負心のかけらもない。ザアカイが主を見るために木に登ったのは事実である。しかしそれは主と話すためではなかった。彼は、彼のような神を知らない罪人には、キリストは何のかかわりもないと思ったであろう。彼のくちびるには、『何をしたら永遠の生命が受けられましょうか』との質問はない。彼の仲間では長であったが、いっさいの見栄もかなぐり捨てて、驚くべきイエスを見たいために近くの木に登った。どのようにして恵みがこの強欲な人の心に入り込むことができるかを注目したいものである。
 ちょうどサマリアの井戸の傍らの時のように、一つの好意を求められたことから始まった。救い主は木の下に止まり、上を見上げて言われた。『ザアカイよ』(聖なる者という意)。取税人としては何とふさわしくない名であろう。確かに彼の両親はこのような商売をさせるつもりはなかったのであろう。主は彼自身指名されていることをはっきり知らせようとしておられるかのように彼の名を呼ばれた。『急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから』。これは放蕩息子を待っておられる父ではなく、失われた者を捜し求められる救い主である。しかしいつの場合でもどこでも兄たちが近くにいるのである。『人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」』と。ザアカイは急いで下りた。人々のそしりによって主がいま言われたことをひるがえしてしまわれるのではないかというように、悔改の実を結ぶために急ぐのである。『主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します』。彼が若い役人の話を聞いたとは思われないが、彼の心の畑は不思議にもすぐに整えられた。そして芽が出、熟した実までそこで結んだのである。
 救い主は、いらだつ兄たちの前で、『きょう、救いがこの家に来た』と言われた。ただ一時の宿ではなく、きょう永遠の救いはこの家に来た、と。恵みのお取り扱いには共通な点がある。井戸の傍らの女の場合のように、ここでも救い主は最初に罪を責められない。まず純然たる恵みを提供される。そしてこれが受け入れられる時、自ら罪を捨てることが伴うのである。どうか主よ、どうして人の心を金から離して神に向けたらよいかを学ばせてください。恵みを宣べ伝えさせてください。最後の章で、救霊者に最も必要は恵みの満たしについて語りたい。この最もかわききった取税人の魂の中をさえ潤す源泉を見るのである。恵みをもって願いを目ざめさせるお方は、また恵みをもって暗い良心を照らし、恵みをもって若い役人の意志の働きをとどめ、恵みをもって大いなる罪人の心の愛をひるがえして世俗と罪とを離れさせて愛の神に向けさせることがおできになるのである。
 まだかつてキリスト教について何も聞いたことのない聴衆に、救い主の美しさを宣べ伝えることは容易なわざではないことを承知している。それは決して容易ではない。しかし感謝なことに、それは不可能ではない。わたしはいま述べたような救い主のご生涯の物語の一つを述べるときに、尊敬と恥の思いをもって、息を殺して静かに聞いているのを見たことがある。彼らは救い主の美しさに畏敬の念を起したのである。そして最後には迷信と暗黒との中にあって、以前に福音に接したことのない罪人が御足のもとに来るのを見た。
 この章はあまりに長くなったため、実例を挙げる余地がない。どうか今までの四つの話をよく学び、どのように主イエスを宣べ伝えたらよいかを学んでいただきたい。罪人の心に対する主の四重のみことばに傾聴せよ。
 『あなたと話しているこのわたしが、それである』
 わたしはよきサマリア人のようにあなたのいる所にあなたを求めて近づいてきたと言われる。
 『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』
 わたしはあなたを救うために来たのだ。わたしは贖い主であって、審き主でない、と。
 『きょう、あなたの家に泊まることにしている』
 わたしはあなたと永遠に共にいるために来た、と。
 『わたしに従ってきなさい』
 わたしはあなたに従う力を与えるために来たのだ、と。
 わたしは救い主の言われたこの四重の金言に中に含まれるすべての富を読者がそれぞれ集めるのに任せたいと思う。わたしたちがこれらの物語をもう一度読むとき、願いを起させる豊かな恵み、良心を照らして平安を与える豊かな恵み、意志をこの世からひるがえす豊かな恵み、心の愛情を金から離れさせて神に向けさせる豊かな恵みをも見るであろう。このキリストこそわたしたちが宣べ伝えなければならないお方である。
 先の章で、わたしたちはどのようにして人の理性と良心と意志と願いと愛情とに届くことができるかを学んできたが、この章では救い主がどのように恵みをもって堕落した人生のすべての部分に届かれるかを見せられた。わたしたちの要することは、このようなお方としてキリストを宣べ伝えることである。彼はすべての必要に応じてくださるであろう。キリストはすべてのすべてであられる。わたしたちはこのように彼を宣べ伝えることができるであろうか。わたしたちは自らこのようなお方としての彼を知っていなければ、これは不可能である。わたしたちはキリストの満たしにあずかっているであろうか。彼はわたしたちのいっさいのいっさいであろうか。彼の命の泉はわたしたちのうちに湧き出ているであろうか。わたしたちは彼の御顔の輝きに浴しているであろうか。彼はわたしたちの存在のすべてに届いて下さるお方として確信させられているであろうか。彼はわたしたちの愛を彼のみに向かわしめられるだろうか。もしそうなら、わたしたちは彼を他の人に宣べ伝えることができる。わたしたちは、キリストに占領された器が、どのようにすみやかに異教徒の心に届き、彼らにゆるしを与えて下さる神のみもとに携え帰るかを見た。
 もしそうでないなら、このような研究も益となることは少ない。方法や言葉では救われない。キリストご自身に満たされた燃える心と熱い舌だけが、罪人の暗い心の隅々まで届く道を見いだすことができるであろう。

http://web.mac.com/biogeochemistry/sacellum/service/chapter_0.html



THE DYNAMICS OF SERVIC⑫~ALPHAEUS NELSON PAGET


救霊の動力~A・パジェット・ウィルクス


第十二章 偶 像 礼 拝


 
 『あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない』(出エジプト記二十・三)

 異教諸国にあって人々を救いに導こうとする場合、偶像礼拝について知り、どうしてこれを導くべきかを学ぶことは極めて重要である。従ってこの一章を付け加えて研究を完備したいと思う。
 しかし異教諸国においてのさまざまの偽の宗教について論ずることは、わずか十数ページでは不可能なことである。ことにただ一カ国の経験をもって全般に当てはめることはもちろん不適当である。しかし一般的な二、三の注意は、何か参考ともなるであろう。日本のような国にあっては偶像礼拝は磨き立てられている一面、さまざまな罪悪がはびこっているので、その宗教のようなものは第二義的なもののように思われる。しかし決してそうではない。たとえすべての悪の根源でないにしても、とにかくこれはサタンの最も堅固なとりでの一つであって、幾千万の魂はその中に捕虜とされているのである。
 前世紀の大救霊者は、これを天地の神に反抗して立てられた反逆の大きな組織であると言っている。
 その中にはサタンからの害毒がひそんでいる。妥協を喜ぶ現代においてこのような言い方があまり受けがよくないことをわたしは知っている。もっと遠回しな熟語を用いて事実を飾り立てているのを常とする。
 偽りの信仰、また礼拝の中にはさまざまなものがある。物活論、多神教、汎神教、祖先崇拝、自然神教、マホメット教、ユニテリアン、ユダヤ教などはその中のいくつかである。そのうちのあるものは誤って宗教扱いにされている。たとえば汎神教のようなものは極めて空虚な哲学にほかならない。それは賢明に諷刺されているように、「盲人が暗い部屋で黒猫を捜しているようなもの」である。
 物活論も多神教の部類に属すべきものであろう。
 神のことばは偽の宗教を偶像礼拝と魔術の二つの項目に分類しているが、事実、異教国においてはこの二つのものがさまざまな形式のもとに現れているのである。近代主義者にとっては、多神教と言うほうが偶像礼拝と言うよりは耳触り良く聞こえ、真理研究と言えば、魔術と言うよりも学術的であり尊敬できるもののように響く。しかし偶像礼拝はあくまで偶像礼拝である。占いや魔法は、心霊術あるいは心霊現象などと言ってもその正体が変わるものではない。
 偶像礼拝は、人の手の所産を、大能の創造者の代わりに置くものである。祖先礼拝のようなものは、人々の心を生ける神から離れさせて、死んだ者の霊に向かわせるものである。一般的に言えば、こうしたものはあの全世界を惑わす大へびが、人の心を欺いて天におられる愛の父から離れさせる二大勢力である。
 偶像礼拝にいろいろな形式があるように、死者の霊に対する礼拝にも聖人礼拝、祖先礼拝、スピリチュアリズム等がある。それが何であるにせよ、神のみに帰しまつらなければならない栄光を奪い去る点においては同一である。神こそ人の子らを創造されたお方である。人類は彼にのみ、礼拝と感謝と讃美の祈りと誉れと栄光とを永遠に帰しまつらなければならない。
 したがってこれはすべての罪の中で至高の権威者に対する最も忌まわしい罪である。そのために神は人々をその欲に任せ、正しからぬ思いに任せられたとローマ人への手紙第一章に記されている。
 これらのことは陳腐に見えるであろうか。五十年前にはあるいはそうであったかも知れない。しかし今日においては、広い見解や同情ある見方などと称するものが、わたしの書いたところのすべてに対して疑問符をつけるのである。とにかく、自然宗教(異教の総称)は神の啓示に至るまでの大きな飛び石であるというのは、安楽椅子に座っている教授たちの見解である。すべてのサタンの働きも単なるおとぎ話ぐらいに認められている。
 異教諸国にあって救霊者が偶像礼拝との繋がりと悩みとより求道者を救い出すためになすべき仕事は以下の通りである。

 一 その罪悪性の暴露

 『あなたがこのすべての言葉をこの民に告げるとき、彼らがあなたに尋ねて、「主がわれわれにこの大きな災を宣告されるのはどうしてですか。われわれにどんな悪い所があるのですか。われわれの神、主にそむいて、われわれが犯した罪とはなんですか」と言うならば、あなたは彼らに答えなければならない。「主は仰せられる、それはあなたがたの先祖がわたしを捨てて、他の神々に従い、これに仕え、これを拝し、またわたしを捨て、わたしの律法を守らなかったからである」』(エレミヤ記十六・十、十一)。

 わたしは他の所で、異教諸国にあってきよい神に対する罪を自覚させることの極めて困難であることを述べた。犯罪や道徳的悪についての知識はあるであろうが、神に対する罪については全く無知である。求道者がこの点についておぼろな光を見いだす場合においても、偶像礼拝の罪に関しては十分教えられたあとでなければ容易に了解し得ないことを見せられた。すべての宗教は大同小異であって、何であっても真剣に信ずればよいと思い込んでいる。新神学の病毒がキリスト教牧師や宣教師にまで感染していることは悲しむべきことである。教会の講壇からさえこのような教えを述べられるのを聞くことはまれではない。しかし旧約聖書の言葉は(わたしたちはなおその神の言葉であることを信じている)、この偶像礼拝の罪に対して仮借するところのない厳粛な刑罰を宣告しているのである。
 異教の諸国において人々を導くためには十分の知恵と恵みとを必要とする。偶像礼拝の罪であることを説明する場合に、わたしたちは彼らがかつて聞いたことがなく、またその機会さえなくそのとりことなっているものであることをよく覚えていて、その愚かさを嘲るような口の利き方をせず、懇切に導かなければならない。アレオパゴスにおけるパウロは、伝道者のよい模範である。もしわたしたちが彼らを物を言わない偶像から離れさせて生ける神に向かわせようと欲するならば、笑うかわりに泣き、責めるかわりに心配しなければならない。
 神の言葉は、いかにわたしたちがこの仕事を成功できるかについて豊かな教訓を供給する。イザヤ書を読む者は、救うことのできない神に祈ることが悪であると共に、またどんなに愚かであるかに心を打たれるであろう。イザヤはたびたびきよい譬えを用いた。しかし彼は、真の神を知りつつこれに背く民に語っているのであるが、わたしたちは全く無知な民に語るのである。しかしとにかく真実な認罪を起すためには聖言を用いることが最も重要である。
 偶像礼拝について聖書は三つの明白な点を強調している。
 一、その命のないこと
 「物の言えない偶像」と使徒は言う。語ることのない神、また祈りに答えることのできない神、これがどうしてわたしたちの神と言うことができようか。見聞き、悟る能力のないことが生ける神と対照されている。「答える神を神としましょう」とエリヤはバアルの預言者に対して語った。
 求道者に真の生ける神の実在を悟らせるために議論や講義によらないで事実を確かめさせたらよいことをすでに勧めてきたが、彼らに直接神に祈らせることは早道である。生ける神ならば確かに答えられるはずである。なおまた他方、偶像礼拝が愚かで空しいことを同時に知らせることができる。
 二、その無能であること
 『木像をにない、救うことのできない神に祈る者は無知である。‥‥‥わたしは義なる神、救主であって、わたしのほかに神はない』とイザヤは言う(イザヤ四十五・二十、二十一)。ここに強調すべき要点がある。「救いを施す力」である。もし神が罪と死の恐れより救うことができないとすれば、どうして依り頼むことのできる神と言うことができようか。これは最も大きな試金石である。自然宗教の中にはもちろんこの力はない。罪に対しては格別頓着しないのが普通である。確かに救いをなす神を神とすべきである。
 三、その罪であること
 ここに最も重要な事実がある。偶像礼拝はただ空虚というだけでなく、それは罪である。生ける水の源なる神を捨てて、水から水を保つことのできない水ためを掘る。その手の中にわたしたちの命を握っておられる頌むべき創造者の代わりに、造られた物を置こうとするのである。それは神の造られた世界から神を追い出して、自分の悪い心の欲に従ってその好むところの神をつくることであって、神の御前に最も忌まわしい罪である。
 これらは、わたしが偶像礼拝者に近づくために用いる単純な方法として暗示しようと欲しているものである。抽象的になったり議論に陥ったりすることを極力避けなければならない。実行させるように持ちかけ、その門口に押し進めなければならない。罪よりの救いを終極の試金石とせよ。幾度となくその点に立ち帰り、聖書に記されたように、その実によって試さなければならない。木は実によって知られる。東洋人はこの点において哲学者を気取ろうとする。哲学者は容易に神を発見することはできない。わたしたちはあくまでも実際的でなければならない。幼児の単純は、天の競争で罪人と永遠の宝を捜すことにおいて常に勝利者である。

 二 偶像よりの聖別

 『あなたは彼らの神々の彫像を火に焼かなければならない。それに着せた銀または金をむさぼってはならない。これを取って自分のものにしてはならない。そうでなければ、あなたはこれによって、わなにかかるであろう。これはあなたの神が忌みきらわれるものだからである。あなたは忌むべきものを家に持ちこんで、それと同じようにあなた自身も、のろわれたものとなってはならない。あなたはそれを全く忌みきらわなければならない。それはのろわれたものだからである』(申命記七・二十五、二十六)

 すでに述べたように、回心者はキリスト者となったのちにおいてさえ、その偶像を打ち砕き全くその礼拝から離れることを好まない不思議な傾向があるのである。それは多くの場合、人を恐れるところから来ているようである。すなわちそのような場合、隣人に別物扱いにされ、迫害と嘲りの的とされることを好まないのである。しかしその背後に更に大きな理由があることを知らなければならない。『人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである』(第一コリント十・二十)と聖書に記されたように、偶像礼拝の背後には不思議なサタンの力があって、その帰依した者を捕らえているのである。旧約聖書の記事は実に峻烈である。引証した申命記の例などその一つに過ぎないが、ことにわたしの心に刻まれた一句である。わたしは若いころ、偶像や仏壇やきせるや酒杯などを、ある回心者より記念として送られたものを保存してきた。その中には四百年も前に刻まれた大きな仏像があって、それはその持ち主が先祖から受け継いだ家宝の一つであったのである。わたしは神の力の証拠として人々に示すために保存していた。ちょうどそのころ、ひとりの聖公会の宣教師が中国から来て、それを見て静かに言った。「あなたは申命記七章二十五、二十六節を注意して読みましたか」と。わたしは気付かなかったのである。それを読んでさっそく庭でそれらの物を焼いてしまった。
 キリスト者が自分自身が偶像を拝まなくなった場合においても、この憎むべき物を家の中から除き去ることをためらうことがしばしばある。祖父母や老父母が承知しないからと言う。時にはそこに正当な理由の存することもあるが、そうでないことも多い。それは使徒パウロのコリント人への第一の手紙に言っているように、必ずしも彼らが真に回心していないというわけではない。ただまだ低い霊的状態にあることを示すものである。このような落とし穴を除き去るように導くのは良い羊飼いの務めである。しばらく前、ひとりの金持ちの妾がわたしたちの伝道館においてみごとに救われた。彼女はいっさいの罪の関係を断ち、すべての偶像を捨てて、頑固な偶像信者であった姉に非常に迫害された。しかしその姉はほどなく大病にかかり、その死の床において悔い改め、終生救うことのできない神に祈っていた愚かさを初めて悟った。彼女はバプテスマを受けた。しかしその友人たちは仏葬にすべきことを主張する。彼女は高価な仏壇をその妹の手に残したのである。僧侶はお布施を受けるために時々読経に来る。悔い改めた妾であるH夫人は、自分では米も花も供えないが、その子どもにこれをやらせていた。ひとりの先輩の信者が、それが神の前に罪であることを告げて責めた。ちょうどその時牧師がそこを訪問した。そこでH夫人はその苦しみを訴えて教えを受け、これを売って教会に献げるのがよいかと言った。実は、その数日前にひとりの悔い改めた人が、その偶像を売って教会にお金を持って来たが、わたしたちは申命記七章二十五、二十六節の光に従って、これを受けることを拒み、何かほかの慈善事業に寄付するように勧めた。その次の日、もう一人の夫婦の信者がその偶像を打ち砕き、薪にして焼いた。こうしたことのあとであったので、牧師はその仏壇を伝道館に持って来るように告げた。その次の夜、彼女は言われたとおり持って来た。わたしたちは祈祷会のあとでそれを焼き払い、体も心も霊と共に温められる思いがした。
 わたしたちはこの点において深く考え、はっきりした光を持ち、率直に語り、そしていっさいの偶像を打ち砕くべきことを主張しなければならない。

 三 彼らを救い出すこと

 わたしたちは偶像礼拝がサタンの創始したもので、またその力によって与えられていることを悟ったであろうか。それならそのとりこを救い出すためにただ一つの道があることは明白である。それは聖霊による祈りである。人の言葉はここでは役に立たない。
 エペソ人への手紙の中に、信ずる者の心の中に働く神の力が何であるかが述べられている。すなわち、
 一 わたしたちを罪とわずらいと疑いと恐れから解き放って上に引き上げ、キリストと共に天の所に坐らせる力として。それは信仰の偉力である(エペソ一章)。
 二 キリストをわたしたちの心にもたらし、互いにまたすべての人に対する愛を満たす力として。それは愛の偉力である(エペソ三・十七)。
 三 このように引き上げられ、キリスト・イエスにある信仰と愛とによろわれて、権威と力とに対して戦う力として。それは彼の大能の力、すなわち聖霊による祈りの力である(エペソ六・十八)。
 ここにわたしたちの武器がある──わたしたちを満足させる昇天の主に対する信仰、主の民と滅びる魂に対する愛、及び祈りの力、こうしてサタンのとりことなっている者をつなぐ鎖を断ち切り、その強い手から彼らを救い出すことができる。これは戦いである。血肉と戦うのではなく霊界の戦いであって、全身全力をこめて戦うべき真の戦いである。
 ある田舎の教会で、毎年修養会が開かれていた。その牧師も霊的な人である。わたしは昨年招かれて行ったのであるが、何となく手応えがない。みな謹んで傾聴している。しかしこれと言って確実なわざがなされない。『見よ、あなたは彼らには、美しい声で愛の歌をうたう者のように、また楽器をよく奏する者のように思われる。彼らはあなたの言葉は聞くが、それを行おうとはしない』というエゼキエル書のみことば(三十三・三十二)がいつも心に浮かんできた。
 わたしは彼らに質問を試みたが、ほとんどすべての人の家に仏壇があるというのである(もちろん彼ら自身で拝むわけではないが)。そして祭礼の時などに僧侶にお包みをするのである。
 わたしはそれを聞いて、力を尽くしてそれが明白な間違いであることを告げた。しかし何の印象も与えたように思われない。その点で認罪があったように思われなかった。
 今年三人の聖霊に満たされた日本人の兄弟たちが秋の集会を持つために招かれた。彼らは集会前三日間、山の上の空き家に入って日夜熱心に祈り抜いた。四日目に集会が始まったが、聖霊は大いなる力をもって臨まれた。その第一の結果は、栄光ある偶像破壊であった。偶像は片端から引き下ろされて火に焼かれ、憎むべきものは破壊し尽くされた。彼らは言った。「昨年ウィルクス先生が見えて、えらい熱心さで偶像を破壊するように勧められたが、その時までは何のためかわからなかった。そう大した罪と感じていなかった」と。わたしははっきり真理を告げた。しかし聖霊だけが彼らに認罪を与えられるのである。『このたぐいは、祈と断食によらなければ、追い出すことはできない』。わたしたちの兄弟たちが信じまた確かめたとおりである。断食の祈りに答えて彼が来られる時、いかにすばやく真の認罪と悔改に至らせることであろうか。
 確かに偶像礼拝は最も堅固な悪魔のとりでの一つである。魂をその中から救い出すことは軽い気持ちではできない。
 『このたぐいは、祈と断食によらなければ、追い出すことはできない』。多くの伝道地において多くの結果を見ることができない原因はこのへんにあるのではあるまいか。もしわたしのしるしたことによって、伝道者を御前にひざまずかせるようになるならば、わたしの労は報いられて余りがあるのである。