ユーチューブの生配信で

コメントすると

 

たくさんのコメントが流れていく中で

自分のコメントと

タイミングよく同じようなコメントを

飛ばす人がいて

 

奇跡みたいな

ちいさなつながりを感じることがある。

 

 

自分の好きなことが

興味がることがあれば

 

つい引っ込んでしまいがちな

自分もそばにいながら

 

ぽんと何か投げてみると

世界から返事があって

 

はははと笑わさる。

 

その関係にしがみついたりしたら

なんか違うけど

 

大きな流れの中で

同じタイミングで

同じようなコメントを発信する

誰かとは

 

友達になれそうな気がする。

 

あからさまには

どこの誰かもわからない

 

けど確かにいるという

ふしぎな実感。

 

ありがたい、つながりの一つ。

意欲、生きる力

 

空間に流れが起きるとき

何から動き始めるのだろうか

 

物質で満たされている

塊の中にも

流れのような、軟らかさがあるとしたら

 

振動の様に

伝わっていくものなのかもしれない

 

だけど

それがどうして生まれるのかは

発信しているものが

 

何かの点が発信しているのかな

 

それで言うと

心臓や、細胞一つ一つは

 

何もなくても常に

発信していそうだ

 

 

人それぞれを

細胞とするなら

 

みんなが何かしらの発信をしている。

 

 

空間は、それを伝える

何もない空間が

 

周囲に満たされているから

広がっていく

 

寒さも熱さも

人の心も

 

何もないようにみえる

空間を伝わって

 

自分の中に響いてる

 

そのすべては自分の

中で生きている一つ一つの

細胞が

 

発信している音のようなもので

自分が聞いているのだろうか

 

 

世界に対する自分の想像は

その音を使って

 

自分がこういうことだろうと

決められるもの

 

泣いている子がいて

元気だなとも思えば

 

悲しいねと思うこともあるだろう

 

さむいときに

お布団にくるまれたくて

みちみちに包まれる

 

もしすべて遮断してしまったら

私の細胞一つ一つは

 

寂しいのかもしれない。

いろんなものが発信され流れている

空間にさらされることが

 

心地よいのかもしれない。

私のご先祖様の親せきで

 

ドラム缶に入って爆死しようとした方がおったそうです

 

おそらく、何かに絶望して

もう生きていることは耐えられないと思ったのでしょうか。

 

 

その結果、死ぬことはなくて

お母さんが、あんまの仕事を与えてくれたそうです。

 

 

結果的に死ねなかったけど

絶望から抜け出すことに成功している気もします。

 

 

彼はきっと、身体の一部を失い

自分にできることが限られた結果

 

それをするしかないと

ある意味道が限定されて

見やすくなったのかもしれません。

 

 

ふしぎなもので

彼が絶望して、自分を傷つけたからこそ

今まで見ていなかった

あんまの道に、いやがおうにも目を向けるようになった。

 

そんな気がします。

 

 

自分をかえりみても思うけども

 

自分はどこか

あきらめて人生に取り組む

ということが難しい気質があると思う。

 

 

ただ生きるということは

シンプルに人と繋がってできることをしていく

 

それだけのような気もするけど

そこから磁石の同極同士のように

 

はねて逃げてしまうそんなところがあるように思う。

 

死ぬことを求めて

ドラム缶で爆発した人も

 

ほんとうに自分の命が失われる

体験を通して

 

避けようとしていた

死ぬことという自分の宿命に

 

触れることが

できて、生き延びて

希望が見えたのかなと思います。

 

 

自分の生命は死ぬものだという

現実は

どこか目を覚ましてくれる気がします。