車に乗っていると

人が見えないので

会話はできません

 

ですが、なんとなく近くにいると

いや~な気配がしたり

 

この2台なんでこんなにくっついてんの!?

と不思議なほど「絡み合っている」ように見えることもある。

 

それは様々な状況がありますので

それのどこもおかしいとは言い切れないのですが。

 

 

車に乗っている人の感情って

なんとなく走り方を見ていると

分かる気がしませんか。

 

 

表面はただの走っている車なのに

感じるところまで近寄ると

ん?この感じは、とその人なりの存在感があります。

 

 

人っていくら無表情でも

感情はなにかしら動いていると思います。

 

うちのお父さんなんかも

いつもおんなじ顔してますが

 

今日は機嫌いいんだなとか、

なんか不満そう?とか

心の感覚が違います。

 

 

車に乗ると人が変わったように・・

なんて人もいますが

 

車って見えない感情が、

意外と外に出やすくなっている気がして

面白いと思います。

 

人とじかに接するときよりも

車という仮面、鎧をかぶっている方が

出せる!

ということもあるのかもしれません。

 

 

もしくは人の姿が見えない中で

ぶつかったら危険!と触れ合えないからこそ

不安がたかまって攻撃的になったりするのかもしれません。

 

 

むかしは交通戦争なんて言うこともありましたが

不安とか恐怖、怒りの感情の

コントロールを失った結果のような気もします。

 

 

そんな中で、私はいのちの構造を感じるんです。

その必死さです。

 

すこしでも前に、自分が一番先にたどり着くんだ!

 

前の人について行って、ここぞとばかりに追い抜かしていくぞ!

 

ここは速度の取り締まりやっていそうだから

スピード出したいけど早い人の後ろにいよう。

 

いのちを守りながら、どこか安心の場所へたどり着く

そんな意志を感じます。

 

その意思が、相手の見えない中で

人間性よりも根源的な感情として発揮されていると思うのです。

 

「この男なんでこんな荒っぽい運転すんの」

と普段しずかな人がハンドルを握るとクラクションを多用して見たり

 

豹変するのはどこかでよく聞く話だと思います。

 

 

さて、なんとなくネガティブに

このような感情がイメージされますが、

 

どうでしょうか、命の方向性としては間違っていない気もします。

 

他人の命を利用して(共生して)

自分の命を最大限生かす。

 

それはいのちの意思としては

あってしかるべきものではないでしょうか。

 

 

ここでさらに言いたいのは

植物は根っこのあたりで微生物と共生している

というお話です。

 

植物は根っこから何か微生物の好むモノをだし

それによってきた微生物が与えられた代わりに

植物の栄養だか保護だかに役立つものをだす。

 

そんな仕組みがあるようです。

 

つまり、この共生の構造は人間にもあるということ。

 

すこし極端になりますが

 

無意識の世界では人は繋がっていて

感情の伝達や、そのほかにも何か伝えあっている。

 

そのお互いの何かを出し合う中で

共鳴し、時には競争し、協力し

いのちとして前へ前へと進んでいる

 

ような気がします。

 

 

乱暴な運転をする自分を発見して

こんな自分はやばい人なのか!?

と心配になりますが、

いのちの機能として認めても良いのではないでしょうか。

職場の人となぜか話せない

 

その私の心はなにをみているのでしょうか

 

 

私の過去からひもといてみようと

 

幼少期の親の態度、どなる親であったこと

そして私が怒りを抑圧していたこと

 

親のために我慢しているんだ、

してやっているんだと思っていたこと

 

今もその怒りがずっとあり

 

ほんとうはただ大切にしてほしかった

親に頼るために私が我慢していた

 

 

でも今の私は成長して

周りの人たちがどなっていても

 

気にしなくてもいいはず。

 

だけど小さくなって何も言えなくなるか

逆に怖いからか、攻撃的になったりします。

(怒るなよ!と怒る人を攻撃する)

 

 

私が自分に感じる違和感は

 

お前、そんなにちいさくて弱いか?

 

ということです。

 

 

だけど実際の私の行動は

 

怒っている人に怯えてコソコソし

怒られないようにするためにさらに弱い人を犠牲にしたり

 

もう怖すぎてがくがくぶるぶるなんです!

 

 

でも、なんでそんなに?!

とも思います。

 

 

さてここで

心が現実をつくっているということについて

 

 

実際には、空を飛ぶ能力があるタカが

 

あるところに閉じ込められて

飛ばずに大きくなりました。

 

その鳥をタカだと知っている人は

君は飛べるんだよといいますが

 

タカは飛んだことがないから

空に放り出されたら落ちて死んじゃうんじゃないかって

怖くて仕方ない。

 

 

つまりタカは実際の能力とは関係なく

「自分は飛べないだろう」

と思い込んでいる。

 

 

その強く信じている心が

カゴの外に出ることを恐ろしいことと

感じさせるのです。

 

さてさて

私の話に戻りましょう。

 

私は職場の人と話せない。

 

ですが話す能力はあります。

聞かれたり、相手から話しかけられると

すらすら、むしろ楽しく話すのです。

 

 

でも、いつもむっつりして自分からは話しません!

 

なぜでしょう

 

さっきのタカの話に照らしてみると

 

私は人に話しかけることに良くないイメージがある

タカが、かごから出たら落っこちて死んじゃうと勘違いしているように。

 

それは現実ではないが

私の心にとっては、それが現実の「イメージ」である。

 

細かく言うと

私は父親に話しかけても否定され

母に自分の気持ちを話しても拒絶されたり叱られ

 

自分の気持ちを話すたびに

痛めつけられていました。

(というイメージを私がもってしまった)

 

そのせいで私は自分の気持ちを言うことに

こんな自分なんてどうせ愛されないんだ

という自己否定のイメージをつくります。

 

そして、

大人になり、社会にでて

なぜか話せない!!

なんでなんだ俺!

 

となりました。

 

また少し長くなってしまいました。

私にとってこのテーマは

根深いものがあるようです。

 

お付き合いいただいて

ありがとうございます。

 

 

自分の持っている自分自身のイメージ

それによって本来できる!と感じていいはずのことが

まったくもってできなくなる。

 

心が現実をつくっているんだ!

というお話でした。

 

 

レインボーブリッジ封鎖できません!

 

会議室でこうしようと思っても

現場ではできないこともあるんです。

 

なんでできないの!と自分を責めませぬよう。

 

盆栽って枝を切ったりして

 

好きな形になってほしいな

なんていうイメージ。

 

 

自分の人生も

 

好きな方に枝を伸ばして

のびのびにしたらいいと思うんです。

 

ぼさぼさぼんになったれ

 

とね。

 

 

でも髪の毛も

 

ベテランの床屋さん、

しかも僕のことをよく知っている職人さんに

 

刈ってもらうと

みんなにいいね!って言われる。

 

何の変哲もないスポーツ刈りの

ちょっとながいやつなんですけど。。

 

 

髪の毛って

孫悟空が自分の髪の毛を引っこ抜いて

フッてすると自分の分身になったり

 

地味に大切なものなのかもしれません。

 

 

名は体を表すというように

 

代名詞のように

 

その形や姿は

その人の内面を象徴するように

表現されている。

 

 

さて、

人生の選択の話に戻ります。

 

先ほどのお話でいうと

 

私たちの「行動」って

自分の「姿」にもなります。

 

「いつも掃除する人」とか

「運転する人」

 

「あいさつするひと」

 

「いじわるするひと」

など

 

つまりその人の行動が

 

その人らしさとなっていく。

 

 

もしそう思うならば

 

私はどんな行動を取り

 

私らしいと自信を持って言えるだろうか。

 

 

内側に芽生える衝動は

私たちを突き動かします。

 

そのエネルギーを

どのような行動に移すかは

 

私の手にゆだねられている。

 

しかしそれが強制しすぎると

 

盆栽は枯れることもある。

 

 

私たちにはあふれ出るエネルギーがあります。

 

それをどんな形で表現するか

 

きっとみんなに

 

私はこれでいい!

といえるものがある気がします。