おばあちゃん
おかあさん
ねえちゃん
近所のおばあちゃん
その孫のおねえちゃん
みなさんありがとう
なんでかと言えば
大切にしてくれたから?
大事にしてくれたから
でもそうなると
自分は頑張らなきゃ
まだまだできてない
そう感じることもあるのかな
なんのために
今日は
できていた
そんな日が来るのだろうか
いつも
まだまだ
そろそろ
お父さんが来てくれても
いいころだ
おばあちゃん
おかあさん
ねえちゃん
近所のおばあちゃん
その孫のおねえちゃん
みなさんありがとう
なんでかと言えば
大切にしてくれたから?
大事にしてくれたから
でもそうなると
自分は頑張らなきゃ
まだまだできてない
そう感じることもあるのかな
なんのために
今日は
できていた
そんな日が来るのだろうか
いつも
まだまだ
そろそろ
お父さんが来てくれても
いいころだ
人のことが「そう」見える。
でもその見えている姿は
ほんとうの姿なのでしょうか。
どちらかというと
「そう」見たいのは私の中に理由があるのかもしれない。
私の心の何かを隠すために。
他人を問題のある人
そう見ているのは、私。
この人はきっとむかむかしているに違いない。
そう思うとそれが間違いない事実のように感じる。
そして、怒ってるんじゃない?とその人を
いらいらさせることを言う。
そして解決しなければならない
心の問題として、
その人に
「問題だよそれは、解決しなさい」
と訴える。
こういうことは
自分の無意識的な部分で
やってしまっているのだ。
だから本当に
その人がむかむかしていると
錯覚してしまう。
でもそれは現実と言えるのだろうか。
というのも
私にはその人は問題だ!と思っていても
別の人とはうまく日常生活ができているからなのだ。
とすると
問題はその人のむかむかしていることではなく
私が
「ねぇねぇ、むかむかしているの?チクチク
と、むしろ人をイラつかせることをしていて
それで怒り出したら、ほら見たことか!と怒ってるじゃん!
と鬼の首をとったように、あえてそう見ちゃっている自分の心」
が問題なのだ。
罪のない人を鬼に仕立て上げる
私の心とは(笑)
ちなみに私の場合は
「我慢している人の怒り」
に敏感なようだ。
そしてじつは
自分自身が「我慢して怒りを持っている」のである。
さらに言うなら
「自分で気づいていない怒りを持っている人」
に過剰に反応して
先手を打って行動してしまうのだ。
そして同時に
怒りを持って吐き出したい人が
自然と私によってきて
はき捨てていく。
ということもある。
これはある意味
引き寄せているのだろう。
私は恐れているのでしょう。
その「怒り」が表に出ることを
警戒しているのです。
私自身は、怒りを隠し、穏やかなふりをしている。
そして、怒りを敏感に感じては
「怒ってるでしょ?ダメだよ~」と
人の怒りも否定する。
そして「うざ!」と怒られる。
な~にやってんだか、わたしゃ
どうやら
「怒りによって人を傷つけた」
「我慢して気づかぬうちに怒りを溜めていた」
そのあたりに
私が
人を問題視する
私の構造がありそうだ。
私は
被害者でもあり、隠された怒りを憎んでいる
そして
加害者として、隠された怒りを人にぶつけた罪悪感がある。
さらには
我慢して怒りを溜めて頑張っている人に
楽になってほしい、救いたい、愛したい。
愛し合いたいのかもしれない。
それができない
悲しみ、無力感
自分への絶望
そんな私の心が
あの人たちを
「問題のある人」
にしているのかもしれない。
そうして責めている間は
自分がそのひどい感情からにげることができる。
でもそれじゃあ
ほんとうにしたいことは叶えられず
ずっと不幸なまま
だったら本当はしたかったこと
愛しあえる喜びに向かって
できることをしたい。
だから、あの人の中に問題を見てしまう時は
わたしはいまは答えを持っていないけど
信じていたいのだ。
きっとまた愛しあえる時がくることを。
できるはずだと。
わたしたちは
水をのみ
きれいな水じゃないと
病気にもなります
しかし
その水を
濾過してのめば
おいしい
植物は
濾過をしている
海に集まった
汚れたものは
蓄えられて
だれかが摂りいれるかもしれない
汚さは
どこからくるのか
作ったのなら
なぜ?
身近にいる
濾過してくれている人も
もう無理って
いなくなる
だって汚している人は
そんなのしらないもんね
だからこれでいい
その痛みを
しるまでは
きっと傷つけあうのだろう。