翼に未来を乗せて | 青森今昔物語

青森今昔物語

戦災により失われた青森市の記憶。


青森今昔物語-青森空港

 昭和40年(1965年)6月1日、日本国内航空は東京-青森間一日一往復の定期航空路を開設しました。

 昭和27年東京-三沢間で民間航空機の運行が開始されましたが、三沢市は県の東部にあるうえ、アメリカ軍管理下にあったため、不便でした。昭和32年6月、青森市が運輸省に飛行場設置を陳情、33年10月には青森市高田地区の標高198メートルの原野に新飛行場を設置することが決定され、飛行場の管理も市から県へと移管されることになりました。

 一時、用地買収の地価が3.5倍に上昇、幸畑から田茂木野にかけての原野に建設されることも検討されましたが、昭和36年9月5日高田字大谷地区に決定され、翌37年8月2日運輸省は正式に飛行場の建設を許可しました。

 昭和37年10月22日起工式、総予算4億2000万円で昭和39年11月5日、長さ1200メートル、幅30メートルの滑走路1本、YS11型機2機が駐機できるエプロン、管制塔、空港事務所、ターミナルビルを持つ空港が完成しました。

 この日9時30分羽田を離陸した第一便は、昭和39年の東京オリンピックで聖火を輸送したYS11「聖火」号。日本国内航空が招待した第11代花籠親方(元幕内大ノ海)、双子山親方(もと横綱若乃花)ら花籠部屋一門の関取21人と一般客16人が、山田高校のブラスバンドに迎えられて11時15分青森に着陸しました。

 十両若熊の弓取り式の後、上り便に搭乗したのは招待客4人と一般客26人、飛行場に駆けつけた2000人の市民があげる歓声の中、羽田に向かい飛び立ちました。

 東京-上野間特急で10時間強という時代、青森羽田を1時間45分(片道7500円)で結んだわが国初のジェット旅客機の運航は、高度成長時代の象徴を意味するものでした。

青森空港管理事務所   


青森空港日本一の除雪作業!!