この1週間、原因不明の目眩や食欲不振などの体調不良が続いている。
仕事の疲労、睡眠不足、更年期もあるだろうが、やはり父が亡くなった喪失感が大きいのかもしれない。
父が旅立ってから、両親の様々なエピソード、思い出を振り返っている。
父、母ともになかなか破天荒でドラマチックな人生を送ってきた。
私の生き方や価値観に多大な影響を与えた両親について少しずつ書いていこうと思う。
父と母の出会いは、
なんとフランスのパリ。
父も母も関西の生まれではない。
父は佐藤栄作や岸信介などの総理大臣を輩出した高校を卒業し、関西の難関国立大で建築を学び、どんな思いがあったのか? 関西から遠く離れた道庁で専門職の公務員として就職。
公務員なのに真っ赤なTシャツにジーンズ、長髪で出勤していたとか。かなりの異端児だったよう。
数年勤めたが、ある設計コンペに応募したところ優秀賞を受賞し、結構な額の賞金をもらったので、すぐに公務員をやめて、その賞金でヨーロッパの建築を巡る旅へ。その後の仕事のことなど決めずに。
そこで同じツアーに参加していたのが母だった。
母は関東の生まれで、東京の有名女子大在学中には学生自治会の幹部として学生運動にも参加していたような人。
アナウンサー志望だったが、狭き門で全国のテレビ局を受けたが全滅。大学卒業後は出版社に就職し、編集者となった。
父と同じヨーロッパツアーに参加していた母は、どんな関係かは知らないが男2人を引き連れていたそう。
ツアーで母は父に出会い、面白くて魅力的な男だと感じ、連れていた男そっちのけで父と意気投合したようだ。
母が最初に父に惚れたんじゃないかなと思う。破天荒で野心家で何かすごい志をもっている感じがしたという。
ヨーロッパから帰国後、父は大阪に生活拠点を移し、様々な社会運動、市民運動の中心として活動する。
そんな父を追いかけるように母は東京の出版社を辞めて来阪。そして2人はボロアパートで同棲を開始。
結婚式は、北海道の大草原に牧師を呼んで、レジャーシートの上で誓いを立てたとか?
結婚報告は、2人の結婚までの軌跡を本にして親しい人に配ったという。
幼い頃から両親が書いたその本について聞かされてきたが、かなり過激でキワドい内容もあるらしく未だにそれを目にしたことも読んだこともない。
私が誕生した軌跡を知るためにも、いつか必ず読まなければいけないと思っている。
父はその時、無職のプータロー、母が大阪の出版社で雑誌編集者として働きながら父の活動と生活を支えた。
結婚後、母はBAR専門誌の取材を担当していて、BARでよくかかっていたレコードの紹介記事も書いていた。
私が幼い頃、家にいろんなレコードがあったのはそういうわけだったのか。ビートルズ、サイモン&ガーファンクル、ピーター・ポール&マリー、井上陽水、はっぴーえんど、彼らの歌は母の影響で聞いていた。
また、BARで人気のお酒を紹介するので、酒造会社との繋がりもあり、バーボン、ワイン、カクテルと色んなお酒を飲む機会が多く、なかなかの酒豪であった。私の辛党は間違いなく母譲りだと思う。
私が生まれてからも母は私を保育所に預けて、生活を支えていたが、
父たちの社会運動、市民運動も、ようやく行政が動き出し、想いを実現させていった。
例えば、大阪のある歴史的建造物の保存再生運動や、保育所拡充運動などもそのひとつ。
もし、父たちの運動がなければ、大阪市役所周辺の景観は全く違っていただろう。
また働く女性が子供を預けられる保育所が拡充しなければ、女性の社会進出も実現しなかっただろう。
母も子育てしながら働く女性として運動に参加していた。幼い頃、私もその運動に連れられて、両親がマイクを握って、街なかで演説する姿がうっすら記憶に残っている。
父はその後、社会運動家、建築家として世間やメディアからも注目されるようになり多方面で活躍することになる。
こんな両親だから、子供たちにいい大学を出て、いい会社に就職してほしいなんて考えはなく、両親から勉強しなさいと言われたことは一度もない。
父の口癖は、
「好きなことをしなさい。自分がやりたいことをしなさい!」
「たくさん恋をしなさい!」
だった。
こんな両親にして、世間一般と感覚がズレている私あり。の所以だ。