キームゼー国定自然公園の中、湖岸で何者かに襲われた男が、大けがをした。現場は動物園の近くで、その動物園では、一カ月ほど前に、スタッフが殺されており、研究用の動物と飼育係が行方不明になっている。散歩から戻ると、セリンが来ていた。日本の情報局に、ドイツ情報局から、僕:グアトのウォーカロン判別技術を提供して欲しいと打診があったという。ロジの心配をよそに、僕はその依頼を受けることにした。そして、僕たちは、自然保護区にあるベルサイユ宮殿を模したヘレン・インゼル研究所へと向かった。
致命的な傷を追っても、肉体は再生できる未来。
完全に肉体が消滅していても、ボディを作り直す技術もある。
頭脳や意識にいたっては、データ化が可能。
ほぼ永遠に生きられる人格を、バーチャルへとシフトさせる人類の大移動がじわじわと始まりつつある世界です。
しかし、完全な安全が、約束されているわけではありません。
惑星が破壊されれば、すべては消滅することからは逃れられず、運命共同体である”宇宙船地球号”は、今と何ら変わることはありません。
物語は、<シャチがレストランで暴れ、宮殿と動物園はミサイルが着弾、遊園地では恐竜が闊歩、おまけにドライブインで強盗に遭>うという相変わらずの危険に遭遇するグアト一行です。
まぁ、そこが、ウリっちゃあウリなんですが。。。
今回は、今まで以上に、リアル世界を意識した作者の思いが、至る所に散見され、またしても、いろいろと考えさせられました。
付箋だらけになっちゃった。
まずは、<対立のために、相手の言動の揚げ足を取る。>
対立しなければ、自分たちのアイデンティティが損なわれると思っている。
うーん、リアルでも、フツーにアルアルですねー。
また、ウォーカロンであるセリンが、自分がウォーカロンであることを、普段は意識していないと言ったことを受けて、グアトは、人間も、<人種とか家柄とか>を、たまに、そー言えばそうだったなと思い出す程度がよいと答えるのですが、ここに、偏見や差別に対する作者の見識を見た気がします。
そして、ロジの動物が人間を襲うのは、食料として見ているだけで、人間だって、動物を食べているからという言葉に、”生きにくくなる”から、突き詰めて考えないようにと返すグアトに、そうそうと肯いていました。
そこは、生物であるからには、人間も逃れられへんとこやもん。
大気汚染や気候変動による自然災害、温暖化も、産業構造を改めることができないのは、感染症が流行しても、経済活動を止められないのと同じで、自分が死ななければ、自分の家族さえ生きていれば、目の前の危険に目をつぶり、数十年先の未来にも、どうせ自分は生きていないからと開き直るのが人間。
アイタタタ。。。
科学者は、未来を悲観して手を打とうとするが、多くの人々は、我慢さえすえばなんとかなる、と楽観的に神に祈ることしかしない。
「現代の人たちは、どんなものでも信じてしまえる一方で、自分に都合の悪いものは受けつけません」
うん、今、まさにこれやねん。
人間って、どこまで行っても、変わらんもんやなぁと情けなくなりつつ、皆そうなのかと、変に安心したりもして、悩ましいところです。
アカン、アカン、これではアカンよー。
アカンねんけど、私は流されてるなぁ。
企業は企業で、自分たちが生きることを最優先し、自社の利益のためには、知っていても知らないふりをする。
すぐに提供できるものも、利益が最大になるその時まで、倉庫に温存する。
たとえ、それで全世界の人間が不利益を被ることになったとしても、知らんぷり。
あっ、これは、この物語のことですよ。
ウォーカロン製造に先立って、動物実験を行っていた時点で、ある重大な問題を知りながら、製造会社が隠していたというのが、ストーリィのキーになっています。
でも、そんなんリアル世界にもあるからあっても、おかしくないから、怖いですね。
そして、レトロな遊園地に押し寄せる老人たちを評して、死なない未来ではあっても、若いボディを買えるのは、医療環境の整った国の、ある程度裕福な人々であって、それ以外の人は、歳をとっても、軽く働いて賃金を得る生活に縛られると未来の格差を解説しています。
そんな中、グアトの「完璧主義者」の定義↓が興味深いです。
「ミスを許せるし、つぎつぎと失敗ばかりするし、なにをやっても裏目に出たり、ちょっとしたことを見逃したりして、後悔ばかりするし……。でも、それもひっくるめて許せる。だって、許さないと、リカバできないじゃないか。つぎからつぎへと訪れる失敗を、こつこつと修正していく。やり直して、考え直して、修復する。ミスに苛立っていたら、リカバが遅れる。諦めている暇もない。そうしていると、なんとなく、知らないうちに、完璧というもの近付ける。それが、完璧主義者なんだ」
完璧の「完」は、完了の「完」やけど、もしかしたら、近付くのはいいけど、実は到達はしたらアカンもんかも。
到達したと思ったら、まだ上があって、もっと、もっとと常に変化し続けることが醍醐味。
少なくとも、人類は今までそうしてきたやん。
でも、弊害もいろいろあって、まぁ、それが、正解やとも思われへんとこが、ミソやね。
ラストにね、懐かしい?トランスファがグアトと接触するのですが、これ、誰?
誰かワカレへん。
やっぱり、あの人かなぁ。
D?
えーっ、誰やねん。
うー、気になるぅ。
ペネラピみたいに判りやすけりゃいいのに。。。
そして、キャサリン・クーパ博士との会話が、またまた意味深なのですヨ。
暴動や戦争などの野蛮な行為が、宗教や神や人種による感情的な真理から発せられており、それらが押さえ込まれ克服されたかに見えたものの、実は、それらの感情は生きる場所を失い、人知れず衰退してしまったのではないかという疑問。
そして、その原因は「科学」にあると。
ここに来て、科学を否定?
生きものは、いずれ死ぬ。
しかし、死んでも、それが、他の生きものの生に続くように、バックアップがつくられているのが、自然と言うシステムです。
では、人間の感情が死ぬことで、生き残るものがいるのでしょうか。
もしも、感情を殺すことによって、自分たちの絶滅を防いでいるのだとしたら。。。
それって、どうなん?
確かに生き延びて、平和な社会を継続することは、良いことでしょう。
だけど、人は「死」を想うからこそ、優しくなれるのに、それを「正義」と奉ってもええんかなぁ。
滅びることが、本来の自然です。それが、いうなれば、神の意志でした。既に、そこから逸脱し、私たちは自由というものに傲り、溺れている。どこまでも自由になれるのだと勘違いしているように、私には見えます。
【おまけ】
「逆ねじ」
「ときどきだけれど、力任せより、理屈が役に立つときがあるよ」
「ときどき」というところに惹かれる私。