過日、僅かばかりではありますが縁ある方のお通夜に列席させていただきました。


その際ご住職が法話の中で、無量寿経より諦聴諦観ということが引用されて、人が死と向き合うときにあきらめて見聞きするのか、あきらかにみききするのかでまったく違ってくると言うお話をされました。


お釈迦様の基本的な教えに四聖諦があります。

この諦と言う言葉は仏教のよく誤解される元ではないでしょうか。

仏教の教えは諦めることなのか、なんとも後ろ向きなしせいではないか・・・と。

仏教経典中の諦と言う言葉はインドのサッティヤという語に由来します。

その意味するところは明々白々な真実のこと。

最近では真理の訳語があてられることが多いようです。


宗教的な人名や書名に冠せられることも多いので、ヨガなどをされる方は耳になじみがあるかもしれませんね。


一方、日本語の「あきらめる」は「あきらか」と同根の語であり、本来動かしがたい事実の受容を意味します。

先のご住職の法話は諦の本来の意味を分かりやすく説明されたわけです。


お釈迦様は何かを諦めろなどと言ったわけではなく、ただ真理を語ったんですね。


冒頭通夜の故人は、激動の時代を人一倍困難な境遇で生き抜いてこられた質実剛健のひとでありました。

心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。