毎年「冬の京都」を訪れ「美味しい料理と大将の笑顔」を楽しみ

   に通っております「木屋町・割烹名店やました」に、今年初めて

   「夏・六月」に伺いました・・・「琵琶湖のホンモロコ網焼き」

   が大好物だが、今の時期は「鱧網焼き」でしょうか?

 

   店の前は「高瀬川一之船入」

   「船入」とは、荷物の積み下ろしや船の方向転換をを行う場所で

   二条から四条までの間に九箇所作られ「国の史跡」に指定された

   この入江「一之船入」を除いて全て埋め立てられています。

   また「高瀬川」は、「保津峡」の開発等で有名な江戸初期の豪商

   「角倉了以・素庵父子」が、慶長19年(1614)頃に開いた

   物流用の運河で、この辺りを起点として「鴨川」の水を取り入れ   

   鴨川に並行して東九条まで南下し、鴨川を横断して伏見に通じて

   いた。 

   水深が浅い事から底が平らな「高瀬舟」と云う船が使われ、ここ

   から「川の名前」が「高瀬川」と付けられた。

   盛時には百数十艘が上下して「伏見」を通じて「大坂」等の物資  

   を運び入れ、京都の経済に重要な役割を果たした。

   「木屋町筋」には「木屋町」と云う町名の由来となった「材木屋」

   をはじめ、数多くの「問屋」が立ち並び賑わった。

   明治以降は、高瀬川は 次第に「舟運」の目的を失って、大正9年

   (1920)舟運は廃止されたが、清らかな水と 桜・柳が美しい

   情緒溢れる景観が、多くの市民や観光客を楽しませている。 と、

   「立札」に記されていました。

 

 

   「口吸い(生姜風味)」

 

 

   「前菜四種盛り」

 

 

   「泥鰌隠元和え・自家製? 唐墨」

 

 

   「鯛・丸芋の和え物」

 

 

   「烏賊塩辛(烏賊わた)」

 

 

   「胡瓜酢の物と鱧皮かな?」

 

 

   「お造り(マスノスケ)」(キングサーモン)

   (「スケ」とは「國司の四等官」のうち次官である「介(すけ)」

   を意味して、現地赴任する「國司」のうちの 官位筆頭者で、任国

   で強権を振るった「次官の 介」を、「鮭・鱒」の親分的な存在と

   見立てたと云います) 

 

 

   「生鳥貝」

 

 

   「焼き鱧」

 

 

   「鱧の骨・唐揚げ?」

 

 

 

 

   「茗荷」で巻いて食べます。

 

 

 

 

   「ジュンサイ」

 

 

   「野菜のてっぱい」

   (「てっぱい」は「鉄砲和え」の事で、味噌や酢を混ぜたものを

   魚の切り身や野菜と和えたもの。 京都では「わけぎ」と云う葱

   の一種や貝類を和える事が多く、「京・おばんざい」として親し

   みのある郷土料理、とか)

 

 

 

   「鮎のフライ」

   頭からガブリと食べるには 丁度良いサイズですね。

 

 

 

 

   この後、「宮川町・ほんじょう」に「君翔・襟替え」のお祝いに

   伺いました。

 

 

   「舞妓」になって 舞踊三味線等のお稽古を重ね、行儀作法や言葉

   遣いを習い、五・六年経ち二十歳頃、置屋から自立して 自分の力

   で身を立てる決心をして「芸妓」になる事を「襟替(えりかえ)」

   と云うのだそうです。

   今まで「舞妓」の時は「赤い襟」だったのを「白い襟」に替えて、

   髪型も「おふく」から「先笄(さっこ)」と云う、昔 結婚したば

   かりの女性がする髪型に替え、「鉄漿・お歯黒」をつけて 二週間

   ほど過ごして、置屋の女将に「先笄の元結」を切って貰い「芸妓」

   となります。

   真新しい「鬘」をかぶり「正装・黒紋付」を着て花街の「お茶屋」

   や関係先に挨拶回りをするのだとか。

   (舞妓時代は髪を自毛で結い寝る時は「箱枕」ですから、「芸妓」

   になって「鬘」になった時の解放感が嬉しいとも言います)

 

   翌朝、再び「京都市役所改修工事」を眺めます!