「京都の正月・初詣」は「賀茂別雷神社(通称:上賀茂神社)」

   に伺いました。

 

   「一の鳥居」の手前に、新しく「大鳥居」が出来ていました!

   「なんじゃこりゃ 何時出来たのかな? えっ2020年12月

   27日に『建立』で2021年1月5日が『くぐり初め』なの、

   それ以降に『初詣』で来てるけど、こんなに大きな鳥居 在りま

   したっけ? 在った! それじゃあ『新しく 出来ていました』

   は違いますね。 謹んで訂正させて戴きます」

   (「賀茂別雷神社」には、昔から「大鳥居」は 存在していなか

   ったそうですが、神社手前の「賀茂川」に架かる「御園橋」の

   拡張工事が行われ、参拝者が 橋を渡ってきた時に『一目見て、

   神社が在る』と分かるように「橋の正面」に「大鳥居」を設置、

   その周囲に「バスロータリー」を兼ねた「宮前広場」を造った

   のだそうです)・・・あっ「写真記録」を残さずに潜ってしま

   いましたね。

   「一の鳥居」前で一礼して「境内」に入ります(この日は 雨)

 

 

   右手前方に「外幣殿・馬場殿(国の重要文化財)」です。

   江戸時代前期 寛永5年(1628)建立、桁行五間・梁間三間

   入母屋造・檜皮葺

   「幣殿」は、一般的には 参詣者が「幣帛(へいはく)・献上物

   など」を捧げる社殿で、「賀茂別雷神社・ 外幣殿」は「御所殿

   (ごしょでん、また 御所屋(ごしょのや)」とも言われ、嘗て

   「法皇・上皇の御幸、天皇の行幸」の際 等には「到着殿」とし

   て使われたと云います。

   また「葵祭」の 前儀、「賀茂競馬足汰式(かもくらべうま あし

   そろえしき)」の際に、馬の歯・毛並みから 馬齢や 健康状態を

   確認する「毛付けの儀」が行われ、その後に「素駆(すがけ)・

   番立(ばんだて)・競馳(きょうち)」が行われ、「賀茂競馬」

   での順番・組合せが決められるとか。

 

 

   「神馬舎」の「白馬・神山号」

   (ああ「人参」ばあっかりや、もう食べ過ぎやわぁ、なんか違う

   食べもん、おまへんやろか)

 

 

   「二の鳥居」を潜って 直ぐ左手には「すぐき神輿」

   「すぐき(酸茎)・すぐき漬」

   「蕪」の変種「スグキナ(酸茎菜)」を原材料にした京都伝統的

   漬物(「柴漬・千枚漬」と共に「京都三大漬物」の一つとされる)

   で、本格的な「乳酸発酵漬物」と云います。

   安土桃山時代の頃「賀茂別雷神社・社家」が「鴨川」に自生して

   いたものを持ち帰り廷内に栽植したのが始まりで、社家間で栽培

   が広まったとか、朝廷から種子を授かったとか諸説あるとの事。

   上賀茂深泥池周辺の限られた地域で栽培され、他所への種子持ち

   出しが禁じられていたと云います。

   明治期になって 一般へも普及し始め、第一次世界大戦後の好況に

   よって、販売が急速に拡大したが、製法に関しては「塩漬けにし、

   乳酸発酵」させるところは変わらず、発酵の手法の改良が重ねら

   れた」そうです。

   「荒漬」:収穫した「スグキナ」の根の皮を向き面取りし「ころ

   し桶」に入れて、全体に圧力がかかるように「押蓋と 樽の隙間」

   に「藁」を入れて「重し」を乗せて、昼から翌朝まで塩分10%

   程度の塩水に漬け込みます。

   「本漬」:一晩「荒漬」したものを水洗いし、四斗樽に詰め替え、

   「天秤押し」と云う「すぐき特有の漬け方」を行います。

   「スグキナかぶら」が直接桶肌や別の「かぶら」に触れて傷つく

   ことなく「葉」で包み、「桶」の底から隙間なく渦巻状に並べ、

   一段毎に塩を振りかける。 桶の高さまで3~4段ほどを重ねて

   天秤に重石を乗せて漬け込み、天秤圧により「嵩」が減ったら、

   数日おきに「荒漬すぐき」を「追漬け」して、最終的には「6~

   7段」が漬けられると云います。 「天秤押し」は長さ3~4m

   の丸太ん棒の先に重石を括り付け、梃子の原理を応用して400

   kg~500kgの圧力かけているとか・・・現在は「塩加減・

   天秤押し加減」が難しいと「圧縮機」で加圧する事が主流になっ

   たらしい(「すぐきの天秤押し」は、上賀茂の「冬の風物詩」と

   云われたのですが・・・)

   「発酵」:天秤を外して重石に替えて塩を馴染ませた後に「室」

   と呼ばれる小さな部屋に入れ、38~40℃で保温して「乳酸発

   酵」を促進させ、発酵によって白い汁が出始め、酸味が匂いたち

   葉と茎が褐変して、「スグキナかぶら」が黄みがかった乳白色に

   なったら完成だとか。

 

 

 

 

 

   「細殿(ほそどの)と立砂(たてずな)」

   「拝殿・細殿(国の重要文化財)」

   江戸時代前期 寛永5年(1628)建立、桁行五間・梁間ニ間

   入母屋造・檜皮葺

   「拝殿」は 神社で祭祀・拝礼を行う為の社殿であるが、「賀茂

   別雷神社」では「上皇・天皇、斎王」が参拝する際の「着到殿」

   として、入御して装束等を整える為の社殿であったようです。

   「細殿」前には、円錐形の二つの砂山が在ります。

   この砂山は「立砂」と呼ばれ、神代の昔に「ご祭神 賀茂別雷神」

   が降臨されたと云う「神山(こうやま、本殿の後2kmに在って

   円錐状の御姿)」を象ったもので、神を招く「神籬(ひもろぎ・

   憑代:よりしろ)」の役目を果たして、鬼門・裏鬼門に砂を撒く

   「清めの砂」の起源とされ、向かって 左の砂山に「三本(陽)」

   右の砂山に「二本(陰)」の「松葉」が差してあります。

   (「陰陽道」による「奇数=陽、偶数=陰」を合せて、神の出現

   を願うと云う意味になるのだとか)

   「松葉」は、嘗て「ご祭神 賀茂別雷神」が「神山」に登り 祭祀

   を行い、また里にお迎えし祭祀を行う為に「神山から持ち帰った

   松の木」を立てて「神迎え」をした事に由来すると云います、

   「社殿」が造営されてからは「松の木」が「松葉」に代わり「松

   の木」を立てた場所に「砂」が盛られたそうです。

   (「立砂」は、「細殿前」だけではなく「本殿・祝詞座」の前・

   背後にも在り、「祝詞座前・背後・細殿前」の順に大きく盛られ

   るとか)

 

   今年は「辰年」、「細殿」の前に「昇り龍・降り龍」の「大絵馬」

   (「昇り龍」は「運気上昇」と捉えてますが、「降り龍」は 運気

   が下がってしまうのかと云うと、そうではなく「天から地に 降臨

   して、地を守り、願いを叶える」とか)

 

 

 

 

 

 

 

   「楼門(国の重要文化財)」

   創建年代は不詳とされ、現在の建築は 寛永5年(1628)造替、

   三間一戸楼門、入母屋造・檜皮葺。

 

 

   「玉橋」から「片岡橋・片岡社」を臨みます。

   「玉橋(国の重要文化財)」

   江戸時代 寛永5年(1628)に架橋されたそうです。

   「楼門」の前で「御物忌川(おものいがわ)」に架かる。 高欄・

   擬宝珠付の「朱塗木造反橋」・・・神事で 神主が渡るとき以外は

   注連縄が張られて一般人通行禁止です。

 

 

   「四脚中門(国の重要文化財)」 

   創建年代は不詳とされ、現在の建築は 寛永5年(1628)造替、

   一間中門、板葺き。

   「四脚門」は、門柱の前後に控柱を二本ずつ、左右合せて 控柱が

   四本と、正門柱二本で 合計六本の門柱を持った門。
   この中、「内庭」に「左 権殿・右 本殿」が鎮座して、ともに国宝、

   文久3年(1863)の再建と云います。

 

 

   「宝船」の下を潜ると「良い年になる」とか。

 

 

   毎年「賀茂別雷神社」の「正月飾りの代表」とされる「宝船」は、

   「地元の氏子・吉田裕彦さん」が毎年新しく調整し奉納するのだ

   そうです(飾る 半年前から「ミチクサ(イネ科)・葛藤(つづら

   ふじ)の蔓・稲穂」を集めるのだとか)

 

 

   手前に「玉橋」、「朱塗り」が映える「楼門」

 

 

   「岩上(がんじょう)」

   「賀茂祭」の祭儀で、天皇より派遣された勅使が「御祭文(神仏に

   対する天皇の御言葉)」を「橋殿」で奏上した後、その「御祭文」

   を授けられた「宮司」は、それを 神前に供えた後に「橋殿」北側

   に在る「岩上」に蹲踞し、神からの「御言葉・返祝詞」を「橋殿」

   の勅使に奏上します。

   「橋殿」の下を流れる「御手洗川(御物忌川と合流します)」は、

   「神域と人間界の境界」なのでしょうか。

   この「岩上」は「神山」と共に「賀茂信仰 原点」で「気」の集中

   する場所だと云います。   

 

 

 

   この日は「寒い一日」でしたので「厄除け・大根炊き」も人気!

   (厚切りの大根と、肉厚のがんもどきです、冬・正月の風物詩)

   

 

 

   「神馬舎」の横の「焚火」にも人が集まっていました。