「臨済宗建仁寺派大本山 東山建仁禅寺」で「方丈庭園 潮音庭」

   (本坊中庭・小堀泰厳老大師作庭)を拝見してから「大書院」に

   移り「掛け軸 臨済宗開祖・臨済義玄の喝!」で「臨済四喝」を

   少しだけ学び、「細川護熙氏」が奉納された「襖絵 瀟湘八景図・

   二十四面」を拝見いたしました。

 

   この後、「納骨堂」に脇面を見て「唐子の間」へ。

 

 

   「唐子の間・唐子遊戯図」(明治45年「田村月樵」の筆)

   「床壁貼付絵 月夜唐子舟遊図」では、葦茂る湖上に「五人の唐子」

   が舟より月を眺める風情、漂渺たる空間に雲間の月が浮かび、その

   影が湖面に幾重もの輪となって映じられている。

   「押入襖絵」の書画を楽しむ情景はむしろ微笑ましく、舟遊の風流

   事とともに、洒脱な趣味が汲み取れると云います。

   「南側壁貼付絵から東側襖絵」にかけては、一転して遊び戯れる「

   唐子たち」の姿態が闊達に捉えられ、画面を一層明るく動きのある

   ものとし、唐子の人物描写に見る淀みない筆運びは、「月樵」の円

   熟した画境をそのまま表明している・・・「月樵67歳、晩年の作」

 

 

 

 

   「方丈 書院の間 海北友松筆・高精密複製 花鳥図襖 八面」

   (安土桃山時代・16世紀 紙本墨画 旧障壁画・掛軸八幅)

   二本の松を生やす盛り上がった地面から 飛び立たんとするように

   体をよじる「孔雀」と、梅に留まる「叭々鳥(ははちょう)」の

   つがいと、池に浮遊する三羽の水鳥を連続した構図にて配してお

   り、これらをつなぎ合わせていたであろう二面の襖絵は惜しくも

   欠損しているものの、「友松の筆使い」が華麗さと豪胆さを合わ

   せ語りかけている とされます。

  

 

 

   「納骨堂」

 

 

   「対馬行列輿」

   江戸時代に入ると、「五山派寺院」も 戦国の荒廃から復興に向か

   う事が出来て、寛永12年(1635)「五山十刹諸山之諸法度」

   と云う寺院統制令が制定され 学徳兼備の五山僧を「碩学」と呼び

   一定の禄が与えられ、その「碩学」に「建仁寺」では「古澗慈稽・

   三江紹益・利峰東鋭」の三師が推薦されたそうです。

   また、五山僧は漢文に関する知識が広く、これが 外交文書作成の

   面から、江戸時代の外交に 一役買うことになり「対州修文職、以

   酊庵修簡職」と呼ばれた。

   この「以酊庵」と云うのは「九州長崎・対馬」に在った 寺の名で、

   「対馬太守 宗義調」の請いに応じて「景轍玄蘇」が「朝鮮」との

   通講の任に当たった天正8年に始まるとか。

   徳川幕府は寛永12年「南禅寺」を除いた「五山寺院 天竜・相国・

   建仁・東福」の四山碩学中より「対州修文職」を選出し、輪番制で

   「以酊庵」に 出張駐在させる事とし、「対州修文職」は 慶応2年

   (1866)まで230年続けられたと云い、この間87名 のべ

   126名の輪番僧が赴任しています。

   これらの僧は 当時の五山の代表的人物で、「建仁寺」からは 18

   師が名を連ねています。

 

 

 

   「金澤翔子書 風神雷神」

   東京目黒区で生まれて直ぐに「ダウン症」と診断されるが、5歳に

   して「母・書家 金澤蘭鳳氏」に師事し、10歳の時に「般若心経」

   を書き、16歳の時「舎利礼」・17歳の時には「觀」で「日本学

   生書道文化連盟展・金賞」を受賞します。

   19歳で「雅号・小蘭」を取得し、21歳の時に「鎌倉・建長寺」

   に額装「慈悲」を奉納され、建長寺で個展を開催しています。

   その「建長寺」の紹介で「建仁寺」に『風神雷神』を奉納する事に

   なったとか。

 

 

 

 

   「方丈 衣鉢の間 海北友松筆・高精密複製 琴棋書画図 襖八面・

   壁貼付二面」

   (安土桃山時代・16世紀 紙本淡彩画 旧障壁画・掛軸十幅)

   近世初期の建仁寺復興に「海北友松」が制作した「建仁寺方丈障壁

   画五十面」の内「上間一之間(衣鉢の間)」を飾った十面の襖絵で、

   この作品のみが「著色画」であるが「狩野派的な真体著色画」とは

   大きく印象が異なる「水墨画的要素」を留めると云います。

   「友松」が「狩野派の影響を受けた画風」から脱し「友松様式」の

   確立への意気込みが見られるとの事です。

 

 

 

   「方丈 檀那の間 海北友松筆・高精密複製 山水図襖 八面」

   (安土桃山時代・16世紀 紙本墨画 旧障壁画・掛軸八幅)

   「水景と楼閣滝の場面」が描かれ、「玉潤」に学んだと云う「溌墨

   草体(墨のにじみ、かすれで表現)」で、淡墨を基調に周囲の風景

   をある程度描いた後で、中墨・濃墨で輪郭を整えながら巧みなアク

   セントが入れられ、また大きな余白も効果的で「友松様式」への昇

   華された画風で、後に「友松」が好んで描いた「山水画」の出発点

   と言うべき作品だそうです。

 


 

 

   「方丈 室中の間 海北友松筆・高精密複製 竹林七賢図襖 十六面」

   (安土桃山時代・16世紀 紙本墨画 旧障壁画・掛軸十六幅)

   「竹林七賢」とは、中国の魏晋の時代(3世紀半ば)に国難を避け

   世俗を避けて竹林に会して、酒を飲み、楽を奏で、清談(俗世から

   超越した談論)を好み耽った七人の賢人・隠士の事だそうです。

   当時の権力者・司馬一族による礼教政治(言論の自由が許されない

   政治、とか)を批判していたと云い、その自由奔放な言動が後世の

   人々から敬愛されたと云います。

   「海北友松」の人物描写では、「袋絵」とか「袋人物」と云われる

   あたかも「風をはらんだ袋」のような衣を身に着けた人物図が得意

   とか。

   「十一面観音菩薩坐像」が祀られています。

   この「十一面観音菩薩坐像」は、今から 約400年前「徳川二代

   将軍・徳川秀忠公」の娘である「東福門院(後水尾天皇の中宮で、

   明正天皇の生母)」に御寄進を戴いた「寺宝」と云います。

 

 

 

 

   「方丈 礼の間 海北友松筆・高精密複製 雲龍図襖 八面」

   (安土桃山時代・16世紀 紙本墨画 旧障壁画・掛軸八幅)

   招かれた客が 最初に通される「礼の間」に於いて、「北面」には

   咆哮と共に 雲間から出現する「龍」が、「西面」には待ち構える

   ように 睨みをきかす「龍」が、それぞれに「雲」を従えながら圧

   倒的な迫力で描かれて、近世以来 「武門・禅門」に特に好まれた

   「龍」を画題に力量を発揮する作品としたと云います。

   「海北友松」が得意とする「水墨の龍」の中でも 随一の作品と評

   価されています。

   (「雲龍図」は「虎図」と共に「室町時代」にも描かれた画題で、

   屡々「禅寺の 法堂・天井」に描かれるのは「火難」を避ける為と

   か、架空の霊獣の飛翔する雄大な姿から、一種 神格化された浄域

   の表現とも考えられたと云います。

   「龍」は「本草網目」に「形に 九似あり、駝に似た頭、鹿に似た

   角、鬼に似た眼、牛に似た耳、蛇に似た項、蜃(大蛤)に似た腹、

   鯉に似た鱗、鷹に似た爪、虎に似た掌」と説かれて全貌が知れる。

   「友松」の「龍」は「北野天満宮・勧修寺」等、多数残されてい

   るそうです)

 

 

 

   この後、「大雄苑」のお庭を拝見したら「渡り廊下」を経て「法堂

   天井」に描かれた「小泉淳作筆・双龍図」を見に参ります。