「京都・花見小路」から「臨済宗建仁寺派大本山 東山建仁禅寺」

   に伺います(「建仁寺」は「けんにんじ」と読むが、「けんねん

   はん」と 京都の人々は呼んでいるようです)

   開基は「源頼家」、開山は「栄西」、「京都五山」の第三位。

   令和6年・2024年「甲辰」、「辰年」に因んで「法堂天井図

   ・小泉淳作 双龍図」「方丈襖絵・海北友松 雲龍図」を 拝見に参

   りました。

 

   「東山建仁禅寺と栄西禅師」

   開山「栄西(法名:栄西、道号:明菴、房号:葉上房、諡号:千

   光国師、尊称:栄西禅師)」は、久安4年(1148)14歳で

   「比叡山延暦寺」にて出家得度して「天台宗教学と密教」を学び

   「天台密教葉上流流祖」となるが、次第に形骸し貴族政争の具と

   なった「天台宗」の立直しを、当時「南宋」で繫栄していた「禅

   宗・禅」を以って 図るべく、仁安3年(1168)と 文治3年

   (1187)の二度「南宋」に渡り、二度目の渡航の際に「臨済

   宗黄檗派虚庵懐敝(きあんえじょう)」に参禅師事し、建久2年

   (1191)「虚庵」から「印可(師匠の法を嗣いだと云う証明)

   を受け「明菴」の号を授かり帰国するが、当時の京都は「比叡山

   延暦寺」の勢力が強く「禅寺」を興す事は難しいと考え、建久6

   年(1195)九州博多に「聖福寺(安国山聖福至仁禅寺)」を

   建て(元久元年(1204)「後鳥羽天皇」より「扶桑最初禅窟」

   と云う日本最初の禅寺であるとの勅額を賜っています)

   「栄西」は、自身が「真言宗」の印信(いんじん、師僧が秘法を

   伝授した証拠として弟子に授与する書状)を受け、「禅」が既存

   宗派を否定するものではないと調和・牽制を行い、仏法復興に重

   要であると説くが、今だ京都での布教には壁があると限界を感じ

   後に鎌倉に移り、正治2年(1200)「源頼朝一周忌」の導師

   を務め、「北条政子」の援助で「亀谷山寿福金剛禅寺」の開山と

   なります。

   建仁2年(1202)「鎌倉幕府二代将軍・源頼家」の援助を得

   て 京都に「建仁寺」を建立し、以後「幕府・朝廷」の庇護を受け 

   禅宗振興・「臨済宗の拠点」となります(京都最古の禅寺)

   その伽藍は「宋国・百丈山(「百丈懐海」が入山「郷導庵(百丈

   寺)」を創建した、初めての独立した「禅宗寺院」)」を模して

   造営されたとか。

   (創建当時の「建仁寺」は「止観院(天台宗)・真言院」を構え、

   「禅宗・天台宗・真言宗」の 三宗兼学・三宗並立の寺であったと

   云います。 これは当時の京都では「真言・天台の既存宗派勢力」

   が強大であった事を示しているとされます)

   「栄西」は「宋」で入手した「茶の種」を持ち帰り「肥前霊仙寺」

   にて栽培を始め、貴族だけではなく 武士や庶民にも「茶を飲む習

   慣」を広め「茶樹の栽培」を行い 後に「茶祖」と称されています。

 

   「塔頭と末寺」

   現在残る「塔頭」は「正伝永源院(前身:正伝院・永源院 別塔頭)

   常光院・清住院・興雲庵・堆雲軒・久昌院・禅居庵・大中院・西

   来院・両足院(知足院と寮舎の也足軒が合併)・霊洞院(僧堂 専

   門道場)・大統院・霊源院・六道珍皇寺(境外塔頭)の 14塔頭、

   また「高台寺」や「八坂の塔 法観寺」等は「建仁寺」の末寺とか。

 

   「境内建物・門の 建立・再建・移築」

   「戦火・焼き討ち・類焼」を」含め、度重なる火災によって創建時

   の建物は失われてしまったようです。

   「法堂」は ご本尊を安置する「仏殿」と 講堂にあたる「法堂」を

   兼ねている「建仁寺・本堂」で、明和2年(1765)の再建。

   「庫裏」は「本坊」で、文化11年(1814)の再建。

   「方丈」は 長享元年(1487)の建立で、慶長4年(1599)

   「安芸国・安国寺」からの移築(創建当初の「杮葺」から元文元年

   (1736)に「瓦葺」に改められたが、昭和9年(1934)の

   「室戸台風」で倒壊し 昭和15年(1940)に「杮葺」で復旧、  

    昭和37年(1962)に「銅板葺」に改め、更に 平成25年に

   「杮葺」に再び戻しているようです。

   「浴室」は 寛永5年(1628)の建立で 平成14年(2002)

   に現在地に移されています。

   「開山堂」は 「開山・栄西禅師」の墓所で 明治17年(1884)

   の再建。

   「西鐘楼(小鐘楼)」は 寛文12年(1672)の建立。

   「東鐘楼(大鐘楼)」は 元和8年(1622)の再で、「阿羅尼

   の鐘」と呼ばれる梵鐘は「元・河原院」に在ったものとか。

   「向唐門」は 寛文年間(1661~1673)の建立。

   「北門」は 寛永年間(1624~1645)の再建。

   「西門」は 文化年間(1804~1818)の再建。

   「三門(望闕楼)」は 静岡県浜松市(旧浜名郡雄踏町)「安寧寺」

   から 大正12年(1923)に移築した江戸時代末期の建築。

   「勅使門」は 「平教盛」もしくは「平重盛」の館門を「応仁の乱」

   後に移築したと云われ、様式的には鎌倉時代末頃の建築と思われる。

   「柱や扉」に、矢が刺さった痕跡があり「矢の根門・矢立門」とも

   呼ばれるそうです。

 

   「花見小路」を進み「北門」から境内に入ると、まず目に入るのが

   「西鐘楼(小鐘楼)」

 

 

 

   「方丈」に向かいます。

 

 

 

   「俵屋宗達筆 風神雷神図」

   金地の二曲一双屏風のそれぞれに「風神」と「雷神」が描かれる。

   「国宝・原本」は「京都国立博物館」に寄託されています。

   (2011年の作品から、更なる 最新・最先端の技術を駆使して

   新しく制作した「高精細複製品」で、「42億画素の高解像度!」

   を 専用の和紙にインクジェットプリンターで12色印刷し、京都

   の職人が金箔を貼り、表装を手掛けたと云います)

   (京都の豪商「打它公軌(糸屋十右衛門)」が「建仁寺派 妙光寺

   再興」の記念として「俵屋宗達」に 製作依頼をしたもので、後に

   「妙光寺」から「建仁寺」に寄贈されたとか)

   (「俵屋宗達」は「本阿弥光悦」と並び「琳派の祖」と云われる。

   しかしその生涯は不明なところが多いようです)

 

 

 

 

   「小書院」に向かうと「〇△□乃庭」に(あれ、三枚の写真共に

   「△」が写っていませんね)

 

 

 

 

 

   「小書院」の「掛け軸」も「〇△□」です。

   「〇△□」と云う単純な三つの図形は「宇宙の根源的形態」を示し

   「禅宗の四大思想『地(□)・水(〇)・火(△)・風』を象徴し

   たものだとも言われるとか・・・あれ「風」は? 「風」は、肌で

   感じものと云う事かな、「半月」だとも云うが」

 

 

   「襖絵」は「染織作家・鳥羽美花さん」の「凪」と「舟出」

   (「ヴェトナム・バンロン」の水辺風景が描かれているとか)

 

 

 

 

 

 

   「壁紙」には「建仁寺寺紋・二引き五七の桐」が見えます。

 

 

 

   「隠れているのは 誰?」・・・この左手にある「渡り廊下」は

   「冨春閣」に向かうが、「立入禁止」でした。

 

 

 


 

   「建仁寺 2」に続きます!