「京都花街・祇園 京菓子・鍵善良房」、店の奥に在る「喫茶室」

   で「くずきり」を戴こうと・・・。

   「あっ、空いてる! 珍しく席が空いている!」

   江戸期 享保年間に 創業し 一般客・茶人・僧侶・お茶屋や料亭に

   出入りする文人墨客・旦那衆・花街の女性たちにも「京菓子」を

   提供してきた、行列のできる人気店ですが、今日は本当に珍しく

   席の確保が出来ました。

 

   「鍵善良房とくずきり物語」

   創業時期は特定できていないが、享保11年(1726)と記さ

   れた「漆塗り螺鈿模様の菓子外箱」が残っている事から、少なく

   ても「享保年間」には「菓子」を扱い、約300年になると考え

   られていましたが、最近蔵から古文書が出て来て、一番古い物で

   「元禄3年」、元禄8年(1695)の物には「繩手四条上ル」

   「鍵善」と云う屋号が読み取れましたので、更に調査が進む事で

   創業期が「享保年間」ではなく「元禄年間」となる可能性も。

   「鍵善良房」と云う「屋号」の由来も明確ではなく、江戸期代々

   の当主の名にあった「善」の字を用いて「鍵善」と云う「屋号」

   となり、「鍵善良房」としていたが、明治期に「鍵善」となって

   その後「良房」を戻して、現在は「鍵善良房」になっています。

   「古文書」にもあるように、創業した場所は「繩手四条上ル」で

   あったが、明治になって「四条通拡張」の際に現在の場所に移転

   しています。

   昭和に入ると店は大いに活気づき、盛んになった「民芸運動」を

   店の調度・意匠にも取り入れ、「文化人サロン」のようだったと

   云います。

   しかし昭和17年(1942)に12代目店主「善造」が亡くな

   り「太平洋戦争」の激化から一旦店を閉め、昭和30年(195

   5)終戦後の混乱が収まった頃に営業を再開し、以前同様に界隈

   の寺社や料理屋などに菓子を配達していましたが、食後のデザー

   トにした「くずきり」が口づてに評判を呼び、店先でも販売して

   やがて店の二階で食べて戴く事を始めたようです。

   当初は「喫茶室」には程遠い、丁稚・女中の寝泊まりする細長い

   部屋でしたが、1970年代になると「鍵善と云えば くずきり」

   と日本各地からの客が来店したとの事です、

   「鍵善」のありようは「花街・祇園」とは切り離して考えられず、

   祇園に来た人々は「清水寺」にお参りし、三年坂を降りて下河原、

   次いで「八坂神社」にお参りしてから、「四条通」に繰り出して

   「芝居」を見たり(江戸初期につくられた芝居小屋が七座あった

   と云います)お茶屋で遊んだりしたと、芸能の色濃く、宗教・遊

   興も渾然一体となっていたようです。

   そして「祇園の仕出し文化」、お茶屋は料理を作らず仕出し屋が

   料理を菓子屋から菓子を取り寄せますので、菓子屋はお茶の準備

   を頼まれると、お鉢に生菓子を盛合せ、抹茶茶碗を始め道具一式

   の貸し出しをするものだったようで、菓子箱や行器が煌びやかな

   のは その為だったようです。

   「江戸期・創業期」の代表的な菓子は「落雁・菊寿糖」で、故事   

   「菊慈童」に因み「菊の花」を象った干菓子、滑らかな口溶けは

   「阿波和三盆」ならではと云われて、昭和初期の未だ「和三盆の

   干菓子」が一般的ではなかった頃に「茶人や通人」の間で人気が

   あったと云われます。

   また昭和初期になって「くずきり」が誕生し、戦後になって銘菓

   と賞され「鍵善の代名詞」として人気を博した。

   「くずきり」の「葛」は「国産・天然・吉野葛本葛粉(奈良吉野

   大宇陀町・森野吉野葛本舗・吉野晒し)を使用」、黒蜜の黒糖は

   「波照間島産」を使用して、注文してからその場で作り、つるん

   とした喉越しと弾力のある歯ごたえを提供しています。

 

   「菊寿糖」

 

 

   「黒蜜くずきり」

 

 

 

 

   「『鍵善の葛切り』美味しかったなぁ~」と「喫茶室」を出よう

   とすると大行列が出来ていました! やはりラッキーだったんだ。

 

 

   「花街」を中心に「正月玄関飾り・家守の鍾馗」を見て回ります。

 

 

 

 

 

 

   「京都の家の屋根」を見上げた事って、ありますか?

   私は「鐘馗さん探し」で、良く見て歩きます。

 

   「鍾馗」は、中国民間伝承に伝わる「道教系の神」とされます。

   その「民間伝承」とは・・・・・。

   中国「唐」の時代、第六代皇帝「玄宗」が「瘧(おこり)」に

   罹り(マラリア)病に臥し、高熱の中で「夢」を見ます。

   「宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、何処からともなく大鬼

   が現れ、その小鬼を捕えて食べてしまいます。 玄宗が大鬼に

   正体を尋ねると・・・・」または「一匹の小鬼が現れ、玄宗の

   玉笛と妻・楊貴妃の匂い袋を盗もうとします。 鬼の手が玄宗

   の体に掛かろうとした時、髭面の大男が現れて小鬼を引き裂い

   て、あっと云う間に退治をしてくれます。 玄宗がその大男の

   名を聞くと・・・・」

   「終南県出身の『鍾馗』」と名乗り、「玄宗」に跪いて「科挙

   で合格する事が出来ず、それを恥じて宮中で自ら命を絶ったが、

   それを咎める事なく『高祖皇帝』は 手厚く葬って下さり感謝を

   している。 その恩に報いるために遣って参りました」と応え、

   「夢」から覚めると、「玄宗」は病が癒えて元気になっている

   事に気が付いて、感じ入った「玄宗」は「画家・呉道玄」に命

   じて「自分が見た、髭面の大男」を描かせたと云います。

   「鍾馗」が鬼を退治し帝の病が癒えたと云う話が国中に広まり

   「鍾馗」は「道教の神」として祀られ、臣下の者たちは「除夜」

   に「鍾馗図」を下賜され、「邪気除け」として 新年を迎える門

   に貼ったとか。(後に「端午の節句」の厄除けとされたとも)

   「日本」にも「鍾馗・鍾馗図」が伝わり、江戸時代末期の 関東

   では「鍾馗」を「五月人形」に加えたり 近畿では「魔除け」と
   して「鍾馗像」を 屋根に置く風習が見られるようになったと云
   います。
   京都、特に「花街」では現在でも屋根の軒先に「瓦製の鍾馗像」
   を見る事が出来ます。
   これには訳が在るのだそうで・・・昔 三条の薬屋が屋根に立派
         な「鬼瓦」を葺いたところ、向かいの家の住人が 原因不明の病
   に倒れ、これは薬屋の鬼瓦に跳ね返った「悪霊 鬼」が向かいの
         家に入ったのが原因ではないかと考えて、「鬼」より 強いのは
   「鍾馗」だと、「鍾馗像」を作らせて「屋根」に上げ据えた処、
   その住人の病は完治したのが謂れとされます。
   (ご近所同士が「鍾馗の 睨み合い」をしないように「真正面」
   を向けないようにするとか「微笑み返し」として「お多福」を
   対面に据える場合もあるとか・・・私、「お多福」は 未だ見て
   いませんね。 花街に多いのは「舞妓・芸妓を抱える 女性社会」
   を守る為とか、「鍾馗」は「商機」に通じると「商売繁盛」の
   願いも込められているとも云うようです)