『那須岳とサントリー角瓶』
多分誰も書いてないし、そんなことを言ってる酒好家とアルピニストもいない。おそらく自分が最初に書く。
高度(標高)に応じて、身体が欲する或いは美味いと感じる酒の種類は変わる。概ね1000メートルまで(奥武蔵、高尾、筑波)は、ビールやチューハイなどの喉越しを楽しむ炭酸系でいい。アルコール度数も5あたりで十分だ。1000から1500メートルに上がる(丹沢、那須、会津磐梯)と、にわかに赤ワインが美味くなる。1500から2000メートル(奥秩父、上高地、広河原)では、赤ワインの後に少しウイスキーが欲しくなり、さらに2000から2500メートルを越える(日本アルプス稜線部)頃には——これは殆ど北アルプスや南アルプスを縦走するときになるが——ウイスキー角瓶の“キ”(生のまま)か、ブランデー、もしくは欲を言えばスピリタスのような、喉を焼く強い酒しか愛せなくなる。度数は20以上でちょうど良い。ガブ飲みするのでなく、星空を眺めながらチビリやるのがたまらなく嬉しい。

よく立ち寄る双六山荘の缶ビールも生ビールも、あの高度まで来れば、もはやただの水分補給だ。何本飲んだと酔いはやってこない。本当の「酒」は、テントに戻ってから始まる。ザックに入れて遥々槍の肩を越え、西鎌尾根を縦走してきた自分へのご褒美に、とっておきのウイスキーをチビリチビリとやる。これこそが「山や」の極楽であり、アルプス縦走の醍醐味だ。「山でのアルコールはご法度だ」と、小うるさいことを言う奴(馬鹿)がいる。山岳雑誌『山と溪谷』や『岳人』で偉そうな御託を並べている。くたばっちまえ、だ。私は、そんな人間は人生を大いに損していると思う。酒が飲めるということは、間違いなく人生のプラスだ。ましてや、標高3000メートルの稜線、テントの中で角瓶をすするあの至上の幸せを味わったことがない人は、少なくとも私より人生を楽しめていない——。そう、断言していい。

長年登山をしてきた、持論だ。いくつの山を越え、どれだけの夜を越えてきたか分からない。その積み重ねた夜の中でも、先日の那須岳での一夜は、私のこの確信をより深く、決定的なものにした。なぜ標高によって、これほどまでに求める酒が変わるのか。理由は明確だ。気圧の低下と、それに伴う肉体の飢餓、そして環境の持つ妖気が、アルコールの受け入れ皿を変えてしまうからだ。下界に近い1000メートル付近までは、身体はまだ俗世の延長にある。渇きを癒すための水分と爽快感、つまりビールの「喉越し」を求める。しかし、1500メートルを越えると世界は一変する。気圧が下がり、空気中の酸素が薄くなり始めるこの高度では、人間の味覚や嗅覚はにわかに過敏になる。ビールのような炭酸は胃を圧迫して不快感に変わり、代わりに身体は、渋みと深みを持つ「赤ワイン」の濃厚なポリフェノールと糖分を、乾いたスポンジのように吸収し始める。細胞が、より密度の高い栄養と刺激を求め始めるのだ。そして2000メートルを超え、3000メートルの稜線へと肉体を追い込むにつれ、山は牙を剥く。体温は奪われ、酸素の薄さは心肺を痛めつける。ここまで来ると、ワインの水分すら微温(ぬる)く感じられるようになる。肉体が求めるのは、もはや「味」ではない。五臓六腑を瞬時に沸騰させ、凍える四肢へダイレクトに熱を送り込むための「純粋なアルコール」だ。ウイスキーの“キ”やスピリタスが、喉を焼き、胃壁を焦がしながら血管へと溶け込んでいく。その刹那、薄い空気の中で脳が覚醒し、生きている実感が強烈に五感を支配する。標高が上がるということは、肉体が極限へと近づくということであり、それに応えるには、より度数の高い、純度の高い「命の水」が必要不可欠なのだ。そもそも、酒を飲むという行為は、単なるアルコールの摂取ではない。それは退屈な日常である「ケ」の領域から、神聖で非日常的な「ハレ」の領域へのシフトを意味している。酔うほどに、己のなかの、ある種の感覚が異常に研ぎ澄まされていくのがわかる。私の場合、おどろおどろしい霊感の類いはない。しかし、酒が脳を揺らすとき、なぜかイマジネーションの翼が音を立てて猛烈に伸び、闇の向こうへと羽ばたき出すのだ。残念ながら、山にパソコンは持って上がれない。そして、いかに素晴らしい閃きが脳裏をよぎろうとも、極限の疲労のなか、飲んだ後にわざわざ筆を取ってノートに書きつけるのはひどく億劫で、カッタルイものだ。これまで、山の夜に、あのアルコールの微睡(まどろ)みのなかで、どれほど極上のホラーや、緻密なミステリー、壮大なSFのアイデアを思いついたことだろう。しかし、その大半は文章として残されることなく、翌朝の朝露とともに消えていった。残せなかったあの幻の傑作たちのことを思うと、今でもひどく悔やまれてならない。

那須岳登山口の駐車場でクルマのエンジンを切り、車中泊を決め込んだ。灯りをすべて消す。薄ら寒い窓の向こう、標高1500メートルの闇は、生き物の気配を完全に拒絶していた。夜の底へ、底へと沈んでいくような異常な静寂。自分の心臓の鼓動だけが、耳元でやけに大きく、不規則に響く。息を一つ立てることさえ、この空間にとっては「許されざる冒涜」のように思えてくる。那須岳の深夜には、何度来ても脳を狂わせる不可解な魔力があった。それもそのはずだ。この那須高原の暗闇には、数々の悍(おぞ)ましい呪いがとぐろを巻いている。すぐ近くには、呪われたように数年でふたたび腐り落ちた「那須ホテル」の巨大な廃墟が、窓という窓を黒い眼窩のように開けて聳え立っている。九尾の狐の怨念を宿し、真っ二つに割れた「殺生石」は、今この瞬間も地を這う毒を吐き出しているはずだ。三斗小屋温泉の殺人事件、姥ヶ平の死の池、地図から消された登山道……。この地は、古くから死者と妖気が這い回る、底なしの心霊地帯だった。まわりに車は1台もない。漆黒の闇に包まれた、自分だけの特等席。ガラス一枚隔てたすぐ向こうに、目に見えない「ナニカ」がへばりつき、こちらを覗き込んでいるような濃厚な悪寒が背筋を走る。だが、私は怯えない。この極限の恐怖と気圧が生み出す、狂おしいほどのイマジネーションの冴えこそが、最高のスパイスだ。素面(すめん)でいられるはずがない。私は闇を睨みつけながら、ザックから獲物を引き抜いた。赤ワインと、サントリーの角瓶だ。まずは赤ワインをシェラカップに注ぐ。血のように赤い液体の芳醇な香りが、冷え切った山の妖気にふわりと立つ。口に含むと、1500メートルという気圧のせいか、あるいはこの恐怖のスパイスのせいか、驚くほど五臓六腑にしみわたり、美味い。やはり1500メートルは赤ワインの領域なのだ。解き放たれた感覚のなかでワインを干した後は、いよいよ真打ち、角瓶の出番だ。琥珀色の液体を“キ”のまま喉に流し込む。カッと胸が熱くなり、血管の中で冷え切っていた血が音を立てて滾(たぎ)り始める。心霊スポットの冷徹な闇を、胃の腑から込み上げるアルコールの熱量で撥ね退けていく。自分と、あるいは闇の奥に佇む那須岳に乾杯を捧げながら、トコトン飲む。この贅沢を知ってしまえば、山で酒を飲むなという綺麗事など、霧の彼方に吹き飛んでしまう。そして私の脳内では、またしても書き残されることのない、恐ろしくも美しい物語の翼が羽ばたきを始めていた。時計の針が深夜を回る。明日からは3連休が始まる。夜が明ければ、この静寂は嘘のように消え去り、登山客を乗せた無数の車でこの駐車場は溢れかえるに違いない。想像しただけでゾッとする。私はお化けの出る廃墟ホテルや妖気漂う登山口よりも、俗世の混み合う「ヒトの渦」のほうがよっぽど怖い。生霊の群れのほうが、よほどおぞましい。
怪異の潜む嵐の前の静けさを独り占めし、美味い酒で血を沸かせ、独り善がりのアイデアを闇に置いていく、あの那須高原の夜。
私のザックには、今もあの夜の冷たい空気と、確かな重みの角瓶が詰まっている………

