さて、夏季休暇中の僕の研究課題は、海洋古典文学の集中読書でした。この夏は、怪奇&SF&冒険を中心に、慣れ親しんだ作品を読み直ししてきました。
ひとまず、今回はこれで区切ります。もう、あと2週間で海洋大後期(第3クオーター)が始まり、再び授業に追いまくられる日々になりそうなためです。履修登録が来週からオンラインで始まります。選択科目を決定し、早目にテキストを購入して予習をしなければなりません。前学期に演じてしまった阿鼻叫喚をもう2度と繰り返してはいけません。
まだまだ海洋文学の世界は広くて、1ヶ月の休み程度ではとてもカヴァーしきれませんでした。なので、続きは4ヶ月後の冬季休暇期間に引き続き再開します。研究途上の押川春浪(海底軍艦)を最初にレポートし、続いてメルビル(白鯨)、デフォー(ロビンソン・クルーソー)、スウィフト(ガリバー旅行記)、ヴェルヌ(海底二万里、悪魔の発明)、井伏鱒二(ジョン万次郎漂流記風来漂民奇譚)、本多勝一(アムンゼンとスコット)、グリル(シャクルトンの大漂流)など巷間知名度の高い作品群について、僕なりの視点で読み解いて行きたいと思います。
とりあえず、今回で夏の海洋古典文学探訪記のシメとさせて頂きます。


僕の人生で最初に読んだ海洋小説は、女流作家・野上弥生子の海難小説『海神丸』である。

中学入学して間もない頃、少ない財布の中身と相談して買い求めたのが、書店の棚にあった一番安い文庫のこの作品だった。僕は、その頃病的に潔癖性で、図書館の手垢のついた本が嫌いだった。読みたい本は、親に泣きついてでも、書店から購入してむさぼり読む習慣だった。裕福ではなかったが、幸い両親の理解があって読書環境は並以上だったと思う。


この本は、1922年に発表された彼女の処女長編小説である。この作品の特筆すべき点は、実際に起きた海難事故を基にしているという点である。

大分県下の漁村から出航した小帆船「海神丸」(実在の船は「高吉丸」で、高吉丸事件として歴史に残る)が難破し、数十日間にわたる漂流の末に飢餓状態に陥った乗組員たちが、仲間の一人を殺害してその肉を食べようと企てる話だ。極限状況における人間の姿を息詰まるような筆致で描くこの作品のテーマは、すばりカニバリズム。 作者である野上弥生子自身が、「実家の弟が伝えてきたメモに基づいてわずか虚構化したに過ぎず、船長、若い甥、それを食おうとして殺した二人の船頭、すべてが実在の人物である意味で、私にはたった一つのモデル小説である。」と語っているように、そのリアリティは読者に強烈な衝撃を与える。この作品は、発表から半世紀後に作者がこの船を救った人物と出会い、「後日物語」も書かれている。


『海神丸』の最も衝撃的なテーマは、繰り返しになるが、カニバリズム(人肉食)だ。人間が犯す罪の中で、殺人や近親相姦以上に「人肉を食べること」は、最も強いタブーとして認識されている。食料が尽き、飢餓に苦しむ極限状況において、人間が人肉を食らうという行為は、人間の尊厳、道徳、倫理といったものを根底から揺るがす問いを投げかける。

 作中では、遭難した海神丸の乗組員4人のうち、五郎助と八蔵が、船長の甥である三吉を殺し、その肉を口にするのかどうかという描写が中心に描かれている。極限状況下で「人間はどんな味がするのか?」という会話が交わされる場面は、読者に恐怖と同時に、人間性の脆さを感じさせる。

実際の事件では、救助された乗組員は3人で、残りの1人は病死したと証言されているが、その裏に隠された真実は、まさに文学的な探求の対象となりうる。船長はカニバリズムを否定し、三吉殺害の理由は分け前を増やすためだと語ったとされているが、真実は神のみぞ知るであり、この曖昧さこそが、この作品の深みを増している。


 『海神丸』は、戦争文学とも言える大岡昇平の『野火』(1951年)、そして武田泰淳の『ひかりごけ』(1954年)と共に、”人肉を食べること”をテーマにした作品として語られることが多い。これら三作品に共通しているのは、物語として完全に作り出されたフィクションではなく、実際にあった事件や出来事がネタになったという点である。 

『野火』ではフィリピンのレイテ島の戦場における飢餓、『ひかりごけ』では『海神丸』と同様に北海道知床半島突端での陸軍徴用船の遭難における飢餓が描かれている。

しかし、『海神丸』がこれらの作品に先駆けて1922年に発表されていることは、そのテーマに対する野上弥生子の先見性を示している。彼女は、単なる実録文学に留まらず、この重いテーマを文学作品として昇華させた。抑制の効いた知的で骨太な文体は、男性的な印象さえ与える。 

ちなみに、野上の夫は夏目漱石門下の作家で、彼女も都合上、「漱石の弟子」ということにされている。女弟子の存在は、漱石先生のもとに集う文人たちの間ではかなり珍しかったに違いない。

野上は、99歳で亡くなるまで生涯現役の作家として活躍し、『海神丸』のような問題作を通して、人間としての生き方を問い続けた。明治、大正、昭和と波乱の時代を生き抜いたその作家としての生き方は、相反して質素で静謐なたたずまいだったという。


『海神丸』は、1962年には新藤兼人監督によって『人間』というタイトルで映画化されている。新藤監督らしい題材選択である。これもまた、この作品が持つテーマの普遍性と、社会に与えた影響の大きさを物語るものだ。映画においても、極限状態での人間性の崩壊が描かれ、多くの人々に衝撃を与えたという。残念ながら、僕は、この映画はまだ観ていない。


 海難小説『海神丸』は、実話に基づくカニバリズムという究極のタブーを扱いながらも、人間の生に対する執着、人間の尊厳、そして極限状況における倫理観といった、深く普遍的な問いを投げかける作品である。

綿密な調査に基づく事実把握の重みは、現代においても作品に威厳を与え、その価値は時代を経ても色褪せることなく、読者に強烈な印象を与え続けている。