東京タワーに巣食ったモスラの繭を焼き払うために搬入されたロリシカ国の超兵器。
この世のすべてを焼き尽くせる人類最終兵器。
名付けて、原子熱線砲📡⚡️

ロリシカの国際ビジネスブローカー・ネルソン氏が招いた世界的災厄。
インファント島から誘拐された小美人を奪還するため、遥々太平洋を北上したモスラの怒りが、日本を襲う。
ロリシカ政府は自国民が冒した罪の責任を認め、日本政府に超兵器の提供を申し入れた。そして………

溜池山王付近(現在の日枝神社あたり?)に設置された原子熱線砲から、10,000K(=プラズマレーザーの最低温度)を超えるエネルギーの塊が照射される。
その光景を固唾を飲んで見守る記者達は、バイザー越しに人類の勝利を確信したが…………

初公開から、今月末で満64年。
僕の生まれた年のちょうど2年前に、全世界一斉公開された。
改めてこの映画を観返すと、新たな発見が多い。
街の様子が大きく様変わりした。
土埃が立なくなり、空が狭くなった。庶民の暮らしが見えなくなり、焼き魚の焦げた匂いがどこからも伝わらなくなった。井戸端、という言葉が死に絶えてしまった。
原子熱線砲がランチされたあたりは、松本隆・著『微熱少年』に描かれた“風街”から西にやや外れてはいるが、まさしく昭和の“風街”界隈だ。
平成のはじめ頃に六本木再開発が始まり、風街が次第に存在しにくくなった。地元から人々の生活の息遣いが消えたことによる。タワーマンションと呼ばれる鉄の要塞の中で息を潜める暮らしの一体どこに、風が吹き抜けていくというのだろう。
もし、またモスラがやって来て東京タワーやスカイツリーに繭を張っても、高いビル群が邪魔して、原子熱線砲を撃つことができない。原子熱線砲は、今の東京では役に立たない。
松本隆氏の風街は、文学の中でしかもはや知ることがかなわなくなった。
三田の学生の頃、僕は三田から信濃町、四谷までの区間を頻繁に彷徨していた。
夏の盛りに、飯倉片町の坂を登っりきって、大きく左折し、警視庁警官らが24時間立哨を固めるソ連大使館の前を通る。そして、麻布、乃木坂、六本木、青山と一直線にアスファルトの照り返しの中を進む。風街のドテッ腹を貫くように都会の盛り場をいくつも過ぎて歩く。
憩える公園なんかどこにもない。その頃はまだコンビニもそうはなかった。命の綱は、自販機のキンキンに冷えた瓶コーラだけだった。でもそれだけでよかった。コーラだけ飲んで、夏休みの1日が終わることなど、ざらだった。
コーラに生かされていた。
東京のよどんだ大気が凸レンズの効果を出すのか、ギラっギラの太陽が街を白濁化したハレーションで包み込み、まるで乱歩が描いた『押絵と旅する男』の魚津の蜃気楼のようだった。
灼熱と排気ガスとにむせ返り返りながら、この街を意味もなく往復していた。
21歳。ジプシーみたいな生活をしていたんだ。
新学期が始まると、僕は学生手帳の最後に付いている
東京の地図を開く。そして、赤坂と青山と六本木とを
鉛筆で結び、その三角形に切り取られた
狭い範囲に“風街”と名前をつけた。
もちろん実際にはそんな地名の街はない。
それは僕の心の中だけにある街だ。
その街の境界線は絶えず動いていて、たとえば、
新しく道ができれば広がり、家が壊されて空き地になるとその部分が内側に引っ込んだりもした………
(『微熱少年』第2章“君の名を呼びたい”より)
『モスラ』を攻撃した原子熱線砲が配置された溜池山王と、『微熱少年』の“風街”は、僕にとって青春のメモリーでもある。








